第111話 紫電の暴走
地下深く、《奈落の市》の奥にある一角。そこには、無機質な金属の檻が並び、子供たちが押し込められていた。
今──その檻の前では、まるで見せしめのような鞭打ちが行われていた。
「っく……! ぅ……」
スパァンッ!
鞭の音が空気を裂くたびに、獣人の少年の小さな体がびくりと震える。すでに何度も打たれているらしく、肌には無数の痕が走り、頬は赤く腫れ、乾いた血がこびりついていた。
それでも少年は、倒れずに立っていた。
彼の背後──檻の中では、年端もいかぬ子供たちが怯えた目で彼を見ていた。泣き出してしまう子、うずくまって耳を塞ぐ子。誰一人、叫ぶことも助けを求めることもできず、ただ、震えていた。
それでも少年は、彼らを庇うように、一人でその“躾”と称された暴力を受け続けていた。
「……あ? なんだよ、その目は」
男が、忌々しげに言った。
少年は男を睨んでいた。細めた目に、激しい怒りが宿っていた。
───なぜ、自分がこんな目に遭わなければならない?
───何もしていないのに、どうしてこんな仕打ちを受ける?
───誰も助けてくれない、この世界は、何のために存在している?
「聞いてんのかよ、コラ!!」
スパァンッ!!
今度は反対側の頬がはじけ飛ぶように打たれた。少年の小さな体はふらつき、膝から崩れ落ちる。
「チッ、どいつもこいつも物分かりの悪ぃガキどもがよ……。いいか? お前らはな、もう“自由”なんてもんはねぇんだよ!」
男が嘲るように言い放つ。
「パパもママも、お前らを助けにゃ来ねぇ。これからは“ご主人様”の言うことだけ聞いて生きていくんだ。わかったら───」
その瞬間だった。
ガキィィンッ───!
獣人の少年の両手を繋いでいた鉄鎖に、鋭い亀裂が走った。
「……!? な、なんだと……!?」
突然の出来事に、男が目を剥く。
ガチィンッ!
次の瞬間、手枷が粉砕される。首につけられた抑制具も、バキン!と音を立てて外れた。
「おいっ、お前──!」
「───うああああああああああッッ!!!」
その叫びは、もはや言葉ではなかった。獣の咆哮だ。
少年の身体に、紫電が奔る。毛並みが逆立ち、瞳が光を失ったかと思えば、次の瞬間──雷鳴とともに少年は四足で地を駆けた。
「うおあっ──!?」
鞭を振るっていた男の身体が吹き飛ばされ、壁に激突して崩れ落ちる。
しかし、それで終わりではなかった。
「アアアアアアアアアアアアアアッッ!!!」
叫びは怒りのままに続き、少年の身体からは荒々しい雷の奔流が広がっていく。床を走るその紫の雷光は檻を照らし、子供たちは恐怖と驚愕に目を見開いた。
それは「暴走」──いや、「覚醒」と言うべきか。
押し込められた怒り、飢え、痛み。失われた自由と、大人たちへの憎しみが、理性を塗り潰していた。
子供たちの叫び声が、地下にこだました。
《影潜り》が静かに解け、三人の姿が闇の中に現れる。冷たい岩壁に囲まれた坑道──しかしそこには、昨日までとは明らかに違う空気が流れていた。
怒号と悲鳴。
地鳴りのような雷音と、金属が歪むような破壊音。
まるで地獄のような喧騒が、ルーチェたちの耳を突く。
「な、なんだこれは…」
キールが顔をしかめながら、前方へと目を凝らす。テオは無言で構えを取り、いつでも動けるよう身構えた。
「おい!! 早くソイツを止めろ!! 誰でもいい、鎮めろォ!!」
怒鳴る男の声が反響する。その声をかき消すように、紫の雷光が縦穴の中を照らした。
(……紫色の、雷?)
