楽園 戦争
「ああ、少し遅れてしまったわ」
「詠奈様がいらっしゃらないので先に始めようと思っていたのですが、皆詠奈様の到着を待ってしまいました」
「そうなの。なら……もう大丈夫よ。私の席は何処かしら」
「詠奈様~こっちですよー!」
「わ、私はもっと端っこでいいんだけど……」
「詠奈様、景夜様~! ここしか空いてませんよ!」
敢えて用意していないだけなのは明らかだが、俺も詠奈も一々椅子を用意する暇はない。皆に見られたくないから俺は彼女を盾にしているし、その彼女は足が震えて歩く事がおぼつかない。何故かは言わないけどさっきまで腰を痙攣させていた影響が抜けていないのだ。
八束さんは机の位置は遠いものの、主の不審な動きを心配している様子。俺達の席には千癒と春、彩夏さんが待ってくれている。隠れていても仕方ないかと思い直して詠奈を座らせると、何事もなかったように俺も席についた。三人とも顔が赤くなっているが気にしない。気にしたら負けだ。
「詠奈様が暫く動けなさそうだし、私が取ってきてもいいですかね!」
プールの傍にあるレストランは普段こそ何の変哲もなく至って普通に注文をする場所だが、今日は文字通りの貸し切りになるのでバイキング形式に切り替わった。無関係の人間は一切合切排除しようという詠奈の心意義は本物だ。下働きの子なんかは特に、目に毒なんてもんじゃない過激な水着を着ている事も忘れて食事と談話を楽しんでいる。
春が席を外すと、彩夏さんは口の傍に手を当てて――ーしかし声はそのままに、詠奈に尋ねた。
「遂に沙桐君が手を出してくれたんですかッ?」
「あ、彩夏さん!」
「ええ。そうなのよ。本当にようやく……お互い初めてだからうまくいかない所もあったけど、私は満足よ。ケダモノみたいに激しくて、大、大、大満足」
「待て詠奈、お前ちょっと黙ろう! 今って食事時なんだよ。こういう話は―――千癒! 困るよね!」
「え、え? 何で詠奈様も景さんも私に振るの……? 景さん、いつもお風呂入ってるんでしょ。いいんじゃない……?」
「ちーがーう! そういうんじゃないんだ……! あれはまだギリギリ堪えられたっていうか、雰囲気的にさ!」
「沙桐君っ。食事が終わったら私達と遊びませんか~? 詠奈様って意外と弱いですから、暫く動けませんよどうせっ」
「彩夏。一言多いわね。そこまで言うなら、いいわ。貴方も景夜に襲われてみればいい。同じ様になるから」
「そこは止めてくれよ!」
詠奈が悪い。彼女のせいで俺のブレーキの段階が一つ下がってしまった。これからは耐えられそうもないと確信している。いつもは平静を装うためにきちんと顔を見るのに今はもう誰と話しても谷間を見ながら話すから重傷だ。谷間が喋っているならそれでもいいが、そんな事はあり得ない。
―――あの熱が忘れられない。
シャワーで洗い流せるからって言われて、節操がなかった。一か所と言わず全身を、思春期というか純粋に発情期。こんな男にはなりたくなかったのに、身体を締め付けたあの快感が忘れられないでいる。これはウイルス、もしくは毒だ。理性というガードを内側から崩す危険物。
「いつもはヘルシーぶるんですけど、結構真面目にお腹空いたのでちゃんとした料理持ってきましたよ~!」
「春……お前だけだよまともなのは……助けてくれ」
「え……景夜様!?」
眼帯ビキニはまともじゃないけど、この状況でちゃんと料理を取ってきてくれた彼女は紛れもなく有史以来の偉人だった。気軽に抱きしめたくなる気持ちをぐっと抑えて、持ってきた料理に視線を落とした。
「沙桐君はどれ食べますか? 特別にお姉さんが食べさせてあげますよ~?」
「料理作らなくていいからって暇を持て余さなくても。でも……食べさせてくれるなら、じゃあ―――」
「景夜。彩夏に甘えるのはいいけど、まず先に私を頼るのが筋じゃないの?」
「や、い、一応俺の御主人様だし……」
「嘘を吐くのは良くないと思うわ」
「……詠奈の身体を近くで見たらまた興奮しちゃうから嫌なんだ!」
「はい。良くできました。彩夏、二人で食べさせましょうね」
「は~い♪」
「うわあああああああ!」
拒否権はない。いや違う。拒否したくならない。右も左も女体や女体。欲望の逃れる方向はなしに夜食が始まる。食事前の集合写真など最早どうでもいい。対面に座る千癒に鼻の下を伸ばし続ける痴態を見せながら食事をする方が地獄だった。
「あ、あ、あ……」
確かにこれは楽園かもしれないが、確実に男としての尊厳を壊していた。昔の家では何をしても怒られて認められる事なんかこれっぽっちもなかったけど、ここは何もしなくても受容されてしまう。男らしさという名前の虚勢が瞬く間に剥がされていく。強がっても、真面目ぶっても、ありとあらゆる方面から愛情を向けてくれる詠奈が、皆が愛おしくて。
「美味しいですか、沙桐君? 一応ここの施設って料理がおいしい事でもそれなりに有名でして―――」
