金持ち嫉妬せず
「よくよく考えたらこれってピクニックなのか?」
「野外には出ているから違いないわ」
詠奈は装いをワンピースに改めて庭にやってきた。形から入るタイプだけあって仕事をするつもりはかけらもない服装だ。白い布にはほんの少しの汚れもない。それはまるで彼女の純真さを表しているかのようだ。その表現、ぴったりだと思うのだがどうだろう。彼女は人が死ぬ事を何とも思っていない。世間一般で悪い事と理解していても己の価値観に沿えばなんという話ではない。誰よりも自分を信じ、自分に価値を感じているからこそ、その行動には迷いがない。
シートもバスケットも既に用意されている。家のすぐそばの庭で行っているせいで全くピクニックには思えないが、一応体裁は整っている。詠奈もそのつもりだ。
「はあ、外の空気が美味しいわね。仕事って息が詰まるわ。やりがい、適性? 私の権力は私が望んで得たものだけど、積み上げて来たこの歴史は全く関係がないわ。だから……窮屈」
詠奈は俺の隣に座り込むと、肩を預けるように身体を傾けた。
「伝統、歴史、継承。本当はそんな物とは無縁の場所で暮らしたいわ。残念ながら……それが出来たらもう私ではないのだけどね。手に入らないからこそ欲しい物もある」
「流石にお金じゃ買えないよな、そういう……暇?」
「ああ、その気になれば勿論可能だけど、話はそこまで単純ではないわ。だってこれを叶えたらきっと退屈する。自由には少なくとも責任が生じるわ。私は何でも出来る。出来るから、出来ない事は決して望めないの」
「難しくなりそうな話だな」
バスケットの中にはサンドイッチが入っている。数は手頃……いや少し多いか。俺が良く食べるからと量を多めにしてくれたのだろう。取り出したサンドイッチを詠奈に一つ、それから自分のを取って、空を見ながら頬張った。
「…………美味い。美味い。高級料理は勿論いいけど、こういう素朴な料理がやっぱ懐かしさとかもあって俺に合うな」
「お義母様が作ってくれたのかしら」
「そんな機会には恵まれてないけど……経験がないのに懐かしいって事あるだろ。デジャヴュだっけ」
ピクニックなんて行った事がない……は流石に嘘だが、それは確か幼稚園での出来事だったし、弁当はなかった。親が作るのサボったのだ。食べたという事にされたのを今でも覚えている。
でもこのパンの食感や、挟まれたハムの肉質は確かに憶えているような。まるでもう一人の自分が経験したみたいに暖かい。知っている。
―――気のせいなのも、違いないけど。
科学的には脳の勘違いと言われているのだったか。何故そうなるかと言われたらやっぱり初恋の女の子が目の前に居るからだろう。誰しも初めての恋が続く訳じゃない。多くは破れて過去に眠る。たまたま詠奈がお金持ちだったから続いているだけ―――それは言い換えれば、恋愛が停滞しているという事だ。過去に囚われ続けているから、懐かしく感じている。二度目の恋も三度目の恋もなく、この初恋は続く。
本来ノスタルジアに相応しい初恋が続いているイレギュラーこそが、この既視感の正体だ。
詠奈はサンドイッチと言えども上品な手つきで綺麗にパンを食べていく。じっと俺を見つめて、瞬きも限界まで遅らせる勢いで。
「仕事が終わったら、ゲームでもするか? そんなに仕事が苦痛なら」
「ええ、そうね。そういうのもたまにはいいかもしれないわ……君と一緒なら何でもいい。私はとっても安上がりな女なのよ。自分で言うのもおかしいけど、お金と手間のかかる趣味を持たなくて良かったわ。特に準備に時間がかかるような趣味だったら、その間に爆発していたでしょうね」
「お前が怒ったら俺は何をすればいい?」
「きっとその場で泣き喚いて地団駄を踏むから慰めて欲しいわね。ふふ」
偏見なのか違和感なのか決めかねている。俺は散々彼女の事を我儘なだけの女の子と言ったが、今の言葉を聞いたか。
お金のかかる趣味を持たなくて良かったと言ったのだ。
使っても使っても尽きない程のお金を持っているなら、何事にもお金をかけてしまうようなリッチな趣味があってしかるべきというのは庶民の発想なのだろうか。一方で書庫の本は相当な量だ。あれでお金がかかっていないという判定だったら仮説は直ぐに崩れる。
ただ違和感は拭いきれない。たまにお嬢様ではなくなるというか……寂しがりの女の子が顔を出している、ような。
小さくなったサンドイッチを口の中に放り込む。詠奈はしっかりと頬を動かしてから嚥下して、同時に頷いた。
「気分だけでも味わうつもりだったけど、こうして君ととりとめのない話をしている時間は想像以上に楽しいわね。次があれば本当に何処かへ行ってみましょう? 山の頂上なんてどう? こんな小さな山ではなくて、富士山とか」
「寒いぞ」
「お望みなら、山の上の地形も気温も変えてあげるけど?」
詠奈はシートに突いた手を握り締めて、上目遣いに胸を押し付ける。
「これは、そう。衝動の発散。食べ物を沢山食べてストレスを減らす人が居るように、買い物であまり計画性もなく大量に買ってしまう事でストレスを失くす人が居るように、君のお願い、何か叶えてあげたいの」
顔が近い。文字通り目と鼻の先に彼女の顔が合って、鼻息が顔にかかってしまう。上から見える谷間は呼吸で静かに上下して、視線を射止めようとしているかのよう。
「つ、尽くしてくれるのは嬉しいんだけど……お、お嬢様。いや御主人様としてどうなんだ! 俺は所詮道具だし! い、労わってもらわなくても……」
「あら、それを言ったら君には散々尽くしてもらっているわよ。着替え、食事、会話相手、送迎のエスコート、就寝、入浴、本能を満たす性行為。生きる上で不可欠な衣食住は私がどうにでも出来るけど、心の渇きは難しいわ。この屋敷に在る物の中で君が一番私を満たしてくれる。いつも有難う」
「い、いや……その……………………あははははは、はははは」
詠奈にしては珍しく……そこまで飾り気のない率直な感謝を伝えてきて、ちょっと本気で照れてしまった。かっこつける事も出来ずにただ照れていると、詠奈が額にキスを交わして、覆いかぶさるように抱きしめてくる。
「…………君がそうやって、私を好きでいてくれる限りは、仕事で頑張れる気がする」
「え、あ、う、うん」
「ここに居る子はいいけど、他の子に目を向けちゃ駄目よ。少しでも誰かを犯したいと思ったら私を襲っていいから」
「ちょ、それは語弊がある! なんか言い方がまずいだろ! ていうか言われなくても、いつもそうしてるし! 今更言われなくたって…………」
「最近、夢を見るの」
抱きしめられているから、表情は分からない。声は淡白に、一定のまま。
「君が遠くへ行く夢。勿論それはあり得ない。そんな事は分かっているわ。お金で買えない物はあっても命はお金に代えられる。私は君の全てをお金で買ったけど……遠くへ行くって事は、私よりも多いお金で誰かが君を買ったとしか考えられない」
「そ、そんな奴居ないだろ! 俺が貴重な存在でも……ぎ、銀行でもお前には勝てないさ。絶対……有り得ない。夢だって」
「そうね。今のままだったら夢かもね。でも……私がこの地位を失ったらどうかしら。ありえないって言いたいけど…………私はこの地位にそこまで執着出来ないみたいだから。絶対とは言い切れないわ。ねえ景夜。どうしたら私は―――絶対君から離れられないって信じられるかしら」