⑤救いの手
助けて、そう呟いた途端に世界は動き始めた。あれ、と私が周りを見渡そうとした瞬間、バチン、と頬に感じる衝撃と痛み。
首にも傷がなくて、短剣も私の手の中にない。……さっきまでの光景を見ていたというのに、この仕打ち……かぁ。
「首を切るフリなど……浅ましい!そこまでして構ってほしいのかしら!どうせ幻影魔法でも使ったのでしょう!ろくでなしのくせに知恵だけは働くんだから!」
……痛い……。
じんじんと頬の痛みは大きくなっていく。同時に、私の心までもを、蝕んでいくような、そんな感覚が広がっていく。
構ってほしい?誰が?誰に?
もしかして、夫人に対して、私が構ってほしかったからこんなことをしていると、本気で思っているの?
だとしたら、とっても面白いジョークだこと。この家の人間になんて、もう構ってほしくなどない。関わってすらほしくない。使用人含めて、何もかも全て、私の視界から消えてほしいくらいだというのに。
「お前は……っ、お前は本当に、忌々しい存在ね!」
自分が取り落としていた扇を夫人は拾い上げ、何度も何度も私へと打ち付ける。
頭、顔、肩と、それだけで飽き足らず、いいえ、苛立ちが最高潮に達したのか、がばりと立ち上がって思いきり私を蹴りつけた。
「ぁぐ、っ」
「あああああもう、どうしてお前はロザリアと同じ顔なのよ!!気持ち悪い!!うちの子なんかでいてほしくないの!!死ね!!そんなに望んでいるなら殺してさしあげますとも!!」
がつがつとハイヒールで何度も蹴られ、あちこちに傷が増えていく。
まるで錯乱でもしているかのような、容赦なく私に対して躾を遥かに越えた暴力を振るう夫人の様子を見た使用人たちは『奥様、いけません!』と止めようとするが、呆気なく夫人の風魔法で廊下まで吹き飛ばされてしまう。
あーあ、可哀想。心構えをしないままだと、体は衝撃に耐える準備は出来ていないから、相当な痛みがあるのに。
どこまでも、私は冷静だった。
私は、もう殺してもらえるなら何でも良いや、と思っているからこそ、抵抗なんかしない。
蹴られるまま、人形のように床に転がっているだけ。好きなだけ暴力を振るえば良い。
お腹を踏まれて苦しくて、更に追加で思いきり蹴り飛ばされて少しだけ体が横に転がってしまう。そうしたら夫人に背中を見せることになってしまった。次は背中、腰、と、ありとあらゆるところを蹴られる。
体重を思いきり乗せているからとても痛い。
良いんだ、これで。
夫人の言う通り、私はこの家にとっては邪魔な存在なんだから。私が死んでいなくなれるならば、殺してほしいという願いを侯爵夫人が叶えてくれるのならば、後々悲劇のヒロインぶって私の死を悼もうが私は知らない。
さっきの声にも、『ざまぁみろ』と心の中で呟いて反撃をしてみる。
生きて、だなんてとてつもない罰でしかないの、私にとって。こんな場所で生きたところで、永遠の拷問に等しいことなのだから。
「お前の望み通りに今!殺してやるわ!もっと早くにこうしておけば良かったのよ!」
夫人は、回復魔法こそ下手くそなものの、風魔法は……特に攻撃魔法は、驚くほどコントロールがうまく得意としている。
だからこそ、私はこれで死ねるんだと心の中で歓喜した。ありがとうございます、と夫人に対して心の中で、初めてお礼を言った。
「風の刃!!」
短く、鋭く詠唱した夫人の手に現れたであろう、真空の刃。
あぁ、良かった。夫人の一番得意な術だわ。
初級魔法なのに、夫人は扱うのがとてもお得意だから、中級魔法ほどの威力がある。
これで、本当に終われる。
私と夫人の距離はさほど離れていないから、威力が衰えることもなく、そのまま私へと風の刃は放たれた。
風の刃は、肩から腰にかけてナナメに。その威力は恐らくフルパワーなのだろう。
モロに魔法を受けた私の体は、ほんの少しだけ跳ね上がり、ドレスが裂け、次の瞬間に体が斜めに切り裂かれてしまう。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「お嬢様!!」
「いやぁーーーーーー!!」
メイドたちは阿鼻叫喚……そりゃそうでしょうね。
母親が、娘に向かって攻撃魔法を放って、しかも殺傷能力が高いレベルの風魔法。肩から腰にかけてナナメに切り裂かれ、ばっと血が溢れ出し、私の口からもこふりと血が溢れ出した。
「あ、あははっ、あははははっ!!やったわ!!これで我が家は安泰よ!!あっははははははは!!」
狂ったように笑う夫人が、何故だか私にはとても滑稽な姿に思えた。
痛い、苦しい、辛い。
