第123話 エリーゼとのお茶会
「あらぁ! 楽しそうなことをしているのね!」
華やかな声とともに、庭へとやってきたのはキールの母、エリーゼだった。
「母上」
すぐに気づいたキールが立ち上がって声をかける。
「ルーチェさんが、水魔法で泡のボールを作ってくれたのですよ」
「まあ、そうなのね! ふふ、ルークったら嬉しそう」
エリーゼは微笑みながら、庭で遊ぶ二人を見つめる。
ルークとオルトは、大きなシャボン玉を使った風船バレーに夢中で、エリーゼに気づく様子もない。
そんな中、ルーチェはふとオルトの表情に目を留めた。
わずかにではあるが、その口元がゆるんでいるように見える。
「……良かった。楽しそう……」
小さく、安堵するように呟いたその声に、エリーゼが軽くうなずいた。
「ルーチェちゃん。後で、私とお茶しましょうね?」
「っ…! 分かりました、エリーゼ様!」
背筋を伸ばして答えるルーチェに、エリーゼはにっこりと笑ってみせる。
その横でキールが尋ねた。
「ルーチェさん。あの魔法は、どれくらいで消えてしまいますか?」
「えっと、そうですね……。割れないようにけっこう魔力を込めたので、あと数時間は大丈夫だと思います」
「それなら良かったです」
ルーチェとキールは、無邪気に遊ぶ少年たちの姿をしばし見守っていた。穏やかな午後の陽射しの中、シャボン玉が虹色の光を弾ませながら宙を舞っていた。
ルークとオルトのボール遊びはしばらく続いていた。庭には笑い声が響き、ボールが跳ねる軽やかな音が心地よく混じっている。
少し離れた裏庭では、テオが黙々と剣の素振りをしていた。普段の飄々とした態度とは裏腹に、騎士としての日課を欠かさずにこなしている姿は、遠目にも真剣そのものだった。
「ふふ、お子さまたちはキールにお任せして、私たちはこちらへ行きましょうか?」
エリーゼが優雅に微笑み、ルーチェの手をそっと取った。
「は、はい……!」
ルーチェは少し緊張しながらも、エリーゼの後に続く。
案内されたのは、日差しがやさしく差し込む温室風のサンルームだった。テーブルにはすでにティーセットが整えられ、香り高い紅茶の湯気が立ち上っていた。季節のフルーツと焼き菓子も添えられている。
「どうぞ、お好きな席へ。こちらの紅茶、王城にも卸している銘柄なのよ」
「わあ…ありがとうございます」
ルーチェは席につき、カップを手に取った。ほんのりと甘い香りに心がほどけていく。
「いい香りですね……」
エリーゼはルーチェの向かいに座ると、さっそく紅茶を口に運んだ。
「……さて、ルーチェちゃん。あなたにいくつか聞きたいことがあるのだけれど」
「えっ…はい、なんでしょうか?」
少し身構えたルーチェに、エリーゼはくすっと微笑んだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。まずは……キールと旅をしていて、困ったことはないかしら?」
「あっ、はい。えっと、キールさんもテオさんも、すごく頼りになります。私一人じゃきっとできないことも、二人がいてくれるからこなせていて……」
「ふふ、よかった。あの子、ちょっと真面目すぎるところがあるから心配だったの。でも、あなたと一緒なら、ちゃんと笑える時間もあるのでしょう?」
ルーチェは思わず少し照れて、紅茶のカップで口元を隠した。
「……そうだと、いいんですけど」
エリーゼは柔らかくうなずき、少し視線を遠くに向ける。
「それにしても、オルトくん……あの子、何か事情を抱えているのよね?」
「……ええ。まだ詳しくは分からないのですが……」
「ドレステルで、奴隷として売られそうになっていた……カイルからはそう聞いているわ」
「はい。助けた後は一緒に行動をしています。……でも、正直に言うと、どうすればいいのか、まだ決められていないんです。ずっと一緒にいることが良いのか、どこか安全な場所に預けるべきなのか……」
エリーゼはルーチェの手に、そっと自分の手を重ねた。
