愛の実り
人間にはトラウマという概念がある。俺にとって詠奈と出会う前の人生がそれだ。とにかく触れて欲しくない、誰かに触れられてもその人を殴るとかそう言う事はしないけど、とても嫌な気持ちになる。
金縛りは心霊現象以外でも起きる。起きた。背後から掛けられた声の主を知っている。それはずっと前から聞いていた。久しく聞かなかった声なのに、まるで人生にずっと付き纏っていたかのように鮮明に。
「あら、お義母様。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「お、お、お…………」
「ずっと探してたんだからね! 大きくなっても私に手間かけさせて、アンタって奴は!!」
「あ…………」
耳に響く。身体が言う事を聞かない。それは……そう。久しぶりに電源を入れられたロボットだ。俺は手持ちのリモコンで言う事を聞くプログラムがされていて、たった今電源が入った。
沙桐啓子。それが母親の名前。こちらに向けられた手は手招きというよりも、今から平手打ちをする素振りに見える。
「こっちに来なさい!」
「あ、は、はい―――」
「おすわり」
心が二つあるという表現は単なる葛藤として用いられる事しかないが、俺の場合は単純に命令系統が二つあってそうなった。詠奈に命じられた瞬間足が崩れたように身体が落ちて、地面にひれ伏してしまう。
「いい子ね」
頭を撫でられる間も身体は動かない。俺が指示に従わなかった事は離れるその瞬間までなかった(詠奈と遊べたのは彼女のお金によって許可どころか仲良くなれと言われたからだ)から、沙桐啓子にとっては衝撃だろう。顔を真っ赤にして、耳まで血管が広がるのかってくらい青筋が浮かんで、声はより大きくなる。
「景夜!! お母さんの言う事を聞きなさい!!」
「お義母様。申し訳ございませんが沙桐景夜君は私の所有物です。三億円と引き換えに買ったではありませんか。忘れたと仰るなら交わした書面をお見せしてもいいですよ」
「アンタ、詠奈だっけ? うちの景夜が欲しいならもっと金だしな! じゃなきゃ私の子供だ! 子供は親の物! 当たり前だろ!」
「三億円は使い切ってしまったようですね。本当に……お金の使い方が下手な人。まがりなりにも景夜君を産んでくれたから、その細やかなお礼として消費税以外の税金と諸々の保険料を免除してあげたのに。そういうお金の無心は下品ですよ。離婚してから浪費癖は悪化してしまったようですね」
「え…………り、離婚?」
父親も、あまり良い父親ではなかった。母親の凶行を止めてくれなかったどころか、機嫌を損ねるなと俺の方に釘を刺してくるような事なかれ主義で……三億で子供が居なくなるっていう時にも消極的賛成の態度を崩さなかったし。
でもそれは子供への愛情が薄いだけで、裏を返せば母親への愛は深いと思っていたのだが。
「お母さん、離婚したのか」
「まあ? 私は美人過ぎるし? 相応の夫を選び直すのは当然でしょ? 視なさい、この綺麗な顔を。四十歳なんて思えないでしょ?」
「見た目が女性の資産価値であることは否定しませんが、その資産は人である限り目減りしますよ。整形手術を否定はしませんが年齢に合った容姿の整え方があると思いますね。二重にして、シリコンを入れて、皺やシミを排除して……まさか自分が美人だから選ばれたと思っている訳ではございませんよね?」
「はぁ!?」
詠奈はずっとこれ見よがしに指輪を見せつけながら話しているが母親は気付いていないようだ。心なしか楽しそう。というか詠奈が意図はどうあれ敬語を使うなんて思わなかった。
「貴方との婚姻関係が認められる限り保険や税の方面で同じ待遇を用意してあげたから選ばれているんですよ。それはほら、他のどんな女の子にもない特典ですから。若い容姿が好みなら単に若い女の子を娶ればいい話。目減りする資産とはそういう事でもあります。若さに執着しても本物には勝てません。例えばほら、膝に現れてますよ」
こんな言い方はしているが、当の詠奈がかなり面食い気味なのを俺は知っている。侍女の皆は美人だし、特別な能力があって且つ容姿端麗な女子だけを狙ったとしか思えない。
