ハレムを去る
長くなりましたが、お付き合いくださいませ。
「どうしてこうなった……」
アリシアがシェリルとして、ガダル・ガジャ国王のハレムに潜入して1ヶ月ほど。
彼女は、頭を抱えていた。
シェリルは、連日ハレムで催されるサルマンドの妻達の茶会に招かれては、そのお喋りに付き合っている。
妻達だけではなく、それぞれの侍女達まで加わることもあるので、それはもう噂話に事欠かず、シェリルも新参者として疑問に思うことは尋ねてみれば、過剰なほどに情報を落としてくれる。
真偽の確認は必要だが、妻達の情報収集能力はなかなかで、婚姻を控えてハレム入りしたシェリルに、おそらくサルマンドの意向もあって、非常に親切にしてくれていた。
サルマンドはこのひと月ほど、執務が終わると連日シェリルの元を訪れ、夕食を兼ねて夜遅くまで話し込み、その後はどの妻の部屋にも訪れることなく、彼自身の部屋で独り寝で夜を過ごしていると言う。
つまり、これまでのように妻や子供達と過ごしてはいないらしい。
シェリルはそれに対し、妻達がどう思っているのか気になっていた。そして、決してシェリルが悪い訳ではないのだが、申し訳なくも思っている。それについて尋ねると、妻達は代わる代わる口を開いた。
「ガダル・ガジャの権力者の男にとって、女は政略と後継を作るための道具のようなもの。他国からいらしたシェリル様には馴染みがないかもしれませんが、陛下は役目を果たした私達を充分ねぎらって、贅沢も許してくれています」
「小国の王女だった私達は、もともと殿方に愛情なんて求めていませんし、そんな感情は人生に苦痛をもたらすだけと言われて育てられますの」
「だって、求めても応えてもらえないのは辛いことですし、嫉妬とか恋情を持てば、他の妻たちとも上手くいかないでしょう?」
「王家や首長の家に産まれた女は、夫に見放されないように、疎んじられないように振舞って、そして、決して恋心なんて持たないようにして、自分と子供たちを守るんですの。必要なのは、忠誠心ですわね」
「ですから、陛下が私達に変わらぬ生活と立場を保障してくださる限り、私達は陛下とシェリル様との恋愛に口を挟もうと思ってはおりませんわ」
「もちろん、この先シェリル様にお子が出来て後、わが子達を蔑ろにされる様な事があれば、シェリル様に物申させていただきますけど。陛下は子供達には、これまでと変わらず声をかけてはくれていますわ」
「陛下は見目麗しいですし、女性に対しても丁寧です。もちろん南部地域の首長としての采配も素晴しいんですの。でも、ご苦労もとても多いから、シェリル様とお過ごしになられることで癒されていただきたいわ」
「それとも、まだ平民の冒険者とかいう元のご主人を忘れられないんですの?」
「噂によると駆け落ちされたとか?」
「でも、もとは貴族の家にお産まれなら、政略結婚への理解もありますでしょ?」
「陛下は、シェリル様からの愛情を求めておいでですわ。どうか陛下と向き合って下さいませ。だって陛下にとって、シェリル様は特別なんですもの」
「私達では、決してシェリル様の代わりになれないのです。せめて、このハレムでシェリル様が心地良く過ごしてもらえるように、力を尽くすまでですわ」
妻達に圧倒されつつ、ずっと黙って妻達の話を聞いていたシェリルは、ここでやっと口を開く。
「皆様のお心遣いはありがたく思っております。それでも私は、やはり夫を愛しているんです」
サルマンドの妻達を巻き込んでの、シェリルの取り込みに、いつも以上に疲れた茶会だった。
そもそも、サルマンドもその妻達も、アリシアとは全く違う価値観のもと生きているらしい。
アリシアは、レーヴェルランドで育ち、ベルハルト王国、カルディス帝国、北方地域を回ってきたが、これらの国々は王族や貴族間で政略結婚の文化はあれど一夫一婦制で、南部地域の一夫多妻制とは大きく結婚観が異なっている。もっとも南部でもそれは権力者の間だけで、一般庶民の多くは一夫一婦制だ。
