プロローグ
ほんの数刻前まで、そこは美しい緑に覆われた草原だった。
二つの国を分かつ山々の裾野に広がる広大なその地は、朝の涼しい風が吹き抜け、いつも通り長閑な一日が始まるはずだった。
だが、その日、初夏の爽やかな青空の下の草原に現れたのは、ガチャガチャと無粋な金属音を響かせた約5万の軍勢。
真紅の旗に金獅子の描かれた旗を靡かせて、カルディス帝国軍がベルハルト王国側のこの地に侵略してきたのだ。
対するベルハルト王国は、僅か数百ほどの軽装の戦士のみ。しかも見る限り女性ばかりだ。いや、後方の小高い丘の上に、青地に天秤が刺繍されたベルハルト王国の国旗を掲げる騎士姿の男と、美しい白馬に跨っている華美な鎧を纏った男、その周囲に彼らを守るように囲む武装した男達が何人かは見える。男達は、おそらく王族とその護衛だ。
斯くして、戦いの火蓋が切られた。
帝国軍の軍勢が、雄叫びを上げてベルハルト王国軍目掛けて進軍してくる。
5万の軍勢による一方的な蹂躙になるはずだった。敵として戦うのは、ベルハルト王国の王族の護衛を除いた、軽装のしかも女性ばかりが数百だけだ。簡単に片付けて……いや生け捕りにして、奴隷にしてやろうなどと下卑た事を考える男もいた。さっさと終わらせて、帝国に帰り、豊かなベルハルト王国から略奪した報酬で贅沢を楽しむか、などと考える者もいた。どちらにしろ、この戦争は、帝国軍の圧勝で終わる。カルディス帝国側の誰もがそれを疑っていなかった。
その時、ベルハルト王国軍の馬上の男が手を振り下ろした。
同時に、帝国軍と王国軍を僅かに隔てていた草原の大地が、大きく地割れする。いや、割れた境界に泥沼が現れた。
草原を横断する勢いで広範囲に横に走る泥沼に、勢いが止まらない帝国軍兵士達が次々と突っ込んでいく。そして、腰まで泥沼にハマった者達は身動きが取れず、更にズブズブとハマっていく。
続いて帝国軍を襲ったのは、弓矢の嵐だった。正確に言えば、魔法で作られた数多の火や氷の矢だ。
帝国軍の魔法師達は、その様子に慌てて防御結界を張り巡らす。しかし、その結界も、泥沼にハマった兵士達の頭を足がかりに帝国軍側に攻め込んできた女性戦士達に破られ、更に物理と魔法攻撃に一方的に晒された。
結局……為すすべもなく次々と戦闘不能に陥ったのは、帝国軍だった。
美しかった草原は、今やあちこちに火の手が上がり、ドロリと泥濘んだ地面に未だに腰まで埋もれた兵士たちも多く見える。かと思えば、大剣や槍を振り回す女性戦士達に、ふっ飛ばされる兵士たち。一騎当千の女性戦士が、二重三重で行使する魔法とその高い戦闘力で、帝国軍の軍勢を削っていく。
帝国軍の本陣に次々と届けられる報告に、皇帝の冷たく整ったその表情が更に凍り付いていくのを見て、周囲の兵は震え上がった。表情は動かないのに、紅い瞳が燃えるような怒りを内包している。
「行くぞ」
皇帝は徐ろに立ち上り、側近たちを連れて、戦場を見渡せる高台へと移動した。
そして、その惨状を見て動きを止めた。
(…………何が起こっている?)
なかでも、ひときわ目立つ女性戦士がいた。
淡い金色に光るクセのない長い髪を頭の高い位置で一つに結び、スラリとした細身のしなやかな身体。まるで舞うように無駄のない美しい動きで、両手に持った双剣を振っている。おそらく風の魔法を纏わせたそれは、一度に数十人を吹き飛ばし、女はものすごい勢いで、まっすぐにこちらへと向かってくる。さらにその彼女の身体に沿うように張られた結界が、彼女への魔法や物理攻撃を許さない。戦場には似つかわしくない白い戦闘服に、返り血も土埃さえ、一編たりとも汚れがついてはいないさまは、異様だった。
「あれは……なんだ……」
その男にしては珍しく呆然とした表情で、思わず溢れた言葉。
そしてその呟きを拾ったように、女と視線が合った。
菫色の大きな瞳。年の頃は20歳には届いていないといったところか?美しい女性など見慣れた筈の男にしても、思わずハッと息を呑むほどの美貌。白い小さな顔にシンメトリーに配置されたパーツ、だがそこに浮かぶ表情は無く、まるで人形のようだ。そして目を引くのは、額に輝く親指の先程の宝石か?まるで、そこに元から存在しているような濃い紫色の石。よく見れば細かな金色の光が混じっているようにも見える。
カルディス帝国の若き皇帝ヴォルフガイン・ゲオルグ・フォン・カルディスは、ここが戦場であることを忘れ、女に魅入られたように動きと思考を止めた。
「ヴォルフ、危険だ!下がれ!」
が、親友であり側近のクラウスの声に、我に返る。
