葬られた歴史
「さて……」
千癒が翻訳してくれた文書に向き合う時が来たようだ。こういう時に人任せになるのは良くないと思う反面、今から昔の言葉を覚えるのは時間がかかりすぎる。勉強を楽しいと思えたらすぐに覚えられると思うが、実際楽しいと思えるかどうかはその時の俺次第だ。
『知識があれば人生で楽しめる事が増える』とは昔詠奈が言った事だけど、今は娯楽というより追究の時間だ。分かりやすく読める本があるなら優先する。
「…………」
王奉院の存在を記した書物は非常に少ないどころか、まともにその名前が言及されるのは戦後からだ。千癒が訳した中で一番古い年代の物には王奉院の名前の代わりに将軍の傍らで知恵を授ける賢者として存在が示されていた。表向きの軍師とは全く関係がなく、存在は一部の者しか知らなかったようだ。
「…………」
王奉院詠奈には一切の個人情報が存在しない。深紅君の発言は恐らく正しいだろう。じゃないと色んな勢力がもっと弱味を握る為に詠奈を探る筈。現代から逆算するのもどうかと思うが、昔から自分を隠していたなら現代までそれが続いている事も納得だ。
記述はないが世は戦国時代。使えもしない奴を重用する事もなければ知名度のない怪しい人間を引き入れる時代でもないだろう。つまり王奉院と思わしき存在はこれ以前から有用な人間として知名度があった可能性が高い。町で評判だったのか、それともどこか信頼できる筋から聞いたのかは分からないが。
本当にこれしか情報が無かったのかというくらい、直接的な言及が避けられている。昔の時代にここまで情報統制は出来る物なのだろうか。あの者だのかの者だの、お化けでも指しているみたいに具体性がなくて不安になる。
ハッキリしているのは最後には不要扱いとなり捨てられている事と、まるで呪いのように捨てた家は程なく衰えてしまうという事。
関連性があると思わしき手記をまとめて付随してくれたお陰で一々文体は変わってしまうが、また別の人間の手記にはある時を境に軍の士気が訳もなく下がったようなことが書かれている。
―――座敷童みたいだな。
調べていて思ったが、王奉院という名前がまともに出ていない理由が分からない。記憶は曖昧だが平民に苗字が許可されたのは明治時代くらいだとしても、詠奈はお金持ちだ。その昔が華族、士族であっても不思議はないと思っていた。まず平民を重用するのもあり得ない……かは分からないけど、珍しい。駄目だ、絶対的に知識が足りなくて考察が甘くなる。こういう時だけ歴史の勉強をきちんとしておけばよかったと後悔する。馬鹿な男だ本当に。
千癒が隣に居たらこの辺りの歴史に関する資料を頼んでいたかもしれない。だが生憎、今は意識を失っているようだ。書庫は広すぎて探していて見つかる保証もないから一先ず放置。この違和感だけでも十分だ。人類皆平等なんて考え方は浸透していない時代、今よりも遥かにコネは重要だろうし。
時代が進むにつれて王奉院と思わしき人物はその時々で拾ってくれた者へ報いるような働きをして、やんごとなき事情、或いは思い上がりから切り捨てられてを繰り返している。それほど有能な人物を切り捨てる際、放逐するくらいなら処刑すると思うのだが、そこはどうにか生き延びているのだろう。戦国時代から安土桃山時代を最期に一旦記述は途絶えた。次に現れたのは江戸時代の後期。終わり際だ。
王奉院ではなく、奉ル者としての表記。
―――なんか、怖いな。
ただでさえ存在を示唆する文書が少ないのに、時代の中心に近い場所にひっそりと居ては栄華をもたらす。座敷童は王奉院を元に生まれたんじゃないかというくらいに都合よく、必ず誰かを支えている
「…………」
名前はやっぱり、ない。苗字がなくともそれくらいは見たかった。
王奉院詠奈は、本当の名前なのか?
いやそもそも、本当の名前なんてあるのか?
ふと浮かんだ疑問はかなり大きくきている所だ。この時代はいい。だが個人情報が現代にいたるまで一切存在しないと考えたら王奉院詠奈が王奉院詠奈である証拠もないという事だ。偽物かどうかじゃない。名前がまずないのでは?
