第10話 静かなる森の異変
(《絆の光》のリボンを足に巻き付けて──加速!)
ルーチェの掌から出現したピンク色のリボンが足に巻きつく。それは淡く光を放ち、瞬間、彼女の走る速度が一気に跳ね上がる。
(もっと……もっと速く──!)
村を飛び出したルーチェの頭の上には、小さなスライムのぷるるがちょこんと乗っていた。ぷるるは、走行中の警戒とミリーナの捜索を担っている。リヒトも《魂の休息地》内から、ルーチェとぷるると視覚を共有し、警戒をしてくれている。
「お願い……どうか、無事でいて──!」
およそ15分から20分ほど走った頃だろうか。走るルーチェの前方に、鬱蒼と茂る大きな森が姿を現した。入り口には古びた看板が立っている。
『この先、緑癒獣の森
─ 魔物の多い危険地帯につき、注意されたし ─』
ルーチェが木に手をつき息を整えていると、リヒトの声が聞こえてきた。
『ぷるる様と確認しておりましたが、道中にはミリーナ様らしき姿はありませんでした。やはり、森の中へ入ってしまったのでしょうか……』
「……かも、しれないね……」
肩で息をしながら、ルーチェは小さく答える。リボンの効果で脚力を強化していたとはいえ、かなりの距離を駆け抜けてきたため、疲労も溜まる。
『お嬢様、ご無理はなさらずに。ここからは慎重に行動しなければなりません』
「……うん。分かってる。ありがとう、リヒト」
深呼吸を一つして、彼女は気を引き締める。
「ぷるる、リヒト。引き続き、周囲の警戒とミリーナちゃんの捜索、お願い…!」
『はい、かしこまりました』
ぷるるがぷるんとその体を揺らし、リヒトの声も頼もしく響く。
そしてルーチェは、危険と希望が入り混じる“緑癒獣の森”へと、一歩を踏み出した。
***
───森は、静かだった。
──────いや、静かすぎた。
本来、普通の森であれば、動物の鳴き声や木々のざわめき、遠くで羽ばたく鳥の音が聞こえてくるはずだ。だが今、耳に届くのはルーチェの呼吸と、足元で葉を踏む微かな音だけ。
「……何か、変だよね」
慎重に周囲を見回しながら、ルーチェはつぶやく。
『生き物の気配を、まるで感じませんね……』
リヒトの声が、頭の中に静かに響いた。
(この森で……何かが、起きてる?)
考えを巡らせながら、歩いていく。
彼女の頭に乗っていたぷるるが、ぷるん……と震えていた。不安を感じ取っているのだろう。
『ぷるる様も、警戒を強めているようです。おそらく、自然な状況ではないと……』
「やっぱり……。分かった、もう少しだけ奥に進んでみよう。何か、分かるかもしれない」
静かに、慎重に。
ルーチェは再び、森の奥へと歩を進めた。
ルーチェが静かな森の中を歩いていると、頭の上にいたぷるるが突然、ぴょんと跳ねて地面に降りた。そのまま、ぷるん、ぷるんと少し先へ跳ねていき──ぴたりと止まる。
「……ぷるる、どうしたの?」
ルーチェが近づいてみると、そこにはかすかに踏みならされた獣道と──小さなリボンが落ちていた。細いリボンの端はほつれ、低木の枝に引っかかったのか、少し破れている。
「これは……ミリーナちゃんの、なのかな……?」
手に取って見つめながら、ルーチェが呟く。ルーチェが視線を上げると、低木の間に隙間が出来ており、地面も何かが擦って歩いたような跡が残されている。
『子供であれば、この低木の隙間を抜けられるかもしれませんね……』
リヒトの冷静な声が、ルーチェの胸の内に響く。
ルーチェはこくりと頷くと、リボンを大切に握りしめ、獣道の先──低木の先へと、警戒を強めながら足を踏み入れた。
ルーチェが低木の先へ抜けると──その先は、不自然に開けた空間だった。
そこだけ、草も木もない……いや、すべてが枯れていた。灰色がかった地面にはひび割れが走り、かつてそこにあったはずの命の気配は、どこにも感じられない。
「ここって……恵み豊かな森なんじゃ……?」
ルーチェがぽつりとつぶやく。
『ええ……本来であれば、このような開けた場所にも草花が茂っているはずなのですが……』
リヒトの声も、どこか困惑を含んでいた。
(やっぱり、何かが起きてる……)
そう思いながら、ルーチェがその枯れた大地に数歩踏み込んだ、その時だった。
───ズシン!