ヴォルフガインの前にサッと並んで立ったのは、そのクラウスと皇帝の剣の師匠でもあるバルトロメウス。
だが、その二人も女の魔法攻撃に吹っ飛ばされた。
「防御結界構築」
ヴォルフガインの左隣から、彼を守るべく結界魔法を発動させる短縮詠唱が発せられる。カルディス帝国の筆頭魔法師エドウィンの声だ。
先程から立て続けに女に対し長距離攻撃魔法を放っていたが、猛スピードで近づいてきた彼女に、慌てて防御に切り替えたらしい。
しかし僅かに間に合わず、彼もまた女が払った剣になぎ倒される。
「陛下!」「ヴォルフ!」
守るべき皇帝から引き離された側近達の焦る声に、ヴォルフガインは腰に差した大剣を抜いた。
女との距離は20歩ほど。
「お前がカルディスの皇帝か」
疑問形ではない、確信を持って掛けられた声は、涼やかな女性の声。
そして同時に二人を覆うように張られた結界は、半球体状の薄い水色に可視化されており、無詠唱で発動された。
(クラウス達と遮断されたか……しかも無詠唱での魔法行使に、多重行使も可能ときている。隙もなし、か。厄介だが、修羅場なら俺もそれなりにくぐってきているんでな)
「お前は?」
ヴォルフガインは剣を構えつつ、一応尋ねてみる。
「お前が勝てば、名乗ってやろう」
淡々と答える女は、まるで彼に負けることなど想定していない様子だ。
(その余裕な顔を、崩してやる)
ヴォルフガインは皇帝ながらも、幼い頃から戦いの中に身を置き、死に物狂いで魔法と剣そして戦術を学び、その才を開花させ生き残ってきた。今や国内最強の血濡れ皇帝と恐れられている男だ。
かつてない程の強さの敵に、ヴォルフガインは恐れよりも気分が高揚しているのを感じる。
「身体強化」
短い詠唱で、自身に速度強度が増す魔法を掛ける。
「ほう……」
漲る覇気を纏った皇帝に、女は初めて興味深げな視線を向け面白そうに小さく笑った。
そして正面から切り込んでくる。
女が左手に持つ剣から繰り出される一太刀目の重さに、ヴォルフガインは思わず合わせた大剣の柄に空いた手を添える。その隙を狙うように、右手の剣が脇腹を狙って振られた。予測された動きに女から離れ距離を取る。
思ったよりも重い剣を振るう女に、彼女が結界魔法を行使しながら身体強化も掛けているのを確信した。
大剣を両手で握り直し、今度はヴォルフガインが仕掛ける。
結界の外では、凄まじい速度で繰り広げられる二人の剣戟を、皇帝の側近達がジリジリしながら見守っていた。張られた結界は、物理攻撃でも魔法攻撃でも、ヒビ一つ入れられないのだ。
さらに草原では、帝国軍の約半数が壊滅状態だった。
「クソッ!」
やがて、膝をついたのは皇帝だった。
その目の前に突き出された剣先。初めて男は死を覚悟して、ここまで自分を追い詰めた女の顔を見上げる。
女は、僅かに速くなった呼吸を大きく息をついて整えると、口を開いた。
「ベルハルトから引け。そして二度と国境を侵すな」
結界は消え、その声は側近達の耳にも届いた。
どうやら女が皇帝を殺すつもりは無いらしいことに、側近達が一様に安堵する。
だが、ヴォルフガインは口角上げて、その視線を強くした。
「お前に指図されることでは無いな」
女は再び表情を消して、淡々と答える。
「戦場を見ろ。もう、充分だろう? それともその命が尽きるまで戦いたいか?」
脅しではなく、引かなければ殺すと。
「…………」
口を噤んだ皇帝の鋭い視線を受け流し、女は剣を下げた。
「皇帝としてこの先も生きるなら、戦いを手段にしないことだ。日が落ちれば魔獣も寄ってくる。さっさと国へ帰れ」
女は左手に持つ剣だけを鞘に戻しながらそう進言すると、皇帝に背を向け歩き出した。
ヴォルフガインは、思わずその背に声を掛ける。
「なら、お前は何故戦う?」
女は一瞬立ち止まり、顔だけで彼を振り返った。
「仕事だから…………あとは、平穏で幸せな毎日を送る為かな」
その後半の言葉と共に、仮面が外れたように一瞬現れた女の表情は、年齢相応の柔らかな女性の顔で……ヴォルフガインは思わず目を瞠った。
その額には今、輝いていたはずの紫色の石はどこにも無い。
一体何者なんだ?
血なまぐさい戦場に、あり得ない程清廉に美しく立つ、女性戦士。圧倒的な強さに、今や誰もが戦意を喪失していた。
この侵略戦争は、失敗だ。
それはヴォルフガインが皇帝に即位して以降、初めての敗戦だった。
やがて、ベルハルト王国から早々に帝国軍は撤退し、王国は防衛戦に勝利したとの報が、速やかに王宮に届けられた。
女性戦士達は誰一人欠けることなく、ベルハルト王国の領土と国民を守りきったのだった。