金を見てせざるは雄なきなり
緩やかに流れる水に浮き輪と共に流されていると、気持ちが落ち着く。空に浮かぶは満天の星、心を誘う願いの絆。あの日願った想いは現実になっている。今になって浮かぶ反抗心に意味はない。両親と再会した日には鳴りを潜めるようなほんの小さな感情。
だが確かに、当時は思った。詠奈と出会った時から一緒に居られればと。こんな形でそれが叶うとは思っていなかったが。
「男性は賢者になるものと教わったのだけど、成程ね。こういう事なの」
「詠奈」
顔を覗き込んでくるのは詠奈しかあり得ない。彼女もまた浮き輪に乗って同じ様に寛いでいる。ただし天を仰ぐ俺とは違って彼女は足を組んでふんぞり返っている。
「良い写真が撮れたわね。見返す?」
「やだ、見たくない」
「みんな見てないわよ、周りで遊んでるのが分かるでしょ? 無理もないわ、私は娯楽を禁じたつもりはないけどいつ何が起きるか分からない内は外にも出られないでしょうから」
詠奈に言われた通りの服装を全員がしているが、だからって全員が俺を全力で誘惑するのかというとそんな事はない。特にランドリーの子や厨房で下働きをする子は普段来られないような場所に目を輝かせて力一杯遊んでいる。何に憚る事もなく遊べてさぞや楽しいだろう。
尤もそれとこれとは話が別で、チューブトップのビキニや控えめな胸なのを良い事に先端だけを隠すような小さなビキニを見たら嫌でも興奮してしまう。だから俺は、天を見上げていたわけだ。
「それにしても……本当に良い顔をするわね。千癒もそう思わない?」
「え、私……」
「隣に居たでしょう?」
集合写真は、勿論普通に撮ったのもある。だが詠奈のお気に入りは俺が左右と頭の上から大きな胸に挟まれながら撮った集合写真だ。それぞれ詠奈、千癒、彩夏さんが担当している。普通にピースなんかしてる子が全員顔を赤らめている事からも分かるように、それはもう見るに堪えない顔をしてしまった。
あれが鼻の下を伸ばすという行為なのか。自分でもどうかしているくらいに卑しい感情をむき出しに、それはもう誤魔化しようがないくらい本能を突き出し、隠す事も許されなかった。一つ背後に控えていた幾葉姉妹の胸に手を取られていたからだ。事実上、女体による磔刑。
「……エッチな顔してて良いと思います。詠奈様、女性として見られていますね」
「ふふ、有難う。景夜が幾ら真面目になろうとしても、心も体も立派な男の子なの。私達を全員異性として認識している。この写真からはそれがありありと伝わってくるわ」
貸し切りとはいえ、こんな写真は公然わいせつでしかない。本気で嫌がる事が出来なかった自分が今は憎い。
今だって心から悪感情を抱けないでいる。右を見ても左を見ても眩い格好をした女の子。手を伸ばせば顔に押し付けられていた感触が簡単に味わえる。ああ、自分が憎い。この環境を幸せと思う自分がいる。それが一番恥ずかしい。物理的な興奮よりも何よりも、心を奪われている事がもどかしい。
「そうそう。これは言い忘れていたけれど今夜だけは特別に景夜とのツーショットを許可するわ。好きな時にいつでも撮ってね」
「おい、俺の人権は」
「人権なんて、ここには私しか持ち合わせていないけど」
反射的に反論してしまったがその通りだ。ここには彼女に全てを買われた者しか存在しない。甘い夢を見る代償に、私情一切持ち込めず、主張する事も意味をなさない。
「……詠奈。今日で俺は死ぬかもしれない。恥ずかしさで死んだらお前を呪ってやるからな」
「あら、死んでからも側に居てくれるのね。君は本当に優しくて、好きよ。そんな事を言ってくれたのは初めてだし、これからも言われることはないでしょう」
詠奈は浮き輪を足で掴むと手繰り寄せるようの膝を曲げて俺に覆い被さるように浮き輪を移る。
「ちょ、お前! しずっ」
世の中には重量制限というものがあって浮き輪の浮力に合わない重さがのしかかれば当然沈む。詠奈の感触を体の全面に感じながら俺達はプールの中に沈んだ。
「ごぼぼぼぼ! ごぼがっ!」
「………」
動揺から息を吐いてしまう俺に助けを出すように詠奈は口付けをかわす。彼女が口の中に含んだ空気が流れ込んできて、脳みそが落ち着きを取り戻した。水面に浮上すると、ビーチチェアに座って控えていた八束さんが腰を上げて今すぐにでも飛び込もうとしていた。
「……詠奈様」
「大丈夫よ、ねえ景夜」
髪を短くまとめた八束さんは競泳水着を着ているようにも見えるが、普通によく見るような水着と比べて背中から側面にかけてがざっくり開かれており、泳ぎやすくするためのフォルムというよりは手を入れやすいようにしてあるとしか思えない。股の食い込みはこの場の誰よりも鋭く、むしろ何も隠せていないばかりか強調しているようにも見える。