突如、森の奥──ルーチェが来た方向とは逆側から、地響きが鳴り響いた。
その瞬間、沈黙していた空気が破られ、木々の隙間から小鳥たちがバサバサッと一斉に飛び立つ。
「……!」
ルーチェが空を見上げたその時、リヒトの声が強く響く。
『お嬢様、警戒を! 何かが──こちらに来ます!』
いつになく鋭い語気に、ルーチェはすぐに視線を前方へと戻す。
───ドス、ドス、ドス……!
地面を揺らすような重い足音が、徐々に近づいてくる。それに合わせ、地の底から響くような唸り声。
「ぷるる、戦闘態勢!」
ルーチェの声に、ぷるるがぷるぷると震えて応じる。
体全体で、警戒モードを表現する。
───ガサガサッ!
音がしたかと思えば、前方の茂みが大きく揺れ、何かが飛び出してきた。
姿を現したのは──赤黒いオーラを纏い、血のように赤い体毛を持つ、角の生えた巨大な熊型の魔物だった。その腕は太く、鋭く尖ったかぎ爪が光を反射している。あんなものに斬られれば、ひとたまりもないだろう。
(《鑑定》を……!)
ルーチェがスキルを発動した瞬間、リヒトの声が震える。
『そんな……、あれは……ブラッディホーンベア!?』
「ブラッディ……ホーンベア?」
『ホーンベアと呼ばれる魔物の進化個体……すなわち、上位種なのですが……』
リヒトが言い淀む。
「そんな凄い魔物……、始まりの街からそう遠くない場所にいていい魔物なの……?」
『いけません。断じて、いてはならない魔物です……! 本来であれば、このような場所には絶対に……』
言葉の途中で、その魔獣が低く唸り声を上げた。赤黒い瞳がルーチェたちを睨み据え、その足が地面を踏み鳴らす。
「グルルル……! グルルルララァァァァァァッ───!!」
赤黒い咆哮が、大地を震わせる。怒気を放ちながら大きく口を開き、巨体を揺らし、猛然と突進してくる。
『お嬢様、来ます!!』
リヒトの警告と同時に、ルーチェは一瞬で判断を下す。足に再びリボンを結び、魔力の流れを整えると──襲いかかる爪が触れる寸前、身体をひねって横へ飛んだ。
(速い……! 今のは距離があったから、なんとか避けられたけど……)
着地した瞬間、ルーチェはすぐに体勢を立て直す。魔獣は方向転換し、再びこちらに狙いを定めていた。
(リヒト、これって……多分逃げられないよね?)
『……ええ。興奮状態なうえに、あの速度。お嬢様の全力でも、振り切るのは困難でしょう。回避と反撃での対処が最善です……』
「……腹を括るしかない、ってことだね」
ルーチェは深く息を吸い、手を前に差し出した。次の瞬間、彼女の掌から光のリボンがふわりと出現する。
一つは掌から手首へ、もう一つは腰へと結びつけていく。攻撃強化用の手のリボン。そして防御・回避支援のための腰のリボン──これはリヒトに制御権を託してある。
「リヒト……お願いね」
『もちろんです、お嬢様』
ルーチェの瞳が真っ直ぐ魔物を見据える。
───風が、静かに吹き抜けた。
ルーチェは構えを取り、右手に魔力を集中させる。空気がわずかに震え、眩い光がその手に形を成す。
「《光擲槍》!!」
鋭く放たれた光の槍が一直線に飛翔し、その肩に突き刺さった。
しかし───
「効いてない……!?」
光が弾けるように散ったにもかかわらず、全く怯む様子もなく、唸り声をあげながらそのまま突進してくる。
「くっ──!」
次の瞬間、魔獣の右手の鋭い爪が大きく振り下ろされる。ルーチェは紙一重でその一撃をかわすも、追撃とばかりに左腕を横薙ぎに振るった。
(しまっ──!)
