安楽椅子女王
「詠奈様抜きで食事なんて久しぶり? ていうか初めて? 私室ではあってもここではありませんよね? もしかして私、ツイてます?」
「うん、ついてるついてるよ~」
「友里ヱちゃんが言うと意味変わっちゃいますねー。あはは」
一人で食べるのも寂しかったから、何人かに声を掛けて卓を囲んでもらった。彩夏さん、友里ヱさん、春。そして眠っていなかった千癒。彩夏さんが仕事量的にも誘いに乗るとは思っていなかったから意外だったし、ちょっと嬉しい。
『沙桐君とのお食事ならいつでもおーけーですよー?」
なんて言っていたけど、下働きの子の教育なんかも含めてこの人の仕事量はちょっと俺から見ても多すぎる。この人だけ時間が一日二四時間では足りない。これで忙殺されていないのが不思議だ。
「景夜様! 何かあっても私が守りますからね!」
「あ、有難う。でも何も起きないだろ。総理大臣は詠奈に話があるだけだ。ここを襲いに来たんじゃない。気になるのは、車なんか特に見当たらなかった事だな。幾ら暗くても見逃すもんじゃないと思うけど、噴水近くは明かりも点いてるし」
「ま~お忍びって奴だよね。そりゃそうでしょ、詠奈様の存在なんて民主主義の根幹を揺るがすっていうか、一番いい政治は賢者による独裁って言うけど、それが傍から受け入れられるかどうかは別じゃん?」
「だからってボディーガードもつけずに来るなんて」
「我が国の最重要秘密とも言えるからねー詠奈様。勿論そうは言っても知ってる人は知ってるけど、与えられる影響力がデカすぎ。それにここまで来たら山の中は八束さんが視てるし問題ないっしょ」
何の話をしているかは正直気になる。総理大臣に会える機会なんてそうないだろう。勿論詠奈に頼めばそれ自体は簡単に実現するだろうけど。そういう意味ではなくて。
「あの、景さん……詠奈様がいない今だから言うんだけど、翻訳しておいたから」
千癒がわざわざ下りて来たのはそれを伝える為だったようだ。食事はついで。眠気を制御出来ない彼女にとってそれ以外は出来る内にするのが自然な動作だ。ただナイフの使い方はへたくそで、ステーキは彩夏さんに切ってもらっていた。
「詠奈、いつ戻ってくるんだろ」
「私がこっそり盗み聞きしてきましょうか!」
「春ちゃん、やめてくださいねー。私達に用事があるなら詠奈様から直々に伝える筈ですから。関係ない事に首を突っ込んだら処分されちゃいますよー」
「あんまし言わないけど私が前に居た団体を悪く言えないよねーここ。ぶっちゃけ危険思想の塊だもん」
「友里ヱさんの居た宗教団体ってどんな場所だったんですか?」
「マジ? それ聞いちゃう? 別になーんにもないよあそこ。ただ私が神輿にされてただけ。私が特別だったってだけだからー。景君は出来れば詠奈様と同じスタンスで居てくれた方が、私は嬉しいかなー」
友里ヱさんはスプーンをスープに沈ませると、音もなく掬い上げて口に運んだ。
「理解しないで、全部私に任せてよ。どうせ分かる訳ない。最初から持ってない人に理解の努力をさせようなんて思わないんだよね~。んだから、私の事は探らないで欲しいかな~。あの時は仕方なかったしこの過去を詠奈様にどう扱われてもいいんだけど、景君とは自然体で話したいもんね」
理解しない事を合意とするのもまた、信用の形という事なのか。詠奈を知ろうとする俺にはなかった価値観だ。考えた事もない。詠奈自身もこの行動は認めているし。
「……分かりました。ごめんなさい」
「いーのいーのそんな謝る必要は! 私は私で気楽にやるし。景君はただ、私に何が視えてるかを聞くべきじゃないってだけ~」
「…………友里ヱさん。あんまり沙桐君を突き放すような事言っちゃ駄目ですよ?」
「はー突き放してないじゃんねー。私は普通の女の子として見て欲しいだけだし。ほら、今時のギャルって感じしない? 雰囲気とか!」
「どっちかって言うと勝鬨のガールって感じ」
「んな血の気の多い女子になった覚えはねえが? やるか千癒~」
「やっぱり!」
