【第十四話】あの日のファミレスで
翌日、いつも通りの朝。
いつも通りのメイクで、仕事をしている。
昨夜の帰宅後は、
シャワーを浴びたり家事をしている間に
彼の歌声は聴こえない時間帯になっていた。
今、私はPC画面を見ながら、
顔を上下して手元の資料と見合わせている。
少し開いた窓から吹く風が気持ちよく
正面から受け止められるよう。
どことなく晴れやかな気分。
そこだけ、いつも通りとはちょっと違っていた。
……なんとなく視線を感じる。
これは私の予測か、第六感か。
振り返ると、少し斜め後ろのデスクから、
やはりこっちを見ていた。
夏美ちゃんだ。
優しく微笑む彼女。
そこに悪意や茶化しがないことは見て取れるが、
なぜ微笑んだかを考えると、
背中をくすぐられるようでヒヤッとした。
とりあえず対抗するように、私も微笑み返した。
数分後、複合機へ向かう際、
彼女の席へ擦り寄るよう近づいた。
少し屈み、顔にたらっと垂れた髪もそのままに
彼女の耳元で小さく呟く。
「なによ(笑)」
すると彼女は、姿勢そのままに声だけ返した。
「凛とし過ぎです(笑)何がありました?」
やっぱりこの子は恐ろしい。
笑ってごまかそうと口角を上げたけど、
うっすら頬が熱くなるのを止められなかった。
「……別にまだ、何もないんですけど?」
「”まだ”?」
「……うるさい」
お互いフッと笑い、
私は何事もなかったように
複合機に向かったのだった。
今日は仕事が捗ったのもあり、
あっという間に時間が過ぎていった。
――――帰宅後、夜は更け……。
「……あ」
壁の向こうから、久しぶりに歌声が聞こえてきた。
以前なら「またか」としか思わなかった。
今は意識してしまっているからか、
耳が勝手に拾おうとしている。
どんな曲になってるんだろう、
進んでるのかな……。
あ、いつものカバー曲になった。
……。
……っ!
「うわっ、なにこの聞き方」
私は自然とベッドの壁を背にもたれかかり、
首を横にし、壁に耳を当てていた。
探偵かストーカーの体勢である。
「な、なにしてんだか……」
離れようとも思ったが、
腰あたりへ緩い部分麻酔をかけられたように
しばらく動けなかった。
それは、彼の声を聴きたかったという
単純な理由だけではなく、
その声を聴いた今の自分がどんな感覚になるか
無意識に確かめたかったのだと思う。
いつものように音が外れたり、
でもさすがに努力のおかげか
気持ち良い歌声が混じったりと、
その不安定さに等身大を感じ、胸がざわついた。
これまで長く住んでいて、
この部屋の壁に耳までしっかりくっつけたことはない。
ポスターも何も貼っていない、
ベッドが寄り添う素朴な白い壁。
顔を動かすと少しざらつき、
数本の髪の毛が引っかかり持っていかれる。
夏の暑さに比べひんやりして気持ちいいが、
私の体温でやがて常温へ溶けていった。
その向こうでは常に、小さい歌声が鳴っていた。
「壁って、硬い……当たり前か」
しばらくして顔をまっすぐ向けると、
目線の下にテーブル、
そして目立つスケッチブック。
1本の線だけ描かれたまま、
部屋のライトで真っ白に光る1ページ。
……そうだ、私はこいつもどうにかしなければならない。
――――週末。
「柚希、お待たせ!」
手を振りながら小走りでこっちへ来る。
向かいの席に座ったのは工藤 真里。
文房具屋の店長なだけあって忙しく
少し立て込んだようだ。
「遅くなってごめんね」といわれたが、
私は「ううん」と首を横に振り、
旧友と顔を合わせる嬉しさだけを感じた。
夕陽の優しいオレンジと夜の帳が混じり合い
窓の外の喧騒は穏やかに見えていた。
真里はシュっとした長い首で周りを見渡し、
相変わらず透き通った声を落とした。
「この店、懐かしいね」
「だねー。店舗は違うけど内装は一緒だから、
私も昔を思い出してたよ」
このチェーン店のファミリーレストランは、
かつて真里やサークルの皆でよく通っていた。
いわゆる困ったときの溜まり場。
真里を誘うにちょうどいい場所だった。
「柚希、この前お店に来てくれて驚いたよ」
「私もよ、レジであわあわしちゃったじゃん(笑)」
「お互いあわあわだったね(笑)」
メニューを開き、
昔とすっかり変わった料理たちに驚いたり
かつてよく頼んでた料理がまだあることに
お互い笑いつつ注文を済ませた。
そして昔話に華を咲かせ、
やがて来た料理と共に思い出をつまんだ。
食べ終わる頃、真里は言った。
「柚希は今なにをしてるの?」
「あー言ってなかったね。事務やってるよ、卒業してからずっと同じ職場」
「そうなんだねぇ、傍らで絵も描いてる的な?」
「あー……そ、それなんだけど、実は、何年もずっと描いてなくて。
この前スケッチブック買わせてもらったけど、あれは衝動的というか……」
短い一拍を置いて、真里が聞く。
「そうなんだ、買ってからなんか描き始めたの?」
「それが……なんか筆取れなくて、何を描きたいかもわかんなくてさ」
真里の手前、私は後ろめたさと
照れを足した絶妙な顔で少し目を逸らした。
「昔は柚希、描くスピード早かったのにね(笑)」
「そうだった、その代わり丁寧さが無いからよく指摘されたなぁ」
「ふふ、私は逆に遅かったもんなぁ」
「でも真里はなんでも地道に続けるの得意だったよね、今も描き続けてるんでしょ?」
「うん、まあ、そうねー……」
真里は艶のある長い黒髪を
サッと揺らして横の窓を向くのだった。