「ならば構いません」
「八束さんは遊ばないんですか? 彩夏さんは調理場の子と遊んでますよね」
「遊び方が分からなくて……」
「え? 流石にそれは嘘ですよね」
「いえ、プールも水泳についても理解はしていますが遊ぶという事がどういう事なのかと自分で考えた時にどうにも答えが出ず」
「……あの子にも困ったものね。いいわ、三人で遊んでみましょう。全員でする遊びはもう少し後にして、まずは体を慣らさないとね?」
何故か俺が巻き込まれた。でも一度沈んでしまったからには少し泳ぎたくもなる。プールに身体が入っているお陰で色々と都合が良い。現実から目を逸らせば普通に遊べる。八束さんが入ったのを見て、詠奈は何処からか一枚のコインを取り出した。
「何となく泳ぐよりも興が湧くように少しゲームをしましょうか。今から私がこのコインを流すわ。この程度の水流でも簡単に流れるくらい軽いの。三人で十秒待ったらこのコインを見つけましょう。先に見つけた人が勝ち。どう?」
「他の遊んでる人は参加しないのか?」
「障害物として扱わせてもらうわ。可哀想だから出来れば邪魔をしないであげてね。それじゃあゲームスタート」
開始の合図とばかりに俺の頬へキスをすると、詠奈は水中でコインを手放してから俺の目を隠すように顔を埋めさせた。
「ちょむぐ……八束さんは……!」
「八束はこんな事しなくても大丈夫なの。君はほら、駄目なの」
「な、なんむぐ…………」
「はい十秒ね」
詠奈は俺から手を離すと、浮き輪をプールサイドに置いて水に潜った。
「じゃ、私スタート係やるから……」
「えっ」
千癒は勝手に参加した。
ゲームは詠奈の勝利だった。どうもこの話を持ち掛ける前から予め偽物のコインを幾つかばら撒いておいたらしく、最初に見せたコイン以外は無効判定との事。八束さんも俺も面食らって普通に敗北してしまった。
「仕方ないじゃない。普通に戦ったら八束には勝てないんだから」
「それってずるいだろ! 今度は普通にやろう! 俺とお前で組んで、八束さんが一人。これなら勝ち目がある!」
「…………まあ、いいわ。景夜にも分かってもらいたいし」
そうして始まった二回戦。詠奈の発言を裏付けるような敗北を喫した。高身長でスレンダーでおまけに運動神経も高い。過去の背景は悲惨かもしれないが八束さんの肉体は色々な意味で恵まれていた。
「もう一度対戦なさいますか?」
「いえ、もういいでしょう。一時間くらい経ってしまったし」
「え?」
時計を見る習慣が無くてその発言を信じられない、が。確かに一時間と少し経過している。全員が夜食を摂っていない。そろそろお腹が空いた頃だ。
「いいわ、一度みんなで食事にしましょう。この為に貸し切りにしておいたのよ。八束、悪いけど皆にその事を知らせてくれる? 私は景夜と話があるから」
「畏まりました」
八束さんが水の抵抗もものともせずにプールを上がると、そそくさと他の水を呼びつけてレストランへと導いていく。詠奈は「さて」と振り返ると、梯子をつかんでプールを上がった。
立ち上がると、水をはじくように胸が大きく揺れる。俺は自分の置かれた状況などすっかり忘れて、彼女の全身に見惚れていた。
「まだ手出ししてくれないの? 焦らしてくれるのはいいけど、そろそろ我慢の限界よ」
「お、俺はそんな事しない! ぜ、絶対しないからな! 男としてそういうのは間違ってるんだ。もっとこう、本当は健全な付き合いをさ。今の俺が言っても説得力はないと思うけど」
しゅる、しゅる。
「そう在ろうとする心構えが大事なんだ。勿論命令されたらするしかないんだけど、俺には俺の、男としての誇りがある。絶対どんな事をされても自ら変態と認める事になるような真似だけは」
ぱさっ。
「…………少しべたべたするし、シャワー室でも行きましょうか」
「あれ、景夜さんも詠奈様も居ないけど何処行ったの?」
「ん~獅遠ちゃん。詠奈様はこの日をずっと心待ちにしてたんですよ~? そりゃあもうなんだって……」
むむむと頭を悩ませるフリをしながら彩夏さんについていくと、シャワー室に向かって脱ぎ捨てられたビキニが繋がっていた。
「あら~…………」
「…………!」
二人で耳を澄ませると、シャワーの音に紛れて二人の声がする。
「俺は……真面目に……耐えたかったのに! 詠奈が、詠奈が悪いんだ……!」
「そ、う。私が……んっ。悪いの。悪いのよ、君は何にも気にしない……んっ。で、いいんだから。悪いのは全部、私……!」
時間にしておよそ三〇分と二〇秒。私達はその場に釘付けとなって、一緒に心配された。