完璧の欠如
母親がついてくる可能性は否めない。追い返したというか、どちらかと言えば俺達が逃げた形だ。もたもたしているとその内やってくるかもしれないから、移動するなら早い方が良い。
―――思い出の場所。
詠奈について俺が自分から調べられた事はまだ何もない。文献に何か残されているなら千癒の解読待ちだ。もしかしたらもう解読出来ているかもしれないが彼女は自分では眠気を制御出来ないのでもし終わっているなら向こうからやってくると信じている。寝ている所に何度も何度も訪ねるのは申し訳ない。
そんな中、本人から遂に教えられる思い出の場所。詠奈の過去を俺は知らない。聞く必要がないと思っていた。それは詠奈に限らず、他の人も。勿論教えてくれるなら知りたい。その人の過去が分かればもっと好きになれると思っているからだ。だけど―――例えば彩夏さんが一度躊躇したように、本人にとってあまり触れられたくないという場合もある。
詠奈だって、わざわざ話す機会が無かったという線も考えられるが、話したくないから話さないのでは。
「詠奈。今まで親が家に居ない事をずっと聞かなかったけど―――今はどうしてるんだ?」
「私が殺した、とでも考えているのかしら。確かに同じ王奉院として誰かに殺しを命じる事は出来ないわね。でも私は人っ子一人殺せないくらいにはか弱いつもりよ。殺したい程嫌いな奴の血なんて浴びたくもないし。だから安心して? 私は殺してない。父はちゃんと生きているわ」
「…………それ、二度とベッドから起き上がれないとか、どっかに幽閉してるとかって意味だったりするかな?」
「いいえ、文字通り元気の筈。近況は知らないから病気とかになっていても私は把握していないわ。家に居ないのは……何となく分かるでしょう? トップが二人も居たら権力が混乱してしまうわ。だから出て行ってもらった。従者もまとめてね」
「じゃ、じゃあ今は何処かに隠居してるのか?」
「海外に住まうのを隠居と呼ぶならそうなるけど、あの人はあの人なりにまだ満ち足りていないから、私よりは勤勉に働いていると思うわね。世界一の強欲で、私よりも退屈が嫌いなどうしようもない人。自分が満足する為なら犠牲も厭わず、己以外をどうとも思わない無慈悲な感性―――」
「お、俺と同じで血は争えないな……ははは」
「………………」
「ごめん。お前はもうちょっと慈悲があると思う」
「いいのよ。それも所詮反抗期。私も自覚している所があるから敢えてそうなるまいと努力しているの。君と同じで嫌いなの。八束と君以外に同じ質問をされたら処分してしまいそうになるくらい」
「う…………」
親子関係は詠奈にとって特大の地雷か。覚えておこう。幸いにして例外、俺は大丈夫みたいだけど好きな人の機嫌をわざわざ損ねる真似なんてしたくない。普通に生活していて親の話なんてする事はないと思うけど、一応心に命じておく。
「お、思い出の場所っていうのは……具体的にどういう思い出があるんだ?」
「悪い思い出の場所なんか連れて行かないわ。あれは……キャンプをしていた時の事。だからほら、進路も山の方に向かっているでしょう?」
「キャンプ……キャンプか。確かに悪い思い出じゃないな。楽しそう……だけど」
何か引っかかるのは、親子関係の悪さを聞いたからだと思う。必ずしも親と行うものがキャンプと呼ばれる訳ではないが、幼い子供の同行者と言ったら親くらいだ。
良い思い出と言われている割には親子関係はよろしくない。
その歪さが俺に違和感を与えている。
「…………従者って言ってたよな。やっぱりお前の親にも居たのか。みんなみたいな人が」
「何でも言う事を聞いてくれる物が居る事は大切よ。自分の手足となってくれる存在があるだけで私だけじゃなくて……みんな生きやすくなる。そうでしょう? 庶民だって何でも言う事を聞いてくれる存在が居たら人生が充実するかはともかく、ストレスは減るわよ。面倒な事は全て任せてしまえばいいの。その結末はもうご存じの通り、脳が腐ってしまうのだけど」
「キャンプも、昔の従者と?」
「私がどうして買うか。それはその物の全てを行使する権利の購入だから。父の従者も同じ。私に動かせる権利はなかったし、さっきの話を聞いたら傍につけてくれるような人でもないと分かるでしょう」
「…………え? じゃあお前、一人で?」
山の中に入れば、自然と足元は傾斜になる。詠奈の髪の毛を持ち上げないと足元の草や種がついてしまう。ヴェールでも持つように掌に取って、歩みはそれなりにゆっくりと。