キールがすぐに指さす。
「あれを!」
そこには、狂ったように雷をまとい、暴れ回る獣人の少年の姿があった。髪を逆立て、四足で走る様はまるで獣そのもの。目からは涙があふれているのに、口からは咆哮がこぼれている。
奴隷商人たちが懸命に距離を取るが、追いつかれた者は吹き飛ばされ、壁に激突して動かなくなる者もいた。
「一足遅かったか…。あれ、間違いなく“暴走”してるね」
テオの言葉に、ルーチェは悲しそうな顔をする。
「止めてあげないと…っ、あんなの、辛すぎます…!」
キールが歯を噛み締めるようにしてから言った。
「作戦を変更します! まずは子供たちを救出しつつ、あの少年の鎮静を優先。混乱に乗じて商人たちも逃げようとしている、抑えつつ速やかに!」
その言葉に、テオがうなずいた。
「了解! 分断してもリスクが高すぎる。ルーチェ、俺と一緒に子供たちの元へ行こう」
「はいっ…!」
一瞬、ルーチェは奥の方──精霊獣が囚われている方向へ目を向けた。
(ごめんね、精霊獣さん…もう少しだけ、耐えてて…!)
胸の奥で誓いながら、彼女は全力で駆け出した。
混乱の《奈落の市》。
三人はキールの風魔法で減速しながら、縦穴を降りた。
ルーチェとテオは子供たちの檻へと急ぎ、キールはその間に商人たちを次々と制圧していく。
怒声と悲鳴が響く中、正確に相手を無力化していくその姿には、まさに“訓練された兵士”の風格が漂っていた。
───そして、檻の前。
テオは一気に駆け寄ると、鉄格子の錠を見て言った。
「悪いね、ちゃんと開ける時間なんてなさそうだ」
そう言うや否や、剣を構え、剣の柄を思い切り叩きつけて錠を打ち砕いた。重たい鉄の扉がギィィィと音を立てて開く。
「おチビさん達、助けに来たよ。お兄ちゃんと一緒にここから出よう」
泣き腫らした目でこちらを見る子供たち。その中の、小さな女の子が震えた声で言った。
「おにいちゃん、あの…いぬみみのおにいちゃんは…?」
テオは一瞬、目を見開いた。
それが──暴走している獣人の少年のことだと悟る。
「大丈夫。あの子も、ちゃんと助けるから」
その言葉が終わるより先に──
空間を裂くように走った紫色の一閃。
「っ──ルーチェ!!」
暴走した少年が、雷の残光を纏ってルーチェに突進してきた。すんでのところで棍杖で受け止め、ルーチェは踏みとどまる。
「大丈夫です! テオさんは先に、子供たちを!」
テオが子供の首輪に手を伸ばそうとしているのに気づき、ルーチェの目が一瞬、獣人の少年の外れたはずの首輪へと向く。
「待ってください! その枷と首輪、壊しちゃダメです!」
「えっ?」
テオが子供たちを連れ出そうと動きかけた手を止める。
「無理に外そうとしたり壊したりすると、逆流した魔力が装着者に直接ダメージを与える仕掛けです! 場合によっては…命に関わります…!」
「チッ、クソ野郎共、そんな仕掛けまで…!」
ルーチェはさらに言う。
「鍵を使えば安全に外せるはずです。きっとどこかに保管されているはず…!」
テオは真剣な表情でうなずき、すぐに切り替えた。
「了解。───おチビさん達、兄ちゃんが守ってやる。ついてきな」
怯える子供たちを包むようにしながら、テオは檻の外へ連れ出していく。その動きを見た暴走中の少年が、再び唸るように声を上げた。
「アアアアアアァァァッ!!」
だが──ルーチェが指を弾く。
「《小さな閃光》!」
少年の視界の端で光が弾け、彼の注意は再びルーチェへと引き戻された。
ルーチェの声は、優しく、しかし毅然としていた。
「ごめんね。すぐに助けてあげられなくて。でもね、今、ちゃんと向き合うよ。だから…」
