第122話 ルークとオルト
まったりとした時間に終わりを告げるように、コンコン、と静かなノックの音が響いた。
「ルーチェさん、キールです」
ルーチェはベッドから降り、サッと髪を整えてから扉へ向かう。扉を開くと、キールが申し訳なさそうに眉を下げていた。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いえ、今さっき起きたばっかりです」
ルーチェが笑って答えると、キールはふっと優しく微笑み、ルーチェの髪の少し跳ねたところを指先でそっと整えた。
「……少しは休めましたか?」
優しい声音に、ルーチェは思わず赤くなってうなずく。
「は、はい……」
「それは何よりです。実は、ルーチェさんとオルトに紹介したい者がおりまして……今からよろしいでしょうか?」
「分かりました。ノクス!」
呼びかけに応じて、オルトの傍らでお座りしていたノクスがルーチェの元へ来て、そのまま影の中へと静かに沈んでいく。
「オルトくん。行こうか?」
ルーチェが手を差し出すと、オルトはパタパタと歩み寄り、その手をぎゅっと握った。
「では、ご案内しますね」
キールの案内に従い、三人はゆっくりと公爵邸の廊下を進んでいく。
(ここがキールさんの実家……、キールさんが育った家なんだね)
ルーチェが心の中で呟くと、リヒトが柔らかな声で返した。
『……この屋敷には、キール様の歩んだ歳月の匂いがしておりますね、お嬢様』
(……うん、そうだね、リヒト)
ルーチェはオルトと足並みを揃えながら、広々とした廊下や飾られた絵画に目を向けていた。
「ルーチェさん、オルトくん。こちらへどうぞ」
ルーチェとオルトは、キールに案内されて一室に通された。そこには、どこかキールを小さくしたような少年が立っていた。
「紹介します。こちらは、私の弟のルークです」
ルークは小さな足取りでちょこちょこと駆け寄ってくると、ルーチェの前で丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。ぼくは、ルーク・ランゼルフォードと申します!」
ルーチェは膝をついて屈み、微笑みながら応える。
「初めまして、ルークくん。私はルーチェだよ」
「あにうえから聞きました! ルーチェさんは、あにうえと一緒に旅をしてるんですよね?」
「うん、そうだよ。キールさんとテオさんと一緒に旅をしてるの」
そのやり取りを見ていたキールが、軽く弟の名を呼んだ。
「ルーク」
ルークがそっと視線を動かすと、ルーチェの後ろに隠れるようにしていたオルトの姿が目に入る。
「オルトくん、大丈夫だよ。出ておいで?」
ルーチェに促され、オルトはおそるおそるルーチェの隣に出てきた。
「僕……オルト」
小さな声でそう言うオルトに、ルークはぱあっと顔を明るくさせた。
「オルトくん、よろしくね!」
ルークはにこっと笑いながら、手を差し出す。
オルトはちらりとルーチェを見た。
ルーチェは優しくうなずいた。
それを見たオルトは、ゆっくりと手を伸ばして──ルークの手を握った。
「オルトくん、お外で遊ぼう?」
ルークの無邪気な誘いに、オルトはぱちりと瞬きし、ちらりとルーチェの方を振り返った。
その視線には“伺う”気配が宿っていて、まだ完全には抜け切らない過去の影が透けて見える。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に、ルーチェはそっと微笑んでうなずいた。
「オルトくんはどうしたい?」
「遊…びたい。……遊んで、きていい……?」
言葉を慎重に落とすような声。
許可を求める仕草──その小さくすぼめた肩に、どれだけの怯えや遠慮が染みついたのか、想像するだけで胸が痛む。
ルーチェは、できるだけ安心を包みこむような笑顔で答えた。
「もちろんいいよ。私も行くからね」
