国嬢の夢
歩いて山を下りるのは初めてだ。いつも車を使って、景色を隠されながら家に帰っていた。通る道は確かに山を切り開いた通路だが、その道中はメカメカしくも沢山の機械に囲まれて自然は感じられない。
いや、そこまでではないけれど、セキュリティが厳重な事には違いないだろう。森の中から入ればこれらには引っかからない可能性もあるが、実際どうなのだろう。警備状況については良く分からない。
「私も警備がない状況で外を歩くのはちょっと経験がないかもしれないわね。まだ何処にも行っていないけど、中々スリルがあるわね。でも君が守ってくれると信じているから心配していないわ」
「そういうリップサービスはいいよ。俺も守りたいけど、暗殺者には勝てないよ。八束さんみたいに強くないし」
「少しは格好つけて欲しかったけど、まあいいわ。心配していないのは本当よ。私はリスクが好きじゃない、それも無用なリスクは特にね。だけどちゃんと了承したでしょう?」
「それは……俺に申し訳なさがあるからだろ」
「きっかけはそうだけど、申し訳ないからって自殺を了承する程追い詰められているように見えるかしら」
詠奈はぎゅっと握り締めた指に力を込めて、肩を少し寄せてくる。
「本当に、信じているのよ」
王奉院詠奈の命はこの手一つに掛かっている。そう考えると少しプレッシャーを感じる。それは正体を全然負いきれないながら、権力の強大さを目の当たりにしたからだ。事情を知らない頃だったらきっとこんな事は考えなかった。なまじ半端に正体を知っているせいで責任を感じてしまう。
―――違うだろ。
それじゃ他の人と一緒だ。そもそも俺は詠奈を好きになった理由は権力じゃない。そんなの知らなかった。かといって内面について知る由も出会った当時ある筈がない。可愛いと思ったからだ。そして優しかったからだ。生活の一切を縛られて雁字搦めになっていた俺を無理やり助けてくれたその強引さを好きになった。
そこには権力なんかなくたっていい。俺は好きになっていた。絶対に、間違いなく。
「俺はさ」
山を下りて市街地に出る。いつどこで誰が狙っているのか―――どうでもいい。二人きりで話せる良い機会だと思う。
「お前に愛されてると思う。口ばかりじゃなくて、行動でも示されてる。幾ら俺でも分かるよ。お前に凄く愛されてる。溺れそうなくらい」
「そうね。私程君を愛している女の子は居ないでしょう。君は私の全てよ。買ったのもそう。他の子に取られたくなかったから」
「…………なあ、何で俺を買ってくれたんだ?」
目を背けていた事にも、いつかは向き合わないといけない。それはずっと疑問だった事。詠奈と違って俺は、俺自身にそこまでの価値を感じていない。だからずっと不思議だったし不安だった。理由なんて知らない方が良いと分かっていながら、聞かなければならないとも思っていた。理由を知りたい。理由を知らなければ俺の言葉は嘘だ。詠奈を愛しているなんて、誰が信じる。
「俺は道に迷っていたお前を助けただけだ。それだけでこんなにしてくれたなら……もしも俺以外が助けたらお前は」
信号にさしかかった。時機悪く赤信号になって二人の足が止まる。今日の詠奈は白を基調としたコールドショルダーにチェックのスカートを履いて庶民感を演出しており、そこに煌びやかさは欠片もない。国を牛耳る王様だと、すれ違う人々の誰も思わない。
「自分が助けないとは思わないのね、君は」
「親の教育のお陰で、そんな自分は想像出来ないよ。俺は助けた。もしそれで俺が怪我するとか……死んだとしても。多分」
「そういう所も好きよ。大丈夫、安心して? 私を助けてくれる存在はきっと無数にいただろうけど、私は君以外眼中にないから」
「答えになってない様な」
詠奈は口元に手を添えてくすくす微笑む。事情はどうあれ自分の事を知りたがってくれることが嬉しいようだ。
「これでも初恋なのよ。初恋は失敗するって言うけれど、私は王奉院詠奈。失敗は許されない。初恋が失敗する原因は明白よ。相手が悪すぎるの。それは年齢であったり立場であったり血縁であったり。失敗しない初恋をするならまず自分の立場を自覚しないと。君が君ではなかったら好きになってはいないでしょうけど、それはリンゴがリンゴではなかったら、犬が犬ではなかったらと言ってしまうような、身も蓋もない―――ううん、する意味のない仮定だから」
信号が変わって歩き出す。雑踏をすれ違う俺達の存在を認識した人間は恋人と思ってくれるだろうか。たまに間を通ろうとする無神経な人間も居るが詠奈は頑として手を離さずその人を跳ねのけた。舌打ちをされても、そんな事をする方が悪いと言わんばかりに見つめている。多少騒ぎを起こしてしまうと、また多くの人間が詠奈の美貌に見惚れた。
