残夜に微睡む愉楽主義
「景夜さん、これが地図です」
「有難う。獅遠は?」
「姉さんは詠奈様の傍に居ます。リビングを改造しているようですね」
「―――改造って言い出したらまずこの家に電気を通すところから始めた方が良いと思うんだけど」
「それは私共だけではどうにもなりません。詠奈様が業者に頼むと言ったらそれまでですから」
出来ない、とは言わない。それはまるでブラック企業のようだが、引き換えに待遇はあまりに上等だ。まあ業者を使うなら使うで、露骨に電気を引いたら雰囲気が壊れると思うから詠奈がどうやって通すつもりなのかは想像の余地がある。俺は電気の通し方に詳しくない。専用の自転車を漕いだら自家発電が出来るかも……みたいな浅さだ。知識が無さすぎると推理すら出来ない。詠奈の正体についても同じ事が言えるだろう。
「……そう言えばうちの屋敷の構造を見た事あるけど、それよりはマシに見えるな。全然普通って言うか。見て分かる」
「あの屋敷は地下が特に曲者ですから、お気持ちは察します。便宜上未探索区域と呼ばれる場所もありますから、地図もややこしくなるのもおかしな話ではございません」
この鏡張りの部屋は地図を見る限り単体で存在しているようだが、それにしては紙上で見る部屋が縦長すぎる。こんなに大きくはない。地図を頼りに他の部屋を回ってみたが似たような違和感を覚えたのはここだけだ。
―――なーんか、不気味だな。
結局元の部屋に戻って来た。心霊現象なんかは起きていないと信じたい。無数の鏡に映る自分は全て正常な挙動をしている。
「聖。これ何の部屋だと思う?」
「……見当もつきません。詠奈様がよく設置を検討している部屋のような雰囲気は感じますが」
「何だそれ」
「一度入ると鍵が閉まって、子作りするまで出られないという部屋です。ロック解除のトリガーを科学的にどうするかという点で行き詰ってその計画は現在凍結していますが」
何故詠奈の傍に一番居る筈の俺が知らない話があるのだろう。端的に言ってしまえば非常にろくでもない計画だが、詠奈にはそれが実行出来る力がある。凍結されて良かった。
「そんな発想をするのはアイツだけで、この部屋は絶対違うだろ。まだ安直に拷問部屋って言ってくれた方が良かった。鏡って多分割れるよな。この鏡の先に部屋があるかどうか確認してみたい。もしなかったら……」
「なかったら……?」
「ごめんって感じ」
「ふふ」
でも何かあると信じたい。部屋の全てを見て回った訳ではないが、二階も三階も違和感はなかった。ここだけがどうしてもおかしいのだ。あってくれないと俺は自分の直感を胡散臭いものとして扱わなければいけなくなる。
「ちょっと詠奈から何か借りてくるかな……あ、一応言うけど俺に無理してついてこなくてもいいからな。用事があればそっちを優先してくれ」
「はい」
詠奈がどのあたりに居るかはついさっき聞いた。リビングの方まで下りていくと、詠奈は埃を払った椅子にふんぞり返って指示を出している所だった。
「詠奈様。スピーカーはどのあたりに設置すべきでしょうか?」
「一か所から聞こえたら音の偏りが生まれるわ。少し壁を水増ししましょう。取り敢えずそことそこに仮止めしておいて」
「うーん、調理道具が足りねえよお嬢。当たり前だが包丁なんざ錆びるどころか欠けてて使い物にならねえ」
「持ち込むしかないのね。必要な器具は全部購入するからまとめておいて」
「詠奈様。地下の調査が終わりましたよー。危ない事は何もなさそうです。お化けとかも多分居ないでーす」
「そう、気温はどうだった? 長く耐えられそう?」
「地下は安定してるから大丈夫だと思いますけどねー。取り敢えずまた調査してきまーす」
―――こうしてみると、王様だ。
ふんぞり返っているのは事実だが、数十人への指示を一人でこなす手腕は評価すべきだと思う。俺には到底管理出来る気がしない。
「え、詠奈……」
「景夜。どうかしたの?」
「鈍器が欲しいんだ。二階の鏡張りの部屋をちょっと割ってみたくて。もしかしたら隠し部屋があるのかもしれない。お前が隠れる場所になるかもしれないだろ」
「ああ…………そんな部屋があったのね。いいわよ、外の……車のトランクに入ってると思うから好きに使って。本当は一緒に居たいのだけど、ここから離れられないの。ごめんなさい」
「や、いいよ。忙しいのは分かる。俺も邪魔したりしない」
「―――行ってらっしゃい。何か見つけたら教えてね」
背もたれ越しに彼女を抱きしめて、口づけを交わす。直ぐに終わらせるつもりだったのに詠奈が舌を出してくるから十五分程の延長を挟んでしまった。チロチロと舌が触れ合う時間は至福で、目先の予定など忘れてしまった。
さて、車のトランクと指定した際に彼女が言い淀んだ理由は簡単だ。彼女が使っている車は一律で黒塗りの高級車なので具体的に指定出来なかったのである。トランクを片っ端から開けていくと、見つけた。鋼鉄製のハンマーは非常に重く、引きずる事しか出来ないとは言わないまでも、まともに持ち上げられない。振り上げるのが精一杯なので、割ろうとしたらこれ自体の重さに頼るだろう。
「…………」
お化けとか出たら、嫌だな。
パリイィン!
「うわあああああああああああああ!」
景気よく割ってみたら、そのつもりもなかった鏡まで連鎖して崩れ落ちる様に割れてしまった。嫌な予感がして直ぐに退避したが間一髪と言わず普通に手遅れだった。重傷は負わなかったものの身体中に軽い切り傷を負ってしまった。
「景夜さん!」
「……ごめんな。手間かけて」
「いえ、これは当然の応急処置です。詠奈様が御覧になられたらどうなっていたか……」
「そんな驚くほどの事か? お前のせいで俺が怪我したって解釈はされないと思うぞ。だってさっき俺が許可取りに行ったんだし」
「そうではなく、これで手術が必要な程の怪我を負ってしまった場合、私は責任を取る為にも殺されていたでしょう。我が身可愛さと言われても構いません。恐ろしいものは恐ろしいのです」
「気持ちは分かるよ。俺も逆の立場なら自分を優先する。自分は優しくないなんて言わないでくれ。聖は十分優しいから」
「―――景夜さんは、死ぬことも許されないと思いますから」
「……?」
聖が不安そうに零した言葉は何処か羨ましそうで、しかし意味は分からない。何を知っている。何を隠している? その言葉を、俺はどう受け取ればいい。
「…………と、とにかく中を見よう。あーこれ、詠奈に余計なお金使わせちゃうかな。都合よく一部を割るって出来ないもんだな」
鏡の先にはやはり部屋があった。俺の軽率な行動をきっかけに起きた崩落は今やすっかり収まって、足元が万華鏡のように刻まれ、歪んでいる。鏡の先にはやはり部屋があって、そこにはどうも誰かが暮らしていたらしい生活の痕跡がある。二つのベッドと、溶けた蝋燭が一つ。
血塗られた魔法陣の中に、腐り果てた頭蓋骨が二つ。