だからこそか、南部地域の王族や貴族に産まれた子女の結婚に対する感覚は、否定こそしないがアリシアには理解しがたいものだった。
アリシアは、目を閉じてヴォルフを想う。
浮かぶのは優しげに緩む紅い瞳。いつもは厳しく冷たい印象の表情が、アリシアを見るときだけは優しげで穏やかになる。そして、頭や背に伸ばされる大きな手。広い胸に抱き込まれるときの温かさ。
どんなアリシアでも許してくれる懐の深さに、いつだって甘えてる。
最初の出会いこそ敵同士だったけど、再会し、共に過ごすうちに次第に惹かれて、いつしか一番近くで寄り添って生きていきたいと思うようになった。
何にも代えがたい大切な人。結婚の魔法契約こそまだ交わしてはいないけれど、アリシアにとって多分この先も唯一の愛おしい半身、それがヴォルフだ。
ヴォルフに会いたい……
でも、もう少し、シェリルとしてここでやらなければならないことがある。
あの魔道具を作り、テイラーに使った者に会わなければ。
「シェリルよ。どうした? 何を憂いている」
気がつけば、今日もサルマンド・ユージーン・カジャは、シェリルの部屋へとやって来ていた。
窓から外を眺めながら、考え込んでいたシェリルに、夜は冷えるからと上着を掛けてくれる。
確かにサルマンドは、優しく紳士的にシェリルに接してはくれる。そして、シェリルが彼に向ける表情は無表情であるのに、僅かな感情の変化を汲み取ろうとするように、じっと彼女を見つめるのだ。
おそらくシェリルが心地よく過ごせるように、彼なりに気を遣いたいのだと思う。彼女をここに連れてきたやり方は強引だったが。
彼の側は息が詰まる。
何を求められても、応えられないし、応えたくない。どんなに優しく言葉をかけられようと、触れられようと、サルマンドは、シェリルを尊重はしてくれないし、結局は彼のしたいようにしてるだけだ。
まるで鑑賞物を愛でるように。
だからシェリルも、サルマンドを一人の男としては見ないと決めている。
「サルマンド様、レーヴェルランドのこと、どうなっていますの? 私は本来、彼の国からのハレムの護衛に雇われたのでしょう?」
シェリルは、時々レーヴェルランドのことを質問に取り混ぜてみてはいる。いつもは、曖昧にはぐらかされ、何も憂うことはないと宥められて終わるのだけれど、今日はどうやら違うらしい。
サルマンドは、シェリルの手を取るとゆっくりと言葉を続ける。
「シェリルも帝国の騎士だったならば、彼の国の女性戦士のことは、聞いているだろう。彼女達は聖石を持ち、魔法の多重行使を武器に圧倒的な戦力を持って、周辺の国を脅かしている。だが、安心していい。我が国は、対聖石の魔道具の開発に成功し、量産体制を整えた。今、レーヴェルランド侵攻の準備を整えているところだ」
「⁉……戦争をするつもりなのですか?」
サルマンドは、ハッとして顔を上げたシェリルの頬に手を伸ばし、そっと撫でる。
「憂いを払う為だ。レーヴェルランドはこの大陸に災いとなるだろう」
「こちらから仕掛ける必要が? レーヴェルランドがこの国に何かしたのですか?」
「……大丈夫だ、案ずるな、シェリル」
シェリルいやアリシアは、まさかガダル・ガジャがレーヴェルランド排斥の為に戦争を起こす準備を整えているとまでは考えていなかった。
正確に言えば可能性の一つではあったものの、サルマンドは選択しないだろうと考えていたのだ。
甘かった……
手を打たなければならない。
「私も、行きます。お願いです、サルマンド様。どうか私をその作戦に加えてください」
「何を言っているのだ? 我軍の戦力は帝国と変わらぬ程度には、強い。それに秘策もある。大丈夫だ。お前はあとふた月で我の妻となる。憂うことなくこの部屋にいれば良い」
