ただそれだけの話
「詠奈って基本的に引き籠ってるよな」
「…………語弊があるわね。確かに外出はしないけれど、体型を維持する程度には運動しているわよ。それは一緒にお風呂に入っている君が一番よく知っていると思うけど」
「そういう事じゃなくて」
「出産も……それ以前に性行為だって体力を使うでしょう? だらしない身体では娯楽を楽しめないというなら、相応の努力はするわよ。幸いうちの庭は広いから」
「まだ何も言ってないって。その……さっきの話、お前は知ってたんじゃないかなって」
知らぬうちにまたうちの母親の奇行エピソードが増えたかと思うと何だか本当に事実上縁を切って正解だったなと思う反面、いつもいつもそんな事をしていたなら市井の皆様には誠に申し訳ない事をしたと……謝罪会見でもしたい気分だ。勿論俺は立場も何もない一般人で、会見なんぞしても人なんて来ないが。
「お前は俺を守ってくれる。だから俺が危ないと思ったら事前に排除してくれるんだと思ってたよ。でも……あの人から話を聞いてた時、お前は特に取り乱さなかったよな。今日出会ったのは不運だとして、何で驚かなかったんだ? それって、知ってたからだろ」
「成程。私の反応を窺ったのは良い着眼点ね。確かにその事は知っていたわ。少し前から君を探してる。三億円なんて普通に暮らしていれば中々使い切らないでしょうに。大金を手に入れて欲が出たのでしょうね可哀そうに。君を探してる理由は私を未成年略取に問いたいんだと思うけど。それでお金を強請りたいって……これはさっきも話したけど。私を探すような人は大抵お金目当てよ。実際はさっき話すもいつ話すもなく、幾らでも見当がついてしまうわ」
詠奈は懐から徐に札束を取り出すと、パタパタと仰いで団扇の代わりに……ならなかったようだ。俺に渡されても困る。
「これを突然捨てても私はどうとも思わない。幾らお金を使っても変わらないから。けど、それと払いたいかどうかは別の話よ。お金自体に関心が薄くても気に入らない事には使いたくない……そうだ。関心と言えば景夜。気が早い話だけど……君、ワインに興味あるかしら」
「え?」
「未成年だから飲めない、なんて言わないで。二十歳を超えた時の話をしているから。君さえ良ければ二人でワインを楽しみたいと考えているのだけど、如何かしら?」
「そ、そう言われてもな……」
未成年にお酒の如何を問われても難しい。代わりにビールは飲んだ事があるとかそういう話でもないし、ワインは葡萄から作られるから、味を想像するとどうしてもぶどうジュースになる。
「俺、味なんて分かんないぞ。美味しい物食べて来たけど、ワインって繊細な味わいなんだろ? ってお前も未成年だから聞いても無駄か……飲んでないよな?」
「飲んでもいいけど、私は君と同じ経験を共有したいの。味を知っているのは友里ヱと彩夏かしら。友里ヱは特に詳しいと思うわよ。仕事の合間を縫って何処かにワインを飲みに行っているみたいだし。それと、知らない身で言ってもあれだけど、繊細な味わいはヴィンテージワインの事じゃないかしら。あれはそもそも管理が大変だし、初心者が手を出すのはオススメ出来ないわ。味わいを理解出来ないのに繊細な物を口に入れるなんて……愚かな事よ」
いつまでもいつまでも回り道。日が暮れても詠奈は俺についてきてくれる。自分がどれだけ危ない事をしているかは理解しているつもりだ。外を歩いているだけ、彼女が暗殺される可能性は高くなる。それでも二人の時間を一秒でも長く。見慣れた街並みも好きな人と巡るだけで知らない場所の様に真新しい。
「君は私と経験したい事ある?」
「え?」
そう言われると難しい。詠奈はずっと傍にいてくれるから、そんな事は考えた事もなかった。やりたい事と言っても、詠奈はお金を持っているから大抵の事は直ぐにでも叶えられると思う。
「………………特に思いつかないな。何でだろう。何でもできるなら何でも考えられる筈なのにな」
「何でも出来ると思うから思いつかないんでしょう。スケールを設定してあげた方がいいわね。細やかな事でいいのよ」
「細やかな事…………初詣に行きたいってのは駄目か?」
「そうそう、そう言うの。行った事がないのね」
「母親だけ勝手に行ってたんだ。それで、大凶のおみくじをいつも俺に渡してくる。今年の俺の運勢はこれだって言ってな」
「まあ酷い。それじゃあ自分の運勢については把握出来ていないのね。そういう非科学的な行いには詳しくないから、本当にその気があるなら友里ヱにやらせるけど。そういう事ではないのでしょう?」
「ああ。行ってみたいんだよ。お前に神社を建設しろって言ってる訳じゃないんだ。無病息災? 子宝沢山? なんだっけ、よくわかんないけどそういうのが売ってる神社に……お前と行ってみたい」
効能なんかどうでもいい。詠奈と経験したい事というだけだ。あの雰囲気が味わえたらそれで構わないなんて……不信心で無礼な事なのかもしれないけど。
「夏だったら…………今度はナイトプールじゃなくて、ビーチに行きたいかも。誰も居ない。二人きりで……みんな居てもいいけど」
「あら、ケダモノ」
「うるさあい! 一回手出しちゃったからもう出さないって選択肢が考えられなくなっちゃうんだよ! それ以外なら……スキューバダイビングとか、釣りとか……バンジーとか」
「ほうら。スケールを括ればやりたい事が次々出てくる。何でもしていいって言われて何も考えられない事は恥ずべき事ではないわ。子供が出来ない内にやるのもいいわね」
「―――何でそんな事聞くんだよ」
「退屈が嫌いなのよ。願いがあれば退屈しない。人の人生は有限だからこそ、やりたい事をやるべき。出がらしになって初めて人生は終わる機会を生むの。私は死なないけれど……寿命がないのは悍ましいわね。もしそうなってしまったらどうやって生きたらいいか分からない。君はどう?」
「……そんな事言うなよ。大体そんな先の話までしだしたらさ……俺は」
「お前の傍で、お前と一緒に死にたいもんな」
「「お帰りなさいませ、詠奈様」」
幾葉姉妹からの迎えを受けて俺達はようやく帰宅した。学校で制服姿になっていたからだと思うが、メイド服のカーテシーを久しぶりに見た……久しぶりという程かどうかはさておき。
玄関ホールは音の反響が良い為に概ねそれで人の有無を察知出来る。
「何やら今日は騒がしいわね。余計な人が訪ねてきているみたい」
「詠奈様がお察しの通り、お客様がいらしております。お食事の用意も整っておりますが、如何しましょう」
「…………誰?」
「だ、だれ……?」
「両方に聞いているの。私の物になってそれなりに経つんだから私の存在を知っていて来訪する客なんて限られているんだから分かるでしょう。誰?」
「……現職の総理大臣、です」
「この国で一番偉い人が一体どんな用かしら。好きな人とのデートの余韻に浸りたかったのに…………まあいいでしょう。御足労戴いたのなら話くらいは聞いてあげる。二人は景夜をダイニングルームへ。食事を始めていて構わないわ。きっと話が長くなると思うから」
「かしこまりました」
「景夜さん、こっち」
「な、なあ詠奈! もしかして夏休みを無理やり延長する法案が…………まずかったんじゃ?」
詠奈は階段の手前で身を翻すと、掌を振って優しく否定した。
「そんな程度でここには来ないでしょう。無理やり通した法案は他に幾らでもあるわ。大丈夫、心配しないで。君との時間以上に大切な物はないから。何も失わないわ」




