朧夜に浮かぶは八束剣
「や、八束さん……ひ、酷いですよ。なんでこんな……うう……」
「聞こえていましたよ。詠奈様があのような淫らな声を上げるとは思いませんでした。経験が活きましたか?」
「そ、そりゃあれだけみんなとしたら……ってそんな事じゃなくて!」
心を無にする方法、既に一線を越えてしまったので今更必要ないような気もしていたけど、せっかくの厚意を無碍にしたくなかった。俺はそんな軽い気持ちでここに来たかったけど、それを激しく後悔する事になるなんて誰が想像出来たか。
「何で詠奈と三回くらいしなきゃいけないんですか! 幾らアイツでも目が点になってましたよ!」
「きっかけを掴むなら入り方も簡単な方が良いかと思いまして」
八束さんに付いて行ったと思ったらトンボ返り、突然身体を求められた時の彼女の驚き方と言ったら権力者としての威厳が欠片も無かった。八束さんに指示されたからと言われても理解は全く及んでおらず、「どういう事?」と聞き返された。俺だって知らないのに。
「お陰で部屋出る時みんなに凄い目で見られたんですからね! リビングも汚れたし、詠奈は下着も履いて誤魔化す事もしなければ後処理もしないし! 絶対撮影としてあの痕跡が残るのまずいでしょ! 何がしたいんですか!?」
俺と八束さんが立つ場所は屋敷から少し離れた草むらの中。空に木々の檻はなく、開けた空間からは幻のような月が顔を出している。周囲は至って自然的。吹き荒ぶ風と、動物か何かが掻き分ける草の音が混じって己の呼吸も聞こえない。足元は暗く、照らさなければ闇夜の沼に嵌まっているようだった。
「心とは欲です。悪い物ではありませんが、心の贅肉という表現もあるように欲とは人が正しく在ろうとした時に斯様に切り離したいと考える代物。精神統一は現代においてそう簡単な行いではありません。景夜さんが、毎晩詠奈様の御身体を戴くように」
「凄く誤解しかないんですけど……」
「なので一度欲を満たしてもらいました。今は気持ちが凪いでいる筈です。自らの行いを反省出来る程度には」
しかし性欲に抗える為の方法だったのにこれでは本末転倒な気もする。好きになった女の子がたまたま権力者だった時点で俺にはどうにもならなかった事なのだろうか。あんな突発的でも、結局二人で燃え上がってしまった。いや、詠奈が悪い。耳元で雄の本能を擽るような言葉ばっかり言われたらあんな事になってしまう。
「予め伝えておきますが、これだけの為に詠奈様と性交を唆した訳ではありませんよ。人が大きな声を上げた時この館全体に何処まで響くのか、という検証も兼ねていました。詠奈様からのご命令です」
「響く…………ああ、襲われたかどうかが曖昧だったら誰もパニックにならないからとか?」
「監禁状態が続けばそれだけ正常な精神は削ぎ落とされていくと思いますが……その通りです。映画撮影の一環だったと思って深く考えない方がいいかと」
「はあ、まあそれなら………………」
「―――ああ。しかし詠奈様がご懐妊なさったら予定が崩れてしまうでしょうね」
「……俺、避妊するなって言われてるっていうか。それ言い出したらみんな―――」
「ご心配なく。詠奈様と違って私達のいずれも既に人としての権利や存在は奪われています。こちらは幾ら孕んだとて問題ありません」
そういう問題ではなさすぎる。
俺もここに来てから中々の時間が経った。俺自身の甲斐性がどうとか、法律的にはどうとかとは言わない。それは気にするだけ無駄になる。だけどみんながみんな同じように孕んでしまったら屋敷の運営がままならないだろう。詠奈が新しく誰かを買うにしても、買ったら買ったでその人は異常な風景に困惑する事間違いなしだ。
本音を言うと俺が変態みたいに思われて、心外だ。
「……詠奈は?」
「―――さて、事情は概ね理解していただいたと思うので、始めていきたいと思います」
主人の意向にはどうあっても口を出せない。八束さんは徹底している。それでも詠奈が孕んでしまったら撮影どころではなくなるかもしれない(撮影期間は分からないがお腹が膨らみだしたら映像の辻褄が合わなくなる)のは危惧しているらしい。
ただこの様子だと詠奈の中では思い立った映画撮影より俺との行為の方が優先順位が高いようだ。倫理観はこの際置いといて、気分すら覆すのはどういう了見だ。
しかしよくよく考えてみると、そうなったら俺は現役女子高生を孕ませた……っていうか総理よりも偉い権力者を妻にした事になって、お腹が膨らんだ詠奈が制服を着たらそれはそれで…………
「……まだ欲が消えていないようですね」
「え!? いや、そんな事は……」
「顔を見れば分かります。景夜さんとお風呂に入った者なら誰でも」
そんなに俺の下心は顔に出やすいのだろうか……