「……では、せめて外出の許可を」
「まさか、あの冒険者に会いに行くつもりか?」
「違います。戦争かもと聞いて、落ち着かないのです。ハレムも私には気詰まりで……少し気晴らしがしたいのです。私はもともと騎士でした。サルマンド様もご存知の通り、腕に覚えはあります。セフィロスに会うかなんて、誰かを伴につければ」
「伴につけた護衛がお前に懸想したらどうする? それにお前は確かに強いが、我には今、少々厄介な敵がいる。お前は我の最大の弱点だ。万が一にも何かがあったら我は………」
だが、シェリルは思い詰めた表情で押し黙る。
サルマンドは、大きなため息をついた。
「はあ、わかった。明日時間を作って、我と共に宮殿内を案内する。それで、気も晴れるだろう。レーヴェルランドとの戦争が気になるなら、我の側近にも会わせるから、気になることは尋ねるがいい」
「ありがとうございます」
硬い無表情で頷いたシェリルの感情を、少しでも拾い上げようとサルマンドは、手を引く。
「それよりも、シェリル。こちらに来て、我を慰めてくれ」
「サルマンド様、私は……」
言葉を続けようとしたら、口づけられた。
見開かれた菫色の瞳をサルマンドが覗き込む。
「無粋なことを言いそうだったのでな。許せ。早く、我のものになれ、シェリル。愛してる」
そうして、シェリルを緩くその胸に抱き込んだ。
アリシアは、決める。
明日、側近達に会ったら、ここを出ようと。
翌日の午後、サルマンドがやってきて、王宮内の美術品や庭などを一緒に見て回った後、庭園のガゼボに茶の準備がされ、彼らの側近に引き合わされた。
宰相、軍の総帥、外交通商の担当者と、主幹産業である魔道具開発責任者の30歳〜50歳程度の男達だ。
どの者達も、シェリルには好意的で、その美しさや剣技を褒め称え、帝国の様子などを尋ねてくる。
彼女はそれに当たり障りなく答えていたが、やがて話が途切れたところで
「私は……ここにいるべきではありません」
と、目を伏せて呟いた。
シェリルの隣でサルマンドが身体を硬くし、彼女の手首を握り込む。
それを見た宰相が、二人を宥めるように口を開く。
「なるほど。陛下の愛情に戸惑っていらっしゃる? それとも、陛下のお気持ちをお疑いか?」
穏やかに言われて、シェリルは顔を上げる。
魔道具開発責任者が、それに頷きながら宰相の言葉に続けた。
「サルマンド様は貴女に夢中ですよ。
確かに陛下は政略と慣習により、若いうちから妻や子を得なければなりませんでした。しかし、心は貴女に捧げています。他国からいらした貴女が、この国の首長の在り方に馴染めないということも理解は出来ますが、どうか陛下に向き合ってみてはくれませんか? 私は陛下が恋に堕ちるのを初めて見ましたが、悪くないと思うのですよ」
「男には癒やしてくれる、賢く謙虚な女性が必要ですからね。そして貴女はとても美しい」
外交通商担当者も笑いながら援護する。
シェリルは、首を小さく横に振った。
結局、皆、シェリル……いやアリシアの気持ちは無視して、自分達の希望を押し付けるだけ。
レーヴェルランドのことも良く知りもせず、自分達の先入観と思い込みだけで危険な国と判断し、排斥にまで動き出す。
個人間ならまだしも、国家間となれば、アリシアはもう看過できない。
アリシアは、サルマンドからゆっくり手を抜くと、立ち上がった。
清冽で厳かな美貌の女が、男達を見回す。
一瞬で彼女を取り巻いた、その神聖で近寄りがたい空気に、誰もが言葉を発する事もできずに女をただ見上げた。
その女が、ひたりと魔道具開発責任者であるジルディオに視線を定めた。
「貴方にもお尋ねしたかった。なぜテイラーを裏切ったのです?」
「⁉」
ジルディオがハッとして息を呑む。
女の菫色の瞳が、彼の奥底を覗き込むようにまっすぐに合わされた。