詠奈が居なくても団欒は暖かい。メイドは全員仲良しで気兼ねなく、上下関係も価値上位の中には殆ど存在しない。みんなが俺の事を好きで、俺が望めばどんなお願いも聞いてくれる理想の環境。
これ以上、何を望むことがあろう。
詠奈は自分自身が居なくても俺が幸せになれる環境を作っている。
「千癒。食事が終わったら書庫に行かせてくれ。タイミングは幾らでもあると思うけど、俺が自発的に行ける機会は今だけだ。お前がいつ寝てるかとかは把握出来ないし」
「一応、友里ヱの事を知りたいなら、教えられるよ」
「え?」
書庫につくなり千癒は分厚い扉を閉めると、何気なしにそんな事を云った。
「事件記録として諸々、全部ある。詠奈様と違って表向きも存在してたし……」
「あーそう言えばそんな事を……映画で聞いたかも。でもそれはまた今度お願いするよ。なんとなく詠奈が傍にいる時に調べたくないからさ」
そして夏休み中は詠奈と離れたくない。俺の勝手なジレンマを解決するにはこの瞬間しかないのだ。
「じゃあ、この本。私が訳して書き写しただけ、なんだけど」
そう言って千癒が重そうにカウンターの裏から大量に積まれた本を持ち上げた。特別一般公開されている訳でもないがちゃんと許可を取れば誰でも本を持ち出せる。その為のカウンターだ。一応紛失した際の調査材料になる為に千癒が受付をしている。彼女がいないと入れもしないのはそういう理由もあるのだ。
ただ、詠奈は持ち出さず、奥の机で読書するのが好きだったっけ。訳も分からず隣で真似をするように読んでいた昔を思い出した。
「ここで読む? それとも持ち帰る?」
「俺と詠奈の部屋は別じゃないから持ち帰るのはやめとくよ。具体的にどういう事が書かれてるかは……教えられないんだよな」
「ごめんなさい。景さんの役に立ちたいけど、睡眠の合間を縫ってたから……記憶はあるけど、夢と区別がつかないから適当な事言うかも」
日常生活に支障があるどころじゃない。普通の人よりも遥かに生き辛く、多くの人間が彼女を使えない人材だと切り捨てるだろう。それも仕方のない事ではある。社会は人間の無理で成り立っているのだ。ゆとりを持てるのはごく一部だけの話。たとえゆとりを持てる環境でも千癒の体質は生き辛い以外の何物でもない。
それでも詠奈は彼女を使える存在だと判断した。
お金を払って人生全てを買ってまで自分の手元に置いた。メイドとしての業務からも解放され、ただここの管理だけを任された理由がある。
「暫く机の上に置いといてくれると助かる。隙を見て読み込んでみるよ。千癒、有難う。お前が居てくれてよかった」
「………………また身体、洗って欲しいかも」
「え?」
「何でもない……詠奈様、戻って来たみたいだから。帰れば」
「そっか。調べてる所見られても恥ずかしいし戻るよ。じゃあな!」
書庫を出てエントランスホールを見下ろすと、詠奈が八束さんと何やら話し込んでいる瞬間を目撃した。聖ではないので読唇術は使えない。階段に足をかけると、音に八束さんが気づいて、遅れて詠奈も振り向いた。
「あら景夜。結局食事が終わるまで戻れなくてごめんなさい。私も戻りたかったんだけど……これからするつもりだから傍で話し相手になってくれると助かるわ」
「それは全然いいんだけど、総理大臣と話しててどうだった? 何か言われたのか? 暴れすぎとか」
「ああ…………そうね。私の腐った脳みそを元に戻す為にちょっと仕事を受ける事にしたの。とっても簡単な仕事よ。流石に足まで舐められたら断るのも気が引けたわね」
「……俺は詠奈の足くらい全然舐めるけど、総理大臣がそこまでするってどんな仕事なんだよ」
「とある国の国家元首? 主席? まあどちらでもいいけど、間を取り持って欲しいと言われてね。その為にお金の流れを弄らないといけないから―――暫くはこの国に蔓延る利権全部監視させてもらう事になったわ。NPOは特に怪しいお金の動きが多いから手を入れるのにぴったりなの。私を相手に情報非開示なんて通らないから、おバカさんはすぐに見つかるわ。肩慣らしなんだから、これくらい簡単じゃないと」