ルーチェは両腕をクロスさせてガードの姿勢をとるが、巨体の一撃はあまりにも重い。運良く爪に裂かれることはなかったが、激しい衝撃と共に、ルーチェの身体が後方へと吹き飛ばされる。
「──っ!」
背後には木。衝突は避けられない──そう思ったその瞬間、腰に巻かれたリボンがふわりと広がり、空中でクッションのように膨らんだ。衝撃は柔らかく吸収され、木に叩きつけられることは避けられた。
『───お嬢様、お怪我はございませんか!?』
「……大丈夫、リヒトのおかげで助かったよ」
荒い息を整えながら体勢を立て直すと、奴の右手に異変が起きていることに気づく。その爪先に、黒く濁った禍々しいオーラが集まり、渦を巻いていた。
『あれは……!? お嬢様、左右どちらかに即座に回避を───!』
リヒトの声が鋭く響く。
ルーチェは迷わず右へと跳んだ──。
直後、ルーチェが立っていた場所にオーラを纏った爪が叩きつけられる。背後にあった木が真っ二つに裂け、崩れ落ちた。だがそれだけではない。
折れた木の表面から、みるみるうちに枯れが広がっていく。まるで命を吸われたかのように、幹が灰色に乾き、葉は枯れ落ちていった。
「リヒト、ここら辺の草木が無かったのって……!」
『間違いなく、あの魔獣の仕業ですね』
広がる枯野は、ただの異変ではない。魔獣がその身に秘める“災厄”が、確実にこの森を蝕んでいる。
(あの魔物、ブラッディホーンベアは──終始、私だけを狙ってる……)
ルーチェは、迫る巨体を見据えながら思考を巡らせる。
(ぷるると私を比べて、より脅威となるのが私だと判断してる。だから、私を先に仕留めようとしてるんだ──)
ちら、と視線を魔獣の後方へ移す。スライムのぷるるは、戦闘中ずっと魔獣の真後ろに陣取り、待機していた。だが、気にする様子もなく、一切後ろを振り返る気配を見せない。
(突破口を開くには……注意を逸らす必要がある。やるしかない!)
「ぷるる! 《水圧推進》!」
その号令に、ぷるるの体がぶるりと震えた。数日前に習得したそのスキルは、自らの体内で生成した水を高圧で放出し、その反動で高速移動する技。水の生成は自身の魔力から行われるため、魔力が尽きない限りは無限に水を放出できるスキルだと、リヒトが教えてくれた。
ぷるるは、ルーチェの意図を瞬時に汲み取った。背後から勢いよく水を噴き出しながら接近し、その巨体に向かって水流を浴びせ続ける。
──シュパッ、シュシュシュシュ!
冷たい水しぶきが繰り返し魔獣の背に降り注ぐ。ダメージにはならない。ただ濡らしているだけ。だが、自分の死角から何度もしつこくされれば、誰だって苛立つものだ。
「グルァアアァァ……!!」
我慢の限界だったのか、ようやくぷるるへと意識を向け、怒りの咆哮と共に爪を振り上げた。だが、ぷるるは跳ねてそれを避け、《水圧推進》で加速しながら宙を舞い、背へ着地し、再び跳ねると──そしてまた水をかける。
その姿はまるで、巨大な魔獣を翻弄する妖精のようだった。
「ぷるる……すごい!」
『お嬢様、今です!』
リヒトの叫びに、ルーチェの足が自然と前へと踏み出す。ぐん、と地を蹴り、全速力で駆け出した。
(今しかない──!)
そして跳躍。風を切って飛び上がり、その巨体を見下ろす。
「──っ!」
───、一瞬の静寂。
ルーチェは強化した脚力で、両足に思い切り力を込めて、その背中を勢いよく踏みつけた。
「ガアァァアアァ!!」
不意を突かれたことに怒ったて唸り声を上げ、振り返りざまに爪を振るう。刃のようなかぎ爪がルーチェの左腕をかすめ、服と皮膚を裂いた。
「──っ、でも!」
痛みに顔をしかめながらも、ルーチェはそのまま空中で身を捻り、華麗にバク転。ふわりと着地したその瞬間、再びその鋭い爪が迫る。
「───来ると思ってた!」
ルーチェは横へと素早く回避し、右拳に魔力を集中させた。輝く光を纏った拳をそのまま、ブラッディホーンベアのこめかみ目がけて突き出す。
───ドゴッ!
鈍い音と共に、ブラッディホーンベアの顔が横へと跳ね、体勢がぐらついた。巨体がよろめく。それでも、まだ倒れない。
「ぷるる!」
ルーチェの声に応じ、ぷるるがきらりと輝きながら宙を跳ぶ。
その体が高速で回転し始めた──。
くるくる、ぐるぐる、勢いを増す水のスピン。
その内部から、鋭利な水の刃が形作られ、螺旋の中心から突き出していく。
それはまるで、旋風を纏った刃。
───《水刃旋回》。
その水刃が、ぐるりと弧を描いてその巨体の喉元をかすめた。
小さな切り裂き。だが致命的な一撃だった。
「グ、グルル……」
うめき声を上げ、首から血を噴き出しながら、巨体を震わせながら一歩、また一歩と後退し───
───ドシン。
大地を揺らす音と共に、ついにその身を横たえた。
「……ふぅ……っ」
緊張が解け、ルーチェは膝に手をついて息を整える。
『お嬢様、見事な戦いぶりでした』
「ううん、リヒトとぷるるが居てくれたからだよ。……ありがとね、リヒト、ぷるる」
ぷるるはぴょんと跳ね、誇らしげにふるふると震えた。
こうして、ルーチェたちは危険な魔獣───ブラッディホーンベアとの死闘に、見事勝利を収めたのだった。