「行きましょう」
彼女は病的なくらい、普通の人間に関心を示さない。どんな反応を見せられてもどうでもいいと言わんばかりに冷淡で、無機質で、努めて覇気がない。自分をよく見せようという努力すら放棄してしまうくらい―――鬱陶しがっている。
そんな詠奈に興味を持ってもらった人間は何かが琴線に触れたと思っていい。そういう奴らが買われていって今がある。
「意味のない仮定というと、私は君が蛇でも蛆虫でも愛せるけど、蛇や蛆虫が君である保証は誰にも出来ない。何を以て人を人とする。何があれば君は君なのか。哲学的な問いは苦手なの。起こった事は現実である物は真実。そんな風に考えられなければ私は生きていられなかったわ」
「難しい話は……俺も苦手だけど」
「君は何があっても私を助けてくれるでしょう。ほんの親切をしてくれる。だから君以外を好きになる事はあり得ない。君は自分でも確信するくらい助けてくれるのでしょう? 助けてくれない君は君じゃないわ」
「……なんか買って食べよう。お前の口に合うか分からないけど」
「安くても美味しいモノはあるわよ。食べ歩きなんてした事ないから君に任せるわ」
「じゃあ、ええっと…………まずかったらごめんな?」
「大丈夫。君が今まで食べてきた物はリサーチしてあるから。味覚を調べるのは当然でしょう? 好きな人とは楽しく食事をしたいもの」
一口サイズのコロッケを買った。彩夏さんが屋敷で作ってくれる料理とは比較にするのもどうかと思う様な商品だ。だけど俺にとっては懐かしい味。美味いとかまずいとか以前に、思い出深い。
俺に対する料理を面倒くさがった母親があり得ないくらい買ってきたものだ。
「夏に食べたら少し熱いわね」
「ごめん」
「あんなに言わせておいて缶ジュースでも買ってきたらそれこそ反応に困ったからいいわ。二人の出会いの場所で、君の思い出の品を食べる。いいじゃない」
出会いの公園まで一時間以上も歩いた。車を使えば一瞬なのに、歩くだけでこんなに時間がかかる。ずっと車に甘えていた。いつもそれが普通なんだと錯覚していたけど―――昔はそんな事なかったって、思い出している所だ。
「正確に言えば公園自体というより傍の道路だけど、友達になってからはよくここで遊んだし、細かいわね」
二人はブランコに座っている。ただ座っているだけだ。子供が遊ぶつもりなら譲る程度には選んだ理由がない。尤もゲーム機―――それもオンラインが普及してからはそれで遊ぶ子供が増えて、公園をわざわざ使う人は少なくなったが。
「遊んだって言う程遊んでないけどな。お前に家の束縛について話したことを除いたら……誰よりも遅れてた話のネタをお前にずっと聞かせちゃった事くらい。俺は流行遅れで乗る事も許されなくて、友達も作ってこなかったから―――あれが嬉しかった」
「今思うと、君の話はとてもつまらなかったわね」
「―――だろうな。知ってたよ」
「でも楽しそうに話す君の顔は好きだったわ」
言われて思わず、詠奈の顔を見る。彼女もまた俺の方を見つめて、目を細めて微笑んだ。
「凄く、可愛かった。羨ましいくらいに輝いてた。君の母親はとても有害な愛情をむけてしまったみたいだけど、それで君が純粋になってくれたのだから、実は教育についてとやかくは言いたくないの。君を粗末に扱う奴は大嫌いだけど」
「愛情って……あれは、愛情だったのかな」
「慈愛でなければ愛は等しく有害よ。私の愛も……君を夢中にさせているという意味では有害。でも同じ有害なら溺れてしまう方がいいでしょう? 責任を強いる愛は子供にとって愛ではない……分かってるつもり」
「…………お前もそうだったのか」
「勿論。責任を果たせない奴は人間ではないとも言われたわ。でも君は私に責任を押し付けない。始まった最初から、君は私の魅力にだけ引き寄せられてくれた。欠点も知っている筈。でもそこも含めて愛してくれる」
「そんなの当たり前だ! 俺はずっと、お前の全部に夢中なんだよ。心も体も……お前と出会うまで女子の事なんかなんとも思ってなかったのに、急に体の色んな場所見て興奮するようになっちゃって……」
「そしてその発散方法を知らなかったのでしょう? だから今の君はケダモノなのね」
詠奈は空になったコロッケの袋を俺に預けると、床を蹴って静かにブランコを漕ぎ始めた。
「愛していると言われる事には満ちていたけど、実際に愛された事は無かったの。だから気にしないでいいわ。もっとぐちゃぐちゃに求めて欲しい。私は愛されたい。愛されたいったら愛されたい。赤ちゃんが嫉妬してしまうくらい……ねっ」