【第十話】はじまりの白紙
カフェで高城さんと話し、翌日の朝。
なんだか深夜のテンションで
いろいろと考えてしまった。
今日は日曜日か……。
昨日も買い物に出かけたものの、
今日はなぜか落ち着かなかった。
特に目的もなく外へ出た。
目線を上げれば洗濯物が風に揺れる晴天。
見飽きた小さな商店街を歩きながら、
気づけば文房具屋の明るい入口に足が向いていた。
いつもは完全にスルーしていた店。
「別に必要なものなんて……」
そう思いながらも、なんとなく中に入る。
他の客も1~2人と少ない店だ。
紙とインクの匂いが鼻に届く。
ペン、ノート、色とりどりの付箋。
何を買うわけでもないのに、つい視線が走る。
「懐かしいな……この感じ。」
そしてスケッチブックの棚の前で足が止まった。
白いページが何冊も、整然と並び、
こちらを無言で見つめているようだ。
——描きたいものがあるわけじゃない。
そんな言い訳を自分に投げながらも、
気づけば一冊を手に取っていた。
かつてよく買っていたメーカーの、
リングが光るスケッチブック。
持つと、予想以上に少し重かった。
「安いし…荷物にもならないし…買ってみるかな。」
ほんの少し胸がうずくのは、
高鳴りなのか、自分でもよくわからない。
レジへ向かう私。
「あ……柚希?」
「えっ……?」
レジの店員に話しかけられるという、
手榴弾爆発レベルの出来事にフリーズした。
「柚希だよね?久しぶり!」
「あ……え、真里?」
「うん!卒業以来だねーすごい偶然!」
少し俯いてたので気付かなかった。
この黒髪ロングストレート、私より頭一つ高い身長、
変わらずスラっとした姿勢。工藤 真里だ。
大学の美術サークルで一緒だった同級生である。
……と、そんなことよりちょっと待ってくれ。
この状況恥ずかしいじゃないの。
「え、ここで働いてたんだ?」
「うん、店長やってるの。」
「店長!?凄いね……。」
「いやいや、ここでバイト続けてたら成り行きでね。雇われ店長よ。」
「私近くに住んでるのに全然知らなかったよ。」
「近くなんだ!へぇーなんだか懐かしいねー。
絵も描いてるんだね!」
ニコニコで話してくれる真里。
文房具屋の店長ということは
美術の意識を持ったまま暮らしているのだろう。
私も再会は嬉しいけど、
このシチュエーションに少し戸惑っていた。
「あーー……う、うん、ちょっと補充でね。」
スケッチブックを無意味に裏表に返しながら
気軽さをアピールする私。
「描いてる仲間がまだいて嬉しいな。
私も描いてるんだけど、周りにいないからさ。」
「そ、そうだよね、サークルとかじゃないと
ほんと出会わないよねー。」
雑談をしながら会計を済ませていくと、
次のお客さんがレジに到着した。
「あ!ごめん、柚希、またゆっくり話そうね。」
「うん、また!」
「ありがとうございました~。」
レジ打ちをする真里。店を出る私。
——真里は昔から優しくて、目立つタイプではないが
グループ内で皆のバランスを取る「縁の下の力持ち」タイプ。
皆の作品を一番に見て感想をくれたり、
グループワークなどでは空気が悪くならないよう
さりげなく場を和ませてくれたのをよく覚えている。
卒業してしばらく経ち、お互い大人になった。
時間がなかったとはいえ、
絵に関する具体的な話はしなかった。
この世界の、暗黙の了解かもしれない。
つまり相手がどんなレベル感で作品を作っているか。
趣味なのか、夢を持ったままか、既に仕事にしているか。
今の私のように、ただ「なんとなく」材料を買ってみただけの人間もいる。
わからない以上は、変に水を差さない。
真里の性格であれば、なおさらだろう。
私は己のレベル感による申し訳なさと同時に、
同じ趣味を持った旧友と会えたことに
なんだか意味があるような気がした。
——店を出てマンションへ向かう私。
マンションの入り口に近づいたとき、
中から何かを背負った人物が出てくる。
「あーー…。」
なに、遠目でどんだけわかりやすい見た目なの。
もう影だけ見てもギターケースでわかりそう。
案の定、高城さんだ。二日連続だ。
「あ、宮坂さんっ」
彼の声は、前よりも軽やかに響いた。
私も自然と口が動く。
「こんにちは。…今から、演奏ですか?」
「はい。今日もお店で練習がてら。
曲もさっそく作り始めたんですけど、まだまだこれからですね。」
少し照れた笑いとともに、肩に食い込むケースの紐を直す仕草。
私は微笑ましい気持ちになった。
どうやら気まずさも、以前よりなくなっているよう。
「そうなんですか。…曲作りってやっぱり大変そうですね。」
本当は「どんな曲を作るんですか?」と聞きたかったけど、喉の奥で止めた。
それでも彼は、迷わず続けた。
「昨日の今日ですし、まあ、なんとか頑張ってみようかと。うまくいかなくてもいいかなって思えるようになったので。」
その横顔は、爽やかだった。
胸の奥がじわりと温かくなり、気づけば前のめりに言葉が出る。
「…あの、応援してます。」
彼は柔らかく笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、私の中に静かに沈んだ。
彼は続ける。
「あの……昨日も本当にありがとうございました。」
「いやそんな…私は話聞くしかできなくて。」
「そんなことないんです。
昨夜、歌詞を書こうと思って、
勢いで適当に一文字書いたところで
ペンが止まったんです。」
「は、はあ。」
「やっぱり流行とか最近の歌詞はとか、
いちいち考えちゃうんですよね。」
「あー…わかる気がします。」
「しばらく考えてたら、宮坂さんを思い出して。」
「…え、えっ…?」
「『自分を出したいって、当たり前』
って言ってくれたことを思い出したんです。
それで、まだ始めたばかりなのに
いちいち考えても仕方ないって思ったら、
ペンが進むようになったんです。」
「そ…そうなんですか…」
「すごい刺さったんですよ。
『音楽好きなんですね』って言われたことも
改めて言われるとそうだなと思って。
だから、ありがとうなんです。」
「い、いえ、そんな…私なんてあの、絵も、あっいや…」
「……?」
「な、なんかあったらまた、教えてくださいね。ね?」
「もちろんです。じゃ、行ってきますね。」
彼は自転車に乗り、走り出した。
私はなんとなく、その背中をしばらく見送っていた。
部屋に戻ると、袋からスケッチブックを取り出し、机に置いた。
静かな部屋に、1つの白紙が追加された。