「何が目的で、彼女に近づいたのですか? 恋愛感情ではなさそうですね。魔道具師としての興味? それとも最初からテイラーを害するつもりでした?」
冷たく澄んだ声が、ジルディオを問い詰める。
その白く滑らかな額に、金色が散る紫色の石が浮かび上がった。
彼女を取り巻く空気が変わる。
艷やかな淡い金色の真っ直ぐの髪が、フワリと舞い上がり、彼女を取り巻く魔力が神々しくぼんやりと光を湛えた。
まるで女神のような雰囲気を持って、女の美貌が周囲を圧倒する。
「シェリル……」
我に返ったサルマンドが、呟くように女を呼んだ。
だが、誰もその場を動くことが出来ない。
女は首を横に振ると、ガゼボを出て振り返った。
「私は、アリシア・シェリル・ラ・クィーヌ・レーヴェルランド。レーヴェルランド第63代女王」
「なっ……」
名乗りを上げたアリシアに一同は震撼する。
まさに、排斥のための準備をしていたレーヴェルランドの女王が、ハレムで国王の寵姫として滞在していたのだ。
そして、圧倒的な力の差に、大の男達が身動きすら取れず、呆然と眺めるだけだ。
「此度、私の民テイラー殺害の詳細を知る為に、この地に来た」
冷たく言ったアリシアの声に、ジルディオが震えながら叫んだ。
「アレは事故だった!聖石がなくても、彼女なら問題ないとそう思ったんだ!向こうだって、俺を探ってた!」
ジルディオの声を聞いて、呪縛から逃れた総帥が、結界魔法を発動させ国王と自分達を覆うと、少し離れたところに立つ護衛官に向かって声を上げる。
「クソッ!衛兵を呼べ!」
バタバタと周囲に護衛達が集まってくる。
だが、何かに阻まれて近寄っては来れない。アリシアによる、無詠唱で張られた不可視の結界だった。
「そうですか……よくわかりました。もう結構です」
次の瞬間、魔道具開発責任者の喉元に氷の刃が突き刺さった。声もなく倒れた男に、総帥が叫ぶ。彼が張った結界など、まるで役に立たなかった。
「誰か!捕らえろ!魔道具を持ってこい!」
結界外にいる護衛官が何人か走り去っていく。
アリシアはそれを眺めながら、空を見上げると声を上げた。
「ヴォルフ!」
すると間もなく、王宮の庭に影が差す。男達が思わず空を見上げると、黒く大きな羽を広げた飛竜が上空に現れ、旋回しだした。
特級魔獣の襲来に全員が凍りつく。
だが、その飛竜の上から飛び降りてきた影に、更に目を瞠ることになる。
「呼ぶのが遅い」
第一声は文句だった。
艷やかな黒髪、獰猛そうだが端整に整った顔、印象的な紅眼。バランスよく筋肉のついた立派な体躯。
現れた男は、この国の権力者ならよく見知った顔だった。もう、この世にはいない筈のカルディス帝国元皇帝、ヴォルフガイン・ゲオルグ・フォン・カルディス。
「お前は、まさか……帝国の……」
サルマンドと側近達は、男の正体に行き当たり、絶句する。先程アリシアは彼をヴォルフと呼んだ。そもそもあの覇気と特徴的な容姿だ。見間違える筈がない。
「そんな、馬鹿な……皇帝は、もう……」
サルマンドが呆然として呟いた。
だが、それを興味なさそうに見やったヴォルフは、アリシアの姿に一瞬顔を顰めたものの、大事そうに抱き寄せた。
「用事は済んだようだな」
ヴォルフは、喉を突かれ絶命した男と、ガダル・ガジャの国王を順に眺めると、今度はアリシアを抱き上げた。
素直に身体を寄せ、嬉しそうに男を見上げたアリシアに、サルマンドは思わず叫んだ。
「シェリル!待て!行くな!」
アリシアはサルマンドを見ない。そのことに、サルマンドは絶望した。
代わりにヴォルフがサルマンドに答える。
「悪いな、サルマンド。コイツは俺の女だ。コイツだけは誰にも譲れない。とりあえず返してもらおう。後日そちらには使者を立てる」
そうして、屋根の高さほどまで降りてきた飛竜に飛び乗ると、そのまま飛び去って行ったのだった。




