皇帝の退位
アリシアの皇城滞在が決まった日の夕刻、皇帝の執務室に、皇女と側近達が集められた。
ヴォルフガインの妹アマリア、親友で側近でもあるクラウス、かつての護衛騎士で剣の師匠でもあり、現帝国軍総帥のバルトロメウス、クラウスの師でもあり現宰相のダッカード、ヴォルフガインとアマリアの魔法の師であり現帝国筆頭魔法師のエドウィンだ。
彼らを一同に集め、そのまま会議をするからと言う。
「隣で楽にしててくれ。しばらくしたら戻るから。アマリア、茶と軽食を準備するようにメイドに言ってある。来たら並べて始めておいてくれ。話は少し長くなりそうだから」
と言い置いて、部屋を出て行ってしまった。
隣とは、執務室の隣に続き間になっている部屋のことで、少人数の重要な会議が出来るよう円卓が置かれている。
皆が顔を合わせて首を傾げていると、ヴォルフガインと入れ替わりにメイドが食事の用意を持って来たので、隣室へと移動し、並べて置くように指示をした。
だが、一人分多い。
誰を連れてくるつもりなのか?と、皆首を傾げながら席に着いた。
「そういえば、今日ヴォルフが部屋に女を連れ込んだらしいって噂が立ってたな」
クラウスが思い出したように呟いた。
「お兄様が? 本当ですか?」
それを拾ったアマリアが目を見開く。兄に女性の影などこれまで全く感じたことが無いからだ。
「ああ、ヴォルフの部屋付きのメイドが噂していたのを、俺の部下が伝えてきた。まあ、恋人とか情人とかって言う雰囲気じゃなかったらしいから、気にもしていなかったが……」
クラウスもそう言いながら、ヴォルフガインのこれまでを思い起こす。時々皇都の高級娼館に遊びに行くことは知っているが、恋人とか懇意にしている女性を私室に呼んだことは一度もない。そもそもそんな女性がいる気配もなかった。
「いい加減結婚も考えて欲しいのですがな」
ダッカードは大きなため息をつきながら、しみじみと言う。
だが、エドウィンが一言、切って捨てた。
「無理だろうな」
彼は若干空気が読めないところがある。
しかしすぐに、用意された食事の安全を魔法で確認して、
「問題ない。いただこう」
と食べ始めてしまったので、誰も何もいえなかった。
皆が食事を口にして、アマリアとベルハルト王国第二王子との縁談について話しだした時だった。
執務室の入り口の扉を開閉する音がして、やがて2人分の足音が会議室に近づいてきた。
「待たせた」
と、ヴォルフガインが部屋に入ってきた。しかし、その斜め後ろに立つ女性の姿に、一同が驚きを隠しきれず、呆然として動きを止める。
ある者は、畏怖の念を持って
ある者は、警戒をあらわにして
ある者は、恐怖に引き攣り
そして、初めて出会う二人は、女性の浮世離れした美しさと圧倒的な存在感に言葉を失って
異様な沈黙が訪れたが、ヴォルフガインは構わず、その女性の背に親しげに左手をやり、右手で女性の右手を取ると隣に立つ。
彼女に敬意を払うようにエスコートする姿に、ドレス姿でも無い、簡易なシャツとズボン姿の女性が、ヴォルフガインと同等の高位な女性に思えた。
「皆に紹介する。彼女は、アリシア・シェリル・ラ・クィーヌ・レーヴェルランド。レーヴェルランド第63代女王だ」
これに反応し、一同は慌てて立ち上がる。
レーヴェルランドという単語に、先日のダッカードの話を思い出したのだ。
「初めてお目にかかります、女王陛下。私はアマリア・ネルラ・フォン・カルディスと申します。カルディス帝国皇帝の妹にあたります」
まずはアマリアが腰を落とし頭を下げた。
「アマリア皇女殿下、丁寧にありがとう。アリシアだ。貴女のことはヴォルフから聞いている」
この言葉に、一同は更に驚いた。
全く敵意とか警戒を感じないアリシアの様子と、皇帝をヴォルフと気軽に呼んだことにだ。
「アリシア、こいつらが俺の側近達だ。端から、クラウスとバルトロメウス、エドウィンだ。ここまでは戦場で見ただろう。その隣が、ダッカード。うちの宰相をしている」
ヴォルフガインも女王を気軽にアリシアと呼び捨てている。
一体この二人に流れる空気感はなんなんだ? お前達戦場で敵同士として会ったんじゃなかったか?
