第11話 誘われた森の奥で
───戦闘後のことだった。
ルーチェは、思わずその場にぺたんと座り込んでしまった。左腕がズキズキと痛む。破けた袖から覗く肌を確認すると、傷から血が流れ、患部は赤黒く腫れ上がっている。
「……あの時、爪の一撃をもらっちゃったからかな……」
『お嬢様! 急いで止血を……!』
「うん……ぷるる、ちょっとだけ、きれいなお水もらえる?」
呼びかけに応え、ぷるるが威力を限界まで抑えたやわらかな水流をぴゅーっと放出する。その水で傷口を洗い流すと、ルーチェは魔法で出した光のリボンをぎゅっと巻きつけて止血した。
そもそも論だが、光魔法を扱うルーチェが、なぜ回復魔法を使わないのか……?
理由は簡単だ。使えないのだ。
回復魔法は、ただ光を灯すだけでは通用しない。損傷した血管、筋肉、皮膚の再生───それらすべてを正確に“イメージ”できなければ効果を発揮しない。痛みを感じ、組織の構造を理解し、それを再構築するほどの想像力と集中力が必要なのだ。
十四歳の少女であるルーチェには、まだそれは難しい。
「んぐっ……」
傷から広がる痛みに、ルーチェは思わず唇を噛みしめる。
『お嬢様……』
リヒトの声はとても心配そうだ。
「……大丈夫。痛いけど……動けるよ。ねぇぷるる、あのブラッディホーンベアの角……《水刃旋回》で切り取ってくれる?」
その視線は、倒れた魔獣───ブラッディホーンベアへと向いていた。
「この子の体は……少しだけ浄化してから、森に還してあげよう」
『はい、それがよろしいかと存じます』
ぷるるが静かに頷くように跳ね、角に水の刃を走らせる。シュッという音と共に、立派な角が切り離された。それを見届けて、ルーチェはそっとブラッディホーンベアの亡骸に近づく。
両手を胸元で組み、そっと囁くように詠唱する。
「《浄化》……!」
ルーチェの手から零れた淡い光が、魔獣の亡骸に降り注ぐ。光が触れた部分から、どす黒い禍々しさがふっと消えていく。まるで波紋のように、穏やかな光が優しくゆっくりと全身へと広がっていった。
「……これで、この子を安全に供養してあげられる……かな」
『えぇ。……お嬢様。《絆の光》の操作権を一時、お貸しいただけますか?』
「いいよ……お願い」
ルーチェの止血用のリボン以外の、手足を彩っていたリボンがふわりと解けて宙を舞う。腰のリボンに魔力が集中し、形を変え始める。編み込まれ、大きな腕のような形になったリボンが、ゆっくりと地面を掘り始めた。
その様子を見守りながら、ルーチェはぽつりと呟く。
「この子……この森に、帰れるかな……?」
『きっと帰れますよ。お嬢様が心から願えば……』
しばらくして、土が十分に掘られ、魔獣の遺骸が丁寧に移される。再び土がかぶせられ、リボンの腕がぽんぽんと表面をならすと、そっとほどけて消えていった。
魔力がルーチェの中に戻る感覚が、微かに体を温める。
ルーチェは、盛り上がった土の前に膝をつき、手を合わせた。すぐそばに、ぷるるもぴたりと寄り添う。
「……どうか、安らかに……」
静かな、けれど深い想いを込めたルーチェの祈りが、森の空気に溶けていった。
***
ルーチェは、先ほどぷるるが切り取ってくれた角を拾い上げた。その表面には、うっすらと魔力の名残が残っている。きっと素材として価値があるだろう。
カバンに丁寧にしまい込むと、ルーチェは小さく気合を入れるように拳を握った。
「よしっ……予定外の戦闘になっちゃったけど、ミリーナちゃんを探さないと…!」
『えぇ。急ぎましょう、お嬢様』
「ぷるる、頭の上に乗って」
声をかけられたぷるるは、ぴょんと軽やかに跳ねて、ルーチェの頭の上にちょこんと乗った。その重みと存在が、ルーチェに安心感を与えてくれる。
───その時だった。
背後の茂みが、ガサガサッと音を立てて揺れた。
(また敵!?)