「ルーチェちゃん。あなたは、あの子のことを大切に思っている。それだけで、きっとオルトくんにとっては、かけがえのない存在なのよ」
「……ありがとうございます、エリーゼ様」
ルーチェは小さく息を吐いて、微笑んだ。
「私に何ができるのかは分かりませんが、……もう少しだけ、できることをしてみたいと思います」
「ええ。それが一番よ」
優しい日差しの中、紅茶の香りとともに、静かであたたかな時間が流れていった。
エリーゼは思い出したかのように口を開いた。
「そういえばルーチェちゃん。キールのこと、どう思っているのかしら?」
「え……どう、とは…?」
「……私の息子、かっこいいと思う?」
直球な質問に、ルーチェは頬を染めてしまう。
「……は、はい。とても……かっこいいと思います。キールさんは優しくて、いつも丁寧にいろんなことを教えてくれて、守ってくれて……」
「そう。ふふ、あの子ったら、どっちに似たのかしらねぇ」
エリーゼは満足げに微笑むと、続けて問いかけた。
「じゃあ、テオくんのことはどう思っているの?」
「テオさんも……優しいです。少し意地悪で、面倒くさがりなところもありますけど……強くて……。私が辛かった時には、いつも以上に優しくて……」
「あらあらまあまあ……そうなのね。ふふっ」
エリーゼの口元には、楽しそうな笑みが浮かぶ。
「ルーチェちゃんは、二人のことを大切に思っているのね?」
「はい、もちろんです……!」
「それじゃあ、オルトくんのことは?」
「まだ分からないことだらけですけど……もっと知っていきたいと思っています。もちろん、大切です」
「じゃあ──」
そう言ってエリーゼはルーチェの胸元へ、そっと人差し指を置いた。
「……ルーチェちゃん自身は?」
「……え? えっと……」
戸惑うルーチェを見て、エリーゼは少しだけ目を細める。
「キールからの手紙に、あなたのことが書かれていたの。あなたはいつも、人のことばかり考えているって。魔物たちのことも、仲間たちのことも。自分のことは、後回しにしてしまうって」
エリーゼは立ち上がると、ルーチェの隣に歩み寄り、優しくその体を抱きしめた。
「周囲を大切に思うのは、決して悪いことじゃないわ。でもね……自分を愛することを忘れちゃいけないの。いちばん最初に、あなたがあなたを大切にしてあげなきゃ、だめなのよ」
「……エリーゼ様……!」
ルーチェはそっと、抱きしめ返した。
(あったかい……お母さんみたい……安心する……)
「たまには、誰のことも考えずに、自分を愛して、労る時間を作るのよ。そうしなければ、いつか潰れてしまうわ。もし、キールたちに頼れない時があれば……私のところに来てもいいのだからね?」
その言葉に、ルーチェの胸がいっぱいになった。嬉しさと、ほんの少しの寂しさに、目頭が熱くなる。
ルーチェは顔をうずめたまま、小さくうなずいた。
エリーゼの母のような優しさに、涙が溢れそうになる。
エリーゼはハンカチを取り出し、ルーチェの目元に浮かんだ涙をそっと拭った。
「……あの、エリーゼ様……」
「……なぁに?」
「私……小さい頃、病気がちで……。ほとんど外に出ることもできなくて……」
エリーゼは黙って聞いていた。
ルーチェは言葉を選ぶようにして、続ける。
「父と母は、私を治すための薬代や、診療所の費用のことで、いつも喧嘩していて……」
その声音は、だんだんと震えていく。
「……私は、両親にとって……“生まれてこない方が良かった子”……なんじゃないかって……」
不安そうに、ルーチェはそっと問いかけた。
エリーゼは一瞬息を止め、ハンカチをテーブルにそっと置くと、両手でルーチェの頬を包み込んだ。
「──それは違うわ。ルーチェちゃん」
その言葉は、まっすぐで、少しも揺らぎがなかった。
「子供が可愛くない親なんて、いないのよ。どんなに喧嘩していたとしても、どんなに苦しくても……子供は、親にとって何よりも愛おしい存在なの。生まれてこない方がよかっただなんて……そんなこと、絶対にない」