そういう意味では俺こそ唯一の例外になる……のか。
「は!? 特典とか知らないし! ていうか若さが何よ! 若いだけの子供なんてガキ! 社会に出た事も言い寄られて結婚した事もない奴が一体何を……!」
そこで母親はようやく、詠奈の指輪に気が付いた。
「…………何それ」
「ようやく気付いてくれましたか。実は私と景夜君結婚したんですよ。結婚式はまだですけど、お腹の中の子種もそろそろ芽吹く頃合いなんです」
「はあ!? あ、あ、あ、アンタ! 景夜! それ本当なの!?」
「え、あ、い………………」
詠奈が見ている。身体は未だ怯えている。動物が火を怖がるように本能で恐れているけれど、ここまでお膳立てされて動かないのは…………違う、だろう。
「ほ、本当だよ。詠奈の中には俺の子供がいる。もう少し立てばお腹が大きくなる……と思う」
「学校は!?」
「通ってるけど……ど、何処かは教えないよ。お母さんと俺の人生はもう、か、関係ないから……」
「その通りですね。彼の人生は夫婦である私と彼の物。お義母様には関係のない話です。ですからこれ以上関わらないで下さいね。行きましょうかア・ナ・タ」
詠奈に手を引っ張られて母親とすれ違うように公園を去ろうとする。しかし啓子はその場を強く踏みつけて、怒鳴るように叫んで引き止めて来た。
「待ちなさいよ!」
怖いのは俺なのに、詠奈を庇うように前へ出てしまった。やっぱり心と身体が一致しない。どうしてこんなに全部食い違っている。
「景夜。その子お金持ちだったわね? 結婚するなら私に出すべきものがあるでしょ。じゃなきゃ認めないから」
「み、認めてもらう必要なんかないよ。俺とお母さんは戸籍上ももう何の関係もないし。親に認めてもらわなかったら結婚できないみたいな法律もないし」
「私の言う事に逆らう訳!?」
「う…………」
怒鳴り声は、やっぱり怖い。泣き虫の人なら分かるだろうこの気持ち。目頭が重くなって、喉が絞られているように辛くなる。怖い。逃げたい。もう無関係ならここで背中を向けても良い筈だ。
でもすぐ後ろに詠奈が居る。かっこいい所を見せないと。俺はもう昔とは違うんだと。
「う…………煩い! 煩い煩い煩い煩いうるさああああああああい! 俺は詠奈が好きなんだよ! 誰にも文句なんて言わせない! 俺は詠奈が好きだ! 好きだから結婚したんだ! もう無関係なアンタに指図される謂れはない! 俺の知らない所で勝手に幸せになって! 関わるな!」
「………………な、なっ」
「……………………………………ふふ♪」
詠奈の手を引っ張って今度こそ強引に公園を離脱する。もっと遊んでいたかった心残りはあるけど、母親の目の前で遊ぶとあのヒステリックな声が辛い。何処までも逃げよう、目の届かない所で幸せになろう。恋の逃避行は終わらない。俺達の人生はこれからなのだから。
「かっこよかったわ。景夜」
「お、お前が予見してたトラブルってこれの事だったのか!? だとしたら……凄いけど、何で探してるんだろう、あの人」
「美貌が全てと執着した人は誰か一人に愛されたとしてもそれは自分の美貌を認めてくれた一人としか思えないのよ。そういう人はより多くの人に評価されたいと考える。まあさっきも言った通り税制面のメリットに惹かれた夫でしょうからお互いに愛していないと思えば相性ピッタリだけど」
「な、何が言いたいんだよ」
「三億円を使い切った理由はホストクラブって所ね。有り体に言えば男好きなのよ。血は争えないわね」
「う…………ごめんなさい。女の子好きで」
「冗談だから謝らないで。それに女好きと言っても君が私に一番欲情している事くらい良く分かっているわ。思い出の場所にこれ以上居られないのは悲しいけど、あんなのと関わるのは時間の無駄だから行きましょうか」
詠奈は携帯をしまうと、両手を組むように握って微笑む。
「すっごくかっこよかった。私の愛情が教育に勝ったのね。今まで無駄じゃなかったって分かって、ホッとした。有難う。私を愛してくれて」