反射的に身構え、ルーチェは勢いよく振り返る。
……しかし、そこにいたのは敵ではなかった。
姿を現したのは、まるで木のような角を持つ、鹿のような魔物だった。その瞳は深い森の静けさを湛えていて、どこか神秘的な気配を纏っている。
『……あれは、この森に生息する鹿型の魔物、ハーヴェストディアなのですが……。本来警戒心が高く、人前に出てくることはないはずです……』
リヒトの声には、少しばかりの戸惑いがあった。
その鹿の魔物は、ルーチェの後ろ───すなわち、先ほどブラッディホーンベアを埋葬した土の盛り上がりを一瞥し、それから、ルーチェをまっすぐに見つめた。
静かな時間が流れる。
互いに動かずに見つめ合っていたが、やがて先に動いたのは鹿の方だった。
くるりと背を向け、数歩だけ進む。
───そして、振り返る。
まるで、“ついてこい”と言っているかのように。
ルーチェはその瞳に、敵意や警戒ではなく、導くような意思を感じ取った。
『……お嬢様?』
「……多分、大丈夫。一緒に来てほしい……んだと思う」
(そう言われている……気がする……)
ルーチェは案内役の鹿との距離を取りつつ、その後を追いかけて歩き出した。
どこかへ導かれている。そんな不思議な感覚に、ルーチェの胸の鼓動が高鳴る。
それに対して森はまだ静かなままだった。
だが、奥に進むにつれて、空気がわずかに変わり始めていた。
草を掻き分け、木々の間を縫うようにして──ルーチェはただひたすらに、目の前を歩く鹿の後を追っていた。
「この先に……何があるんだろう……」
そう呟いた頃には、周囲の空気が更に変わっていた。
数分の歩みの果て。ルーチェは、ふと視界が開けた先に辿り着いた。そこは、森の中とは思えないほど、穏やかで静謐な空間だった。
柔らかな陽光が、木々の隙間から差し込み、小さな花と草が風にそよいで揺れている。中央には、日光を反射してキラキラと輝く泉が広がっていた。この場所だけが、まるで“聖域”とでも呼ぶべき、特別な空気を纏っている。
ルーチェは一瞬、ためらうように足を止め、そっとその聖域のような空間に足を踏み入れた。
───そして、気づいた。
大きな木の根元……その傍に、誰かが眠っている。
「まさか……ミリーナちゃん!?」
思わず声が漏れ、駆け出そうとしたその瞬間。ルーチェは、もう一つの違和感に気づいた。
ミリーナらしき少女が寄り添っている“大きな木の根”……そう見えていたそれは、実は木ではなかったのだ。
それはまるで、樹木と一体化したかのような巨大な生き物だった。
体は木の幹と見紛うような色合いに覆われ、頭の角から枝のように伸びた木が生えており、そこには青々とした葉と熟した果実が揺れていた。顔はどこか、ヘラジカにも似た印象を受ける。
───その生き物の存在が、まるで“森”そのものと化していたのだ。
その魔獣は、ゆっくりと首を動かし、ルーチェを見つめた。
(まさか……魔物? ……いや、これは……魔獣?)
「ブムォォォ……!」
その声は、吠えるでも威嚇するでもなく、どこか切なさと憂いを孕んだ、深い鳴き声だった。
ルーチェは、はっと息を飲んだ。
(そっか。鹿さんが私をここまで導いてくれたのは───このためだったんだ)
……根拠はない。けれど、ルーチェは確かにそう“感じた”。
ルーチェは一歩、また一歩と慎重に近づいた。魔獣は動かず、ただ静かにルーチェを見つめている。
まずルーチェは、大きな身体の脇で眠っているミリーナらしき子供に駆け寄り、その無事を確かめた。そっと口元に手をかざす。微かに、けれど確かに呼吸の気配がある。
「……良かった……」
胸を撫で下ろし、ルーチェはほっと息をついた。
それから、改めて魔獣に視線を向ける。魔獣は、じっとルーチェの左腕《絆の光》で生み出したリボンが巻かれた腕を見つめていた。
(……もしかして、このリボンが気になってる?)
『お嬢様。……《絆の光》を使えば、もしかすると……』
「……もしかすると?」
『“知恵ある獣”──先ほどのおばあさんが言っていた《緑癒獣》がこの存在であるなら、リボンを通じて意思疎通することができるかもしれません』
リヒトの声に、ルーチェは一瞬戸惑いながらも頷いた。
《絆の光》のリボンを手の中に生み出し、その片端をそっと魔獣の角に結びつける。
───その瞬間。
『……よく来たのう、人の子よ……』
どこか懐かしく、温かみのある、老人のような声が頭の中に響いてきた。
「……もしかして、貴方が……《緑癒獣》さんなの?」
『……懐かしい響きじゃのう……。──いかにも。儂は……いや、儂らはずっとこの森を守り続けておる。今の“緑癒獣”は、儂じゃよ』
柔らかな声に、ルーチェは自然と息を呑んだ。それは、まるで森そのものが語りかけてくるような、静かで深い、命の声だった。
こうして───少女と、森を護る知恵ある魔獣《緑癒獣》との出会った。