湯水の如し夜の金
あまり近いと気づかれてしまうだろうという恐れから俺たちは会話の聞こえない遠距離から二人を眺めている。聖が居れば読唇術でも使って会話を聞き取れただろうか。しかし雰囲気からして、聞く価値のある会話をしているようには思えない。
本人達だけが愉しければそれでいいような、とりとめのない会話。
「これ、何で会話を盗み聞きしてるんだ? いや俺も隠れたけどさ」
「気になるでしょ?」
「……そうだけど、それなら直接聞きに行けばいいなって思い直してる所だよ」
俺達は何も姿を見られたが最後一日は人前を歩けなくなるような滞在人じゃない。獅遠だって学生服を着るなら同じ学校の生徒として認識されるだろう。会話が気になるなら自分達も混ざるべき、至極真っ当な答えに思う。
獅遠は眉をぴくぴく動かして、仕方なしに口を開いた。
「これ、言わないようにしてたんだけど」
「何だ?」
「私達って、詠奈様に買われてから外との交流なんて殆どないの。当然だよね。だって外と繋がってたらまともに過ごせない。少なくとも私はあの環境を異常と思わないようにして生活してきた。躊躇いなく人を殺すのにも必要な事。それにもし昔の繋がりをすっぱり切らなかったら勘違いで乗り込んでくるかもしれない。そうなったらその人を殺さないといけないのは自分達でしょ。八束さんだってそれを分かってると思うんだけど……うーん」
「要領を得ないな。何が言いたいんだよ」
「詠奈様と景夜さんと同じ買われた子を除いて殆ど親密な交流なんてしてないから、単純に気になるの。もしも自分が普通の生活を続けていたらって……有り得ない話なんだけどさ」
普通の生活、か。
それはきっと俺には想像も出来ない様な事だ。普通と言い出したらこれが普通。かつての俺は普通以下の存在だった。獅遠の過去は分からないけれど、八束さんの時代錯誤な環境や彩夏さんの違法な環境を知った今なら、この瞬間こそ求めて仕方なかった普通だと分かる。
「…………会話も聞こえないし、ずっと隠れてると疲れそうだ。買い物に戻ろう獅遠。仕事に隙間を開けすぎると後で苦労するのはお前だぞ」
「…………うん。そうだね。戻ろう」
納得はしているが何やら別に考え事がある様子。このままでは買い物もまともに済ませられないと判断してカートを俺が押す事にした。そこまで入れ込む事はないだろう。八束さんは同じ買われた者かもしれないが他人は他人だ。楽しそうにしているなら、別にそれでいいじゃないか。俺の野次馬根性なんてその程度の好奇心だ。
「八束さんがもし、普通の生活を望むならさ」
「ん?」
「詠奈様から自分を買い戻すって事も考えられるよね」
「でも、今までにそんな例はないんだろ」
個人の価値は飽くまで周囲の環境を抜いたそれ自体の価値だ。買い戻すともなれば詠奈は当然その人間自体の価値に加えて穴が出来た事の損失とこれから生み出す筈だった利益なども含めて買い戻し額を算出する。不正、不法、法外、その悉くお構いなし。ルールは詠奈だ。
だから八束さんがどれだけお金を抱えていたとしても詠奈がまだ手放せないと思ったならまず人権の買い戻しは許されない。幾らでも金額を釣りあげてくるだろう。だがお金とは誠意だ。幾ら釣り上げたとしても、例えば詠奈に一度金額を言わせたならそれ以上の額を用意すればいいという見方も出来る。
「それに、八束さんは多分そんな事をしないと思う」
「言い切るね、景夜さん」
「御恩と奉公みたいな話じゃないけど。生活水準的に考えられないだろ。詠奈は監禁してるんじゃないんだ。普通の生活に戻ったなら法律を守らなきゃいけない……って何言ってるんだろうな。普通は詠奈でも法律守らなきゃいけないのに」
「私はそうは思わないなあ。やっぱり運命の人に出会ったら自分の立場とかどうでも良くなるのが恋愛だと思うから」
何やら上目遣いに俺を見つめてくるが、そう言われても理解してやる事は出来ない。俺にとって運命の人とは詠奈の事だろう。自分の立場がどうでも良くなったかと言われたらそうは思わない。母親が認めてくれなかったらどんなに好きでも彼女と俺は交流出来なかった。あれは詠奈のお金があったから実現した奇跡なのだ。
「あ、その魚取って」
「鮭か。分かった」
…………幸せなら何でもいいよな。
八束さんの事は好きだから、あの人が運命の出会いとやらをして幸せになりたいと思うなら応援する。合理的に考えれば今の立場を捨てるなんてとんでもないけど、どうも恋愛は合理的ではままならない行動だから。
「さっきから分かったような口ばっかりきいてるけど、実は全部獅遠の事だったりするってのは考えすぎかな?」
「ん? やだな景夜さん。私な訳ないでしょっ。私の好きな人は…………さん…………だから! 変な気なんて起こしません! ええ