じわじわと暗くなっていく視界と、先程の声の主にさようなら、と。
そう告げて、降りてくるまま瞼をふっと閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「は、はは、……あはは、やったわ……!」
ぜぇはぁと肩で息をするアリソンを、メイドたちは呆然と見ていた。
何人かは腰を抜かし、駆けつけてきた別のメイドは部屋の中の惨劇を見て悲鳴をあげ、どこかに走り去る。
「これでようやく我が家にも平和が訪れるというものよ!」
声高らかに笑いながらアリソンは大きな声で言い放つが、不意に肩を掴まれ、そちらを向かされると思いきり頬を打たれた。
「な、っ」
いきなりの暴力を振るわれ、アリソンはカッとなり反論しようとするが、その人物が纏う鎧を見て愕然とした。
「……え?」
「侯爵夫人、ご息女に何をしておられるか」
「……王立、騎士団」
あ、と呟くがアリソンの頬を打った騎士団員の後ろからはぞくぞくと他の騎士たちが部屋になだれ込んでくる。
何をするんですか!とか、お前たちは何だ!というほかの使用人たちの悲鳴や叫び声があちこちから聞こえているが、それが一気に静かになる。
次から次へと何だ、とアリソンは考えるが、どうしてこんな人たちがここにいるのか。そして、何故このタイミングでやって来たのかが理解出来ていなかった。
別に邪魔者を殺したくらい、何の問題もないだろうと考えていた。要らない子は、処分されてしまうのが当たり前でしょう?とも、アリソンは考えていたのだ。
「ルクレツィア!!」
しかし、更に聞こえた、貴族ならば……いいや、国民ならば誰しもが聞いたことのある声。
「…………………………え?」
アリソンを突き飛ばし、室内に駆け込んできた動きやすい服装の女性。
迷うことなく血溜まりの中に倒れるルクレツィアを、自分の衣服が汚れるのも厭わず、駆け寄って跪いた。
「あぁ……っ、なんてこと!ルクレツィア、死んではなりませんよ!ルクレツィア!」
「王妃様、こちらを!」
王妃ファリエルとともにルクレツィアに駆け寄った女性騎士が、懐から一本の瓶を取り出す。
「魔力増幅ポーションです。さぁ、お早く。夫人がもしこちらに来ようものなら切り捨てても構いませんか」
「良いわ」
「は?!わ、わたくしはこのノーマン侯爵家の夫人ですわよ?!」
「黙れ、殺人未遂を犯した者の言うことなど、聞いて何になる」
アリソンの言葉を一刀両断し、騎士は背後に王妃を守る。近付けば殺す、と言わんばかりに殺気を溢れさせた。
一方、何が何だか分かっていない使用人たちは、ただその場を呆然と見ることしかできなかった。
優美でいつも優しいアリソンが、いくら嫌っているとはいえ娘に対して攻撃魔法を放ったことは、紛れもない事実。
死にかけているルクレツィアに対して、『平和が訪れる』とも言うほどに嫌いだったのか、と。使用人たちは揃って愕然とし、夫人に対しては失望した。
『誰も私のことは気にかけていなかったくせに』と、ルクレツィアが目覚めたならば、冷たく言い放っただろう。
それほどまでに勝手極まりない思考回路を、ここの使用人たちはどうやら持ち合わせてしまっているようだ。
「何て深い傷……!」
ファリエルの絞り出すような声は、驚くほど聞き取りやすく、使用人皆に聞こえた。
「これが、……こんなこと、親のすることですか!」
そうして、ルクレツィアにばっと手を翳し、回復魔法をかけていく。
ただし、普通の回復魔法では生きる気力がほとんどない状態のルクレツィアには、恐らく届かない。彼女を救わねば、と思いながら、ファリエルは自身が使用できる中でも最も強く、魔力消費の激しい魔法を、躊躇なく展開した。
「聖なる光繭!」
しゅるしゅると光の帯が発現し、あっという間にルクレツィアを包み込んだ。
おぉ、と使用人たちから感嘆の声が聞こえてくるが、ここでようやく彼らは疑問に思った。
「……どうして、王妃様が」
騎士服のような動きやすい格好で、更に普段は結い上げて豪奢な髪飾りを着けているにもかかわらず、今は全くない。
長い髪をポニーテールに纏めているだけだ。
光の繭が完成し、ふぅ、と一息ついたファリエルは、ゆっくりと立ち上がってアリソンを冷たく見据えた。
「ノーマン侯爵家の使用人は、教育がなっていないのね」
「な、っ」
「ルクレツィアの今の立場は、王太子と婚約している以上は準王族。……影がついていて、そちらの行動は筒抜けなのだけれど」
あ、とアリソンから間抜けな声が漏れる。使用人たちもそれを言われ、ようやく気付いた。
「よくもまぁここまで、好き勝手をやってくれたわねあなた方」