「! ……うん!」
ぱっと花が咲くように、オルトの顔が明るくなる。尻尾が嬉しさそのままに揺れ、ルークもつられて笑みを深めた。
「じゃあみんなでお外に行こうね」
ルーチェが二人の子どもに向かって言うと、
「「うん!」」
幼い声がぴったり揃って返ってきた。弾むような返事に、空気まで明るくなるようだった。
ルークは握手した手を軽く上下に振ると、にっこり笑った。
「オルトくん、あのね! お庭にね、大きな木があるんだよ! 鳥の巣もあって、時々ヒナが見えるんだ! ……見に行く?」
オルトは一瞬ルーチェの顔を見た。
ルーチェはやわらかく微笑み、そっと背中を押す。
「行ってみたら? すぐそこだし、私とキールさんもここにいるから安心だよ」
オルトは少し躊躇いながらも、コクリと小さくうなずいた。
「じゃあ、こっち!」
ルークはオルトの手を軽く引いて、庭の奥へと進んでいく。後ろ姿を見送っていたルーチェとキールは、そっと顔を見合わせた。
「……あんなふうに、誰かと遊ぶのは初めてかもしれません。オルトくん」
「ルークなら、変に気を遣うことなく接してくれるでしょう。……ああ見えて、性格は母似なので、根はとても世話焼きなんです」
ルーチェは微笑んだ。
「……少しずつでいいから、オルトくんが安心できる居場所を増やしてあげたいです」
二人が手を繋いで駆けていく姿が、目に映る。
ルークが何かを指差して楽しげに話し、オルトがそれに小さくうなずく。
まだ緊張した面持ちだが、それでも逃げる様子はない。
まるで、曇った空に差し込む陽の光のように。
ほんのわずかずつ、けれど確かに──オルトの心はほどけていくのだった。
ルークは庭の大きな木を見上げると、ぱっと表情を明るくした。
「ほら、あそこに鳥の巣があるんだ! オルトくん、見える?」
オルトも見上げると、確かに枝の上に小さな鳥の巣があった。ルークは勢いよく木に手をかけ、登ろうとする。
「あっ、だめ!」
オルトは慌ててルークの腕を掴んで引き止めた。
「……危ない、落ちたら、怪我する……」
ルークは驚いたようにオルトの顔を見た。
オルトの声は小さいが、目は真剣だった。
「……うん。わかった。じゃあ、やめとくね」
ルークは素直に手を離し、ぺこりと頭を下げた。
「止めてくれて、ありがとう」
それを少し離れた場所から見ていたルーチェは、二人のやり取りに目を細める。
「ふふっ、偉いね。……じゃあ代わりに、何か遊べるものは……」
「生憎と、この庭には子供が遊ぶようなものはなくて……」
キールが申し訳なさそうに言う。
「んー……」
ルーチェは、何かいいアイデアはないかと庭を見渡す。
(これだけ広かったら、ボール遊びとか出来そうなのにね)
『ボール遊びですか。確かに、サッカーのリフティングやバレーのラリーのようなパス回しは、この広さであれば可能でしょうね』
(でも肝心のボールが……あ、そうだ!)
ルーチェは指先に光を灯すと、小さな魔法陣を描く。
「《泡球》───!」
思い描いたイメージを固めるように、しっかりと魔力を込める。
ふわりと現れたのは、サッカーボールほどの大きさの、魔力で強化されたシャボン玉。虹色に光りながら、しっかりとした反発力を持っている。
「これで遊ぶ? 柔らかいから、ぶつかっても痛くないよ」
ルークは目を輝かせて、その大きなシャボン玉を受け取った。
「わぁっ、すごい! ほらオルトくん、パス!」
ルークが軽く打ち上げたシャボン玉を、オルトは少し戸惑いながらも手で弾き返す。
それがまたルークの方へ戻ってくる。
「じょーずだね、オルトくん!」
庭には、ポンポンと軽やかな音と、少年たちの笑い声が響いた。
ルーチェとキールは木陰に腰を下ろし、楽しそうに遊ぶ二人を優しく見守っていた。
──穏やかな日差しの中、小さな安心と、小さな絆が育まれていく。