優しいけれど、確かな意志のこもった声だった。
「だから、そんなこと……言っちゃダメよ」
そう言うと、エリーゼは再びルーチェを力強く抱きしめた。
「あなたは、かけがえのない命なのよ」
「……ごめんなさいっ……」
ルーチェは顔をエリーゼの胸に埋めると、堰を切ったように泣き出した。
その涙には、これまで誰にも言えなかった寂しさも、苦しさも、全部が溶け込んでいた。
エリーゼは何も言わず、ただ静かに、優しく、その背を撫で続けた。
ふと、サンルームの扉の隙間から誰かの気配を感じ、エリーゼがそっと目を向ける。
そこには、静かに様子を伺うキールの姿があった。
エリーゼはわずかに首を横に振る。
キールはそれを見て、小さく頷き、そっと扉を閉めた。
エリーゼは再びルーチェへと向き直り、あやすようにその背中を優しく、トントンと叩いた。
ルーチェの呼吸は徐々に整い、少しだけ表情も落ち着いたように見えた。
「……ありがとうございました、エリーゼ様」
「いいのよ。人はね、時に不安になったり、寂しさに押しつぶされそうになるものなの。でもね、一番いけないのは──それを、全部一人で抱え込んでしまうこと」
ルーチェは小さくうなずく。
「……はい……」
エリーゼは微笑んで、ルーチェの目元を見つめる。
「……ちょっと、目の辺りが赤くなっちゃったわね。冷やすものを持ってくるわ。ルーチェちゃんはそのまま、紅茶を飲んでいてね」
そう言い残して、エリーゼは静かにサンルームを出た。
外に出ると、そこにはキールが静かに佇んでいた。
庭の方を覗けば、いつの間にかテオが子どもたちに加わっており、三人で大きなシャボン玉を使った遊びに夢中になっていた。
「……あなたの手紙に書かれていた通り、いえ、それ以上に……本当に優しい子ね」
「はい。私も、そう思っています」
「旅に出るのなら、気にかけてあげなさい。あの子はきっと、素直に弱音を吐けるような子じゃないから」
キールは真剣な表情で頷いた。
「……承知しております、母上」
「ふふ。……じゃあ、冷たいものを持ってくるわ」
エリーゼは優雅な足取りで、屋敷の奥へと歩いていった。
「ルーチェちゃん、戻ったわよ」
エリーゼは、濡らして冷やした布を手に戻ってきた。
そっとルーチェの隣に座ると、その布を優しく目元に当てる。
「…あの、自分で……」
ルーチェが遠慮がちに手を伸ばすと、エリーゼはそっとその手を包み込むようにして制した。
「ルーチェちゃんは、もっと甘え方を覚えなくちゃ」
エリーゼは微笑む。
「それとね、我が家を第二の実家だと思ってくれていいのよ。いつでも甘えに来てね?」
「……はい、エリーゼ様……」
ルーチェは素直に身を預け、目を冷やされる感触に静かに目を閉じた。
しばらくすると、外から子どもたちの声がサンルームへと近づいてくる。
「……あら、来ちゃったみたいね」
エリーゼはそっと布を外し、ルーチェの目元を見つめる。
「うん、大丈夫そうね。腫れもだいぶ引いたわ」
「お手数をおかけしてしまって…」
「ふふ、全然手間なんかじゃないのよ。頼られるって、嬉しいものなのよ?」
エリーゼは心から楽しそうに笑うと、ルーチェの手を取って立ち上がった。
「お姉ちゃん!」
サンルームの扉を開けると、駆け寄ってきたオルトがルーチェの足にぎゅっと抱きついた。
「オルトくん、どうしたの?」
しゃがんで尋ねると、オルトは潤んだ目で見上げてくる。
「気がついたら…お姉ちゃんがいなくて……」
「ごめんね、エリーゼ様と少しお話してたの。……ボール遊びは楽しかった?」
「……うん」
オルトが小さくうなずくと、ルーチェは優しく笑ってその頭を撫でた。
「なら良かった。ルークくん、オルトくんと遊んでくれてありがとう」
「いいよ! ぼくもすっごく楽しかったから!」
無邪気に笑うルークの声が、サンルームに心地よく響いた。
そして――その穏やかな光景を、キールは少し離れた場所から、静かに見つめていた。