問うような視線にヴォルフガインは、
「まあ、皆座ってくれ。アリシアはこっちだ」
と、ヴォルフガインの隣の席にアリシアを座らせる。彼も腰を下ろすと、他の者達も、狐につままれた気分で、とりあえず元の場所に腰掛けた。
「さて、早速だが…………今日皆を集めた理由だ。
結論から言う。
アマリアの婚約にも関わるが、俺はこの機会に皇帝を退位し、アマリアに皇位を譲る。ベルハルト王国の第二王子をアマリアの王配に迎え、アマリアが女皇になる。お前達には、今後アマリア達夫婦を支えて欲しい。
俺はアリシアと皇城を出て、一緒に旅に出る」
「はあっ?」「陛下何を?」「正気?」
「冗談を言ってる場合では……」
今日二発目の爆弾に、側近達が一様に目を剥いた。
アリシアただ一人が、静かに茶を飲んでいる。
これにアマリアが反応した。
「あの女王陛下? もしやご存知でした? 失礼ですが、兄とは一体……」
「私も先程聞いたところ。巻き込まれたクチ。ちなみにヴォルフとは、今日の昼前に皇都で声をかけられて、無理やり連れてこられた」
恐る恐る尋ねたアマリアに、女王は無表情だがどことなく遠い目をしてラフに答えた。
これに頭を抱えたのはクラウスだ。
「ヴォルフお前、女王陛下を無理矢理って、何してんの? しかも、レーヴェルランドだぞ。正気か? それに退位するとか、二人で旅に出るとか……ふざけんなよ」
声を震わせ睨みつけてくる親友に、ヴォルフガインは苦笑して、隣に座るアリシアの頭を軽く小突いた。
「アリシアお前、誤解を招くような言い方はやめろ。クラウスも心配ない。こいつは別に俺たちに害意はない。レーヴェルランドも同様だ。
今日この場に連れてきたのは、退位後共に旅に出る女を紹介して、ベルハルト王国の第二王子の人となりを確認するためだ」
その気安い様子に、アマリアが目を瞠った。
ヴォルフガインが女性にこんな親しげに触れるのを、初めて見るからだ。
しかも二人で一緒に旅に出ると言う。
以前、兄は女王にベルハルトとの戦争で剣で負けたと言っていた。
つまり、女王は兄を超える剣の使い手で、これまでの話を統合すると、兄はどうやら女王にご執心らしい。
皇城に戻ってから、レーヴェルランドの調査を命じていたのも聞いている。
そして、兄は退位を望んでいる。
今まで、兄が自分や周囲の人達を守る為に、必死に戦ってきたのを知っている。
母や祖父母や近しい人達を皇位争いで無残に殺され、国を逃げ出し、決して望んでいなかった戦いの中に身を置くため、剣の腕を磨き、戦略を学び、その手を血で染め、悪意や暗殺の危機に晒されながらも、文句も言わず、ひたすら皆の為に必死で生きてきた。
そして、今の帝国がある。
これまでずっと守られるだけだった自分が、兄の役に立つ時が来たのかも知れない。
ならば……アマリアは、兄の為に出来ることをやるだけだと思う。
「ダッカード、一つ尋ねます。今ここにいる皆の力を借り、私が女皇を務めることは可能ですか?