ルーチェは棍杖をそっと背に戻し、代わりにもう一本の、飾りの付いた杖を握る。ルーチェがずっと愛用してきた初心者向けの量産品、だがルーチェが初めて買った武器でもある。
「あなたを、傷つけずに助けてみせるから──!」
雷鳴がまた轟いた。暴走した少年と、光を掲げる少女。
その対峙が、静かに始まろうとしていた。
《鑑定》が、少年の名を映し出す。
「……オルトくん……」
その名を呼んだ瞬間、雷光を纏って暴れる少年の耳がピクリと震えた。しかし暴走の魔力は収まらず、手足から放たれる雷は地面を這い、石を砕くほどの威力を持っていた。
ルーチェは覚悟を決め、杖を握りしめた。
───《絆の光》。その力を自身の腕と足に巻きつけ、身体能力を強化する。
「必ず、助けるから……!」
構えと共に、白い魔法陣が広がった。
「《聖縛鎖》!」
魔法陣から伸びた光の鎖が、暴走する少年を捉えようと襲いかかる。しかし、オルトの反応は異常だった。
まるで獣のように壁を蹴り、天井を駆け、空間そのものを斜めに切るような機動。鎖は追いつけない。目で追うことすら困難だ。
(なんて反射神経……!)
一度鎖を引き戻すと、次の魔法の準備に入った。その間隙を突くように、オルトは正面から突進してくる。
「《結晶の封印》!」
輝く結晶が空間に浮かび、閉じ込めようとするが──オルトはそれすらも足場に変え、踏みつけて高速移動を再開した。
「これも避けられるの……!?」
そのスピードは、もはや雷そのもの。
そして次の瞬間──
目の前に現れたオルトの一閃が、ルーチェの杖を真っ二つにした。
「きゃあっ……!?」
直後、背後に現れたオルトの掌が、ルーチェの背に触れた。バチバチと音を立てて全身を走る電撃。膝が崩れる。
『お嬢様っ!!』
立っていた少年は、涙を流したまま怒りを燃やし続けていた。
「ご、ごめんね……オルトくん……」
もう一度その名を呼ぶと、オルトの耳がまた小さく反応する。
「知ってたのに……すぐに助けてあげられなくて、本当にごめんなさい……痛かったよね、苦しかったよね……ごめんね……!」
少年の瞳が、怒りと混じった涙で歪む。
歯を食いしばり、雷が再び燃え上がる。
「アアアアアアァァァッ!!」
ルーチェの目の前に、雷が突っ込んできた。
だが──彼女は杖を構えず、両手を広げていた。
『お嬢様、何を──!?』
そのまま、雷を纏った少年の手を──その体を、抱きしめた。
「う……ぐぅっ……!」
耐えきれないほどの電撃が体を焼く。だがルーチェは、決して離さなかった。
(痛い……苦しい……でも……。この子の方が、ずっと……ずっと痛かったんだ……)
その時、ルーチェの中にふと、光が差すように「魔法のかたち」が浮かんだ。
───《絆の光》の、次なる姿。
「《心の救済》……!」
その手から、優しい光があふれ出す。まるで誰かの手が、そっと背を撫でるような、柔らかな癒し。
紫色の雷が静まっていく。耳がペタンと垂れ下がり、オルトは彼女の胸の中で──ただ、泣いた。
「ぐす……っ……うぅ……」
ルーチェはその頭をそっと撫でた。
「痛かったね……もう大丈夫だよ……《治癒》」
治癒の光が、少年の傷を癒していく。一瞬ビクリと反応したオルトだったが、それが“優しいもの”だと分かると、微かに力を抜いた。
ある程度外傷が癒えた頃、ルーチェはフラつきながらも立ち上がる。そしてオルトの手をそっと握った。
「行こう。お姉ちゃんと外に出よう? あなたが守ってた子たちは、私の仲間が連れていってるから──大丈夫」
オルトは少しの間、震えたまま黙っていたが──やがて小さく、こくんとうなずいて、その手を、ルーチェの手にしっかりと重ねたのだった。