「景夜。これが済んだら次は何で遊びましょうか。みんなで遊ぶのもいいし、あそこの飛び込み台を使ってやんちゃな事をするのもいいわね。時間なんて気にせず、自分のしたい事をしましょう」
千癒が出てきてくれるなら聞きたい事があった。次はいつ起きているのか、とか。書庫の使用許可とか。それどころじゃない。みんなと遊びたい。ここでは何をしても嫌われないってようやく分かった。羽目を外してもいいんだって。
皮肉にも詠奈と一線を越えてしまった事でようやくその事に気が付いた。今まで理由もなく、それをしたら全てが終わってしまう気がしていたのに、実感として杞憂だと知ってしまった。
「あ、遊ぶならさ―――全員で激しく遊ぼう! 楽しい思い出、家で話のネタになるくらいさ!」
「………………君がそれを望むなら、付き合うわ」
「有難う詠奈ッ。愛してる!」
食事の最中、不意に彼女の唇を奪って、身体を抱き寄せる。机の下から皆に見えないようにお尻に触れると、無愛想な声音が跳ねて嬉しそうに囁いた。
「…………ああ、そっちも素直になってくれたのね。身体を許した甲斐があったわ。軽々しく愛してくれていいの。もっと、滅茶苦茶にして欲しい……ね?」
『王奉院詠奈。これは一体何のつもりだ』
警視庁のトップに就く者でも、対等以上に相手をしないといけない存在が居た。それこそこの国の影の玉座に座る一族の一人。王奉院詠奈。
『貴方達が手を出せないでいる組織の構成員のリストだけど。政治家様がバックについておられるから手を出せないなんて国家秩序が聞いて呆れるわ。でも私の指示にちゃんと従ってくれたし、本部たる警視庁様にはご褒美を上げなきゃと思って』
電話越しには何やら喧騒が聞こえる。耳を澄まして聞こえるのは断続する嬌声と素直に楽しそうな黄色い声。女性ばかりだ。彼女が買った人間達だと直ぐに分かった。
『こんな物を出されても起訴までは行けん』
『不当逮捕なんて幾らでもやってきたでしょう? もし圧力がかかるなら私の名前を出していいわ。権力しか能のないおじいさんは私には敵わない。逆らえば立場が消えるって分かってるんだから』
『…………その指示とやらだが、これ以上警察を勝手に動かすのはやめてもらいたい。幾ら貴方でも限度がある。これ以上は……むしろ貴方達を逮捕しなければいけなくなるかもしれない。国家権力として』
『それは脅し?』
『これ以上警察の信頼を失墜させる訳にはいかないんだ!』
『誰が汚職警官を一掃してあげたと思っているのかしら。まるで私のせいと言うけれど、私が関与しなくても最近の警察は不甲斐ないわ。末端は優秀でも上が腐ってるのでは組織としてお終いよ』
こんな小娘に、と思う人間は自分だけではない。今や世界に名を轟かせる大企業も、党派を抜きにした政治家も、総理大臣すら彼女の扱いには困っている。堕落している今こそ最善の現状。だが動き出したその日には、民主主義が終わってしまう。
『……調子に乗るなよ。お前達を逮捕する要件など幾らでも出せるんだからな』
『そこまで言うなら、戦争でもしましょうか』
『……は?』
『私と警察で絶滅戦争をしましょう。丁度戦う相手が居なくて困っていたのよ。私が邪魔だというなら素直にそう言えばいいの。かといって私は切除出来ない。諸悪の根源として裁いてしまえばこの国自体の行く末が暗くなってしまうから。けど私は警察が居なくなっても構わないと思っているわ。勿論貴方達がいなくなってもこの国は不安定になるでしょうけど、私達に身の危険はないから。だから徹底的に、無慈悲に戦いましょう。警察の威信とやらも粉々に打ち砕いて、犯罪に対する抑止力を一切打ち消してあげるから』
『…………わ、私は戦おうなどとは言っていない。ただ無暗に大量の警察を動かすのは国民の不安を煽ってしまうからやめろと言っているんだ!』
『ふうん、そうだったのね。私には脅しにしか聞こえなかったけど。まあ今は気分がいいからそういう事にしておいてあげるわ。でもその気になったらいつでも先制攻撃を許してあげる。私が買った存在一つでも逮捕したら、それを宣戦布告と受け取るわ。待ったなし、降伏もなし。その時はお互い死ぬ気で戦いましょうね。それじゃあ、リストは精々有効活用してね。誰も裁けなかった悪の要塞に斬り込めたら少しは警察も信用を回復出来ると思うわよ』
ツー。ツー。
「……クソッ!」
王奉院詠奈に手出しをすることは許されない。分かっていても尚、悪態を吐けずにはいられるか。あれに手を出せば国が揺らぐばかりか、ややもすると外交問題にも発展するかもしれない。何が民主主義だと、自分も含めて彼女を知る上の者は言うだろう。
その気分次第で蟻を指で潰すが如く一蹴されてしまう事実は、いつ何時も不愉快だ。誰か。誰でも良いから誰か居ないものか。
あの女を玉座から引きずりおろせるような奴は。