気を取り直して。八束さんはその場に正座すると、何処からか持ってきた刀を立てて目を閉じた。
「刀は不要です。これは私が昔の精神に戻る為の物であって、景夜さんは姿勢を真似してください」
「は、はい」
見様見真似。正座して、目を瞑る。身体が強張っているのは駄目だろうから、リラックスするイメージ。詠奈を抱きしめながら眠る夜は身体の力が抜けていくようだ。柔らかくて暖かくて。昔、俺が求めた安らぎその物。
「心を無にする。それは難しい事です。一瞬で消せはしない、景色。記憶。ですから…………それを、切り捨てる。一時的に」
「…………八束さん?」
風が緩やかに凪いでいく。草むらを潜る音も、遠ざかっていくようだ。
「考える余地もなく。思考を満たす。無とは畢竟、死との調和。己を殺し、心を殺し、欲を殺し、空を視る。目を閉じてそのまま、動かない」
「…………」
いつもの口調も声音も、全てが偽りであったように剥がれていく。産まれてこの方気配などという物を感じた事はないが、今の八束さんから感じるこの空気が、それか。
瞼の裏に何がある。ドロドロとしているのにおよそ理性を感じない……何か。これを形容する言葉は俺の頭の中にない。うっすらと目を開けて姿を確認すると、髪の解けた八束さんが冷たい瞳をこちらに向けていた。
視た事を、咎めるような。
「………………ッ」
冷たい瞳は、比喩ではない。鉄の様に無機質な視線からは何の感情も見いだせず、だが確かに視られている実感があった。変わり果てた姿となった八束さんは俺から片時も視線を外さずに歩いている。足元は草むらだが、音がしない。とうに風は完璧に凪いで―――彼女から遠ざかったというのに。
息遣いさえ忘れるような空虚。いいや、呼吸を許されていないように感じる。八束さんからその音が聞こえないのにどうして俺だけが許されると? これ以上一歩も動けない。何も考えられない。
死が、目の前に在る。
「欲を殺すのは大変。私は斬りたい。キミもエイナも。だから私以外が、私の首輪を持っておくべき。斬るのに心は要らない。それが私にとって最良の。でもキミにはもっと単純に」
金縛りにでもあったような身体に、抜刀された切っ先が突き付けられる。皮膚を撫でる刃はしかし、皮一枚傷つける事もなく身体を沿っていく。
「今、心の中でキミを殺してる。幾度も、幾度も、幾度も。殺されるイメージ、忘れない様に刻んでる。身体を、心を。泣き叫ぶキミに意味はない。命乞いに興味はない。私は斬ったそれだけ。次からはこのイメージを思い出せばいい」
「…………」
「私が心を殺す。キミの欲を切り捨てる。忘れないで。私は全てを斬りたい」
「怖かった…………怖かったよ……」
「八束ってば乱暴なやり方をするのね……んっ。私の身体で、恐怖が和らぐならいいけど……あっ」
豹変した八束さんがあんまりにも恐ろしくて、失禁する勢いで詠奈の背中に飛びついた。思うがままに体を貪り、癒されている。身体の前に伸ばされた手に力を入れて鷲掴み。指を激しく動かす様は、まるで死にかけてでも逃げ延びようとしているみたいで、自分でも情けないと思う。
「れろ……ちゅっ。あの子は不器用だから怒らないでね。確かに頭の中が死ぬ事で満たされればそうなるけど……ぶちゅ……やはり極端ね」
「詠奈様。叫び声はこの家の何処に居ても届くようです。何処かの壁に防音工事をしなければ詠奈様の偽装も難しいかと」
「ああそう…………ちょっと待って。今……景夜が求めてきてるから……」
詠奈を持ち上げようとすると、スカートが捲り上がってお尻が丸見えになる。間違っても振り落とさないようにしっかりと掴んで、詠奈に夢中になっている。周囲の視線も今は気にならない。脳裏を過るイメージは、色欲に彩られている様でその実、斬殺に刻まれていた。
保存本能とも言う。限りなく強い死のイメージが子孫を残そうとしているのだ。詠奈はそれに応じてくれるだけ。俺が悪い。俺が弱い。こんなイメージと向き合ったら心が無になる前に発狂しそうだ。
「地下は……湿っぽくて好きじゃないわ。屋根裏部屋とか……どう? もし音が漏れなくなったら……景夜と引き籠ってずっと……ふふ」
「詠奈様。お言葉ですが、それでは景夜様が怪しまれるかと」
「何事も工夫次第よ。隠し定点カメラと、こちらで仕込んだ人にカメラを持たせるの。軽率な行動を敢えてさせれば……怪しまれるのはそっち! あっ…………」
「お嬢。一応試作料理が出来たぜ。あー…………悪い、邪魔するつもりはなかったんだ。俺ぁそこな坊主と違ってもう枯れてるもんでな。何とも発言しにくいんだわ。とにかく来てくれ。味を確かめて欲しい」
「美味しすぎて人が死ぬ料理になったかしら?」
「そりゃ見知った食材なら出来るがな…………人肉は扱った事がねえ。味見したくもねえ。だから未知数だ」