それなら王奉院の血筋とはなんだ。何を以て王奉院とする。連綿と続く王者の血族こそが王奉院なら、それはもうブランドだ。こんな事があっていい筈がない。それ自体が確かかどうかも不明瞭な存在が国を掌握するなんておかしすぎる。
詠奈は一体……
「また随分熱心に本を読んでいるのね」
「うわっ」
詠奈が肩から覗き込むように声を掛けてきてつい驚いてしまった。自分から驚かせるつもりだったのに彼女はぎょっと目を細めてのけぞりつつも、人差し指を唇に置いて顔を近づけた。
「しー。書庫ではお静かに。仕事が終わったから迎えに来たわ。一緒に眠りましょう。この本は何処に片付ければいいの?」
「あーこれは千癒に頼んでここに置いといてもらってるだけだから大丈夫だよ。部屋に戻ろう」
「うん」
詠奈を遠ざけるように引っ張って寝室に戻る。調べるのはまた今度。本人の目の前で過去を取り上げるのも気が引けるし、詠奈がどんな存在でも、俺にとって彼女が好きな人である事は変わらない。
天蓋カーテンを閉めて、間接照明にぼんやりと照らされる中で詠奈と横目で見つめ合う。
「映画、どうなった?」
「それは本番で公開するわ…………最後の十日間程は子作りに集中したいし、それまでは何をしていようかしら。明日が楽しみ……生きている上でこんな素晴らしい事もないわね」
「退屈は嫌いだもんな」
「ええ。だけれど怠惰な退屈はもっと嫌い。そうなってしまう時もあるけれど、自分から何もしないのに退屈だなんて妙でしょう? 退屈だと思うなら何かすればいい。私にはその力がある」
「………………本当にそう思ってるのか?」
「ええ、思っているけど?」
「――――」
詠奈と指を組んで身体を密着させる。ナイトドレスの中に手を滑り込ませて、彼女の腰を抱きしめた。
「愛してるって、後何回言えると思う?」
「私は死ぬまで言うわ。言葉にするだけじゃ意味のない言葉だけど……それでも言わせて欲しい。本来他の誰かに言うべきでも、全てを君に」
「……参ったな。そういう事言われると俺はちょっと、あれだな。それより重い言葉を返せない」
「今は良いわ。いつか返してくれればそれでいいの。人生は長いから、気長に待ちましょう。それもまた楽しみよ。その間に退屈はしちゃうけどね」
お休みのキスを、交わす。
「愛してるわ景夜。今日も大好きだった」
「愛してる詠奈。明日もお前に惚れると思う」
「な、何よアンタ! 一体誰なのよお!」
キーキー喚く女性は、血を被って正気を失っている。私が彼女の配偶者を殺した。警察の助けは来ない、こちら側の味方。身の程を弁えない人間に明日は来ない事を知っている。
「貴方は思い上がるべきではなかった。詠奈様の正体を知らないから無謀な行動を取れたのでしょうか。いずれにしても……遺言くらいは聞きましょう。それとも最後の悪あがきでもしてみますか? これを油断と捉えるも余裕と捉えるも貴方次第です。さあ、次の行動をどうぞ」
「え、詠奈……? あの女は一体何! どうして私の家を知ってるの! 警察! 警察呼んで逮捕してもらうから!
「では通報をどうぞ」
行動の余地を与えて何処に連絡するかで繋がり先を炙り出す狙いは失敗か。この人の中では頼りに出来る存在は思い当たらなかったと。警察に通報した場合の打ち合わせは済んでいる。後は見守るだけ。
「も……もしもし警察ですか! 人斬りが! 人斬りがうちに……! え、え!? これないってなんですか! 私達まもんのが警察でしょ!! 早く来て! 今すぐ! 義務!!!」
電話が一方的に切られて、女性は声なき声で驚いたまま私を見つめている。
「詠奈様は世界の支配者。貴方如きが罠に掛けようなどと企める人物ではございません。接点をたかだか一つ得られたくらいで多くを望んだ貴方にはお似合いの末路でしょう。束の間の富豪、人とは違う栄華はさぞや満足の行く物だったでしょう。お疲れ様でした。景夜様を生んでくださった事は感謝いたします。女に無頓着だったこの身体を、少しでも着飾ろうと思わせてくれたのは彼のお陰です―――それ以外は特に」
「さようなら。来世は少しでも子供に優しく出来たらいいですね」