「一人でキャンプも良いじゃない。ニュースではそういう楽しみ方もあるってやっているそうよ。ここは別に人食いの獣が出るような場所でもない……八束みたいに深刻であればとっくに死んでいるわ。私だって生まれた頃から死なない訳ではないのよ」
冗談のつもりだろうか。くすりと笑いながら詠奈は歩みを止めない。
「そう、私は死なないの。死んではいけない……とも言うけどね。私がこの国をどう思っていようとも、死んでしまえば悪影響は免れないでしょう。仮にもこの国の王として、少しだけつまらないお話をしましょうか。景夜はこの国の内情が綺麗だと思う? それとも汚いと思う?」
「え? うーん…………みんなの部屋にしかテレビないからあんまり追えてないけど……善くはないんじゃないか? 色々問題が起きてるみたいだし」
「そうね、決してよろしくないわ。でも綺麗なままでは居られないのもまた事実。清濁併せ呑んでこその国のトップ、そして政。表向きは汚い部分を見せられないばかりに、他国に躾けられた犬の干渉や哀れで無知な民にそこを暴かれてしまっているのがかわいそうね。君は既に知っていると思うけど、私は私用で警察を動かせるし司法に介入出来るし、法律を無視出来る。総理大臣にもない権力よ。それなら自称民意の代表者である野党と自称真実を追及するマスメディアが私を狙わない理由がないわね。どうして、誰も狙わないと思う?」
詠奈を陥落させれば権力の命令系統は……いや、待て。彼女は仕事をしていない。権力だけ据え置きのままこっちがむしろ隠居している。詠奈が居なくても国会は動くし、警察は動くし裁判もある。じゃあ干渉するだけ無駄なのかと言われたらそれも違う。
詠奈が動いたら法律も常識も無意味だ。金を握って黙らせる事も出来ないし、深紅君の発言が正しいなら個人情報がそもそも存在しない。弱味を握れないのに権力だけがあるという一番厄介な存在だ。潰せるなら潰した方がいい。存在を公にして、民意でどうにかするとか。
「……………お前を狙うと都合が悪いから?」
「どうしてそう思うの?」
「裏工作では……多分お前に勝てないよな。となると表に引きずり出してみんなに叩かせた方が良い。お前って存在がどんなに邪悪なのか叩いて、こいつを徴用してる政府もおかしいって言えばいい。どれだけ効果があるかは分からないけど……お前は平和に過ごせなくなると思う。それをしないって事は、そうかなって」
「成程。その通りよ。私を狙うと都合が悪い。政治っていうのはお腹の探り合いなの。一方的に付け込まれては話にならず、お互い弱味を握って利害を調整する。でも私にそれは出来ない。どんな思想、どんな力があれ、政治の世界に踏み込むには後ろ盾が必要なの。例えばその後ろ盾全てが……私と繋がりがあったら?」
「…………いや、繋がりがあったら頼るんじゃないのか。お前が居れば、どんな無理も通りそうだし」
「そうね、皆頼るわ。頼れてしまうけど……誰か一人だけがそう考える訳じゃない。私を報酬とした綱引きが起きるの。そうなった時に大切なのは強硬手段に訴える事ではなくて私の好感度を稼ぐ事。みんな、心から私を欲しいと思っているから迂闊な事は出来ない。ちゃんと実績もあるのよ? おバカな政策で落ち込んだ国内経済を立て直したり……まあこれは、父の話だけど。王奉院を名乗るという事はその全ての実績を引き継ぐって事―――ごめんなさい、難しい話よね。分かりやすく言うと、私の機嫌を損ねることが後ろ盾にとって一番都合が悪いから、躾けられた犬は噛みつけないって訳。政治じゃなくても同じよ。世界で活躍する企業の殆どには王奉院が関与している。後ろめたい部分の処理、経営の補助もしくは代行を特にね」
山を抜けると森が開かれ、空がはっきりと見上げられるようになっている。詠奈は中央の幹が太い一本の木に近づいていく。縄梯子が幹に掛かっているのだ。梯子を上ると、詠奈は枝に座って俺を横に招いた。
「私の無茶で通ったことは一つや二つじゃない。この国に都合の良い事も悪い事も沢山通された。死ねばそれは全てひっくり返るわ。だって通った事自体がおかしい物なら簡単に無効に出来る。誰かの思想的に通った事がおかしいではなくて、手順がおかしいという意味なのだから。だから私は死なないの。君以外に殺されるつもりも毛頭ない。私を殺してどうなるかも想像出来ない人に世界を変える英雄になる資格はないわ…………」
「…………ここが、お前の思い出の場所なのか?」
「ええ。お嬢様にしては細やかでしょう? …………でもここが私の思い出。王奉院詠奈である事を決めた場所」