そして、女王陛下、ベルハルト王国の第二王子は、私と協力して良い為政者と成り得る人物ですか?」
アマリアの言葉に、口々に皇帝に物申していた側近達は、ハッとして彼女を見た。ヴォルフガインも口角を上げて、妹を見つめる。
「アマリア皇女殿下、もちろんでございます。貴女は今までこの席で数々の政策が施行されることに、関わっていらした。そして、常に学び続けていらっしゃる。皇帝の万が一の場合に備え、充分代行を務められる能力をお持ちだ。もちろん、我々はそれを全力で支えるつもりです」
ダッカードが敬意を持って、アマリアに答える。側近達も全員が頷きを持って肯定する。
すると、次に口を開いたのは、アリシアだった。
「皇女殿下、ベルハルト王国第二王子のレオンハルト殿下は、国と民を愛し、その笑顔を守ることに幸せを感じる素晴らしい人物だ。帝国がベルハルト王国と共に互いの発展を望むなら、この上ないパートナーとなると思う」
アリシアの言葉に、帝国の側近達の視線が集まる。
「お言葉ですが、女王陛下。王国は帝国に対していい感情を抱いていないのでは?」
ダッカードが代表して尋ねた。
「今回の開戦の原因となった、王国へと持ち掛けた条約とやり方には間違いなく。だが、帝国自体に悪感情を持っている訳じゃない。貴方方其々がレオンハルト殿下と話してみるといい。彼の誠実さを理解できる筈だ」
だが、エドウィンが言葉を挟む。
「レオンハルト殿下については、陛下が退位しなければ、そう大きな問題にはならないだろう」
彼らにとって、アマリア皇女が女皇になることを否定するつもりは無い。ベルハルト王国の第二王子との婚姻も賛成だ。
ただただ、ヴォルフガインが皇帝でなくなることに納得がいかないのだ。
これまでヴォルフガインが必死に戦ってきて、やっと安定して、民が安心して暮らせる国にしたのだ。
それを成した途端退位するなど、なんの為にヴォルフガインは血を吐く思いで、ここまでやってきたのだ。
「エドウィン、俺の退位はもう決めた。帝国は、転換期だ。これ以上、この国に俺は必要無い」
だが、ヴォルフガインは穏やかな表情でそう言った。
「そんなことない。ヴォルフ。お前は間違いなく、この大国を創り上げた偉大な皇帝だ」
ヴォルフガインの一番近くで、彼に寄り添ってきたクラウスが言い募る。
しかしヴォルフガインは、一瞬辛そうに表情を歪めると、目を伏せた。
「いや。クラウス…………悪い。そろそろ俺を解放してくれ」
「ヴォルフ、お前……」
クラウスは、ヴォルフガインのこの様子に、返す言葉を失った。
ヴォルフガインは、これまで弱音や泣き言など一つも吐いたことはなかった。
彼はきっと周囲を守るものと認識し、クラウスですら本当の意味で対等だと思っていなかったのかも知れない。そのことに、クラウスは衝撃を受ける。
「この国は充分大国になった。だが、それを維持するのは、ヴォルフで無くても良い。彼はもう決めている。巻き込まれはしたが、あなた達が大切にしているヴォルフのことはちゃんと守ってやる」
アリシアがヴォルフガインの隣で、そう宣言した。ずいぶんな言いようだが、アリシアの強さを充分理解している一同にとって、妙に納得出来る台詞だった。
それにこの女王は、彼らにとってヴォルフガインが大切な存在であることを、きちんと理解している。
「お前な……言い方酷いな」
ヴォルフガインが苦笑する。そして、アリシアの頭に手を伸ばし、くしゃりと淡い金髪を乱して撫でた。
アリシアは「髪が……」と言い、ヴォルフガインの手を払いのけている。
遠慮のない二人の様子を、呆気にとられて見ていた一同だったが、やがてアマリアが兄の様子に安心した様子で微笑み口を開いた。
「兄上、今までありがとうございました。頼り無い妹ですが、これからのことはどうぞお任せください」
「陛下。このバルトロメウス、アマリア皇女殿下いや、未来の女皇陛下を護り、共にこの国を支えていきましょう」
「私ダッカードも、承知いたしました。陛下のこれからが穏やかなものであることを祈っております」
バルトロメウスやダッカードも続けた。
クラウスとエドウィンが二人、言い淀んでいる。
「クラウス、エドウィン、お前達は賛成してはくれないのか?」
ヴォルフガインが二人を見て尋ねた。皇帝ではなく、これまで共に戦ってきた仲間としての言葉だった。
「退位のこと認めたくはないが、お前が心底望んで選んだことなら、応援したいと思う」
クラウスが寂しげに言った。
「陛下には感謝している。だからこれからも陛下を支えて助けになりたかった」
エドウィンは、泣きそうな歪んだ顔をしている。
そんな二人に、ヴォルフガインは頭を下げた。
「ありがとう二人共。これからは俺の代わりにお前達がアマリアを支えてやってほしい」
「やめてくれ。当たり前だ」「顔を上げてください、陛下」
と、同時に言われ、ヴォルフガインの退位は全員に認められた。
その後は、帝位の譲位について、どのような形で周知するか?方法はどうするか? 長い時間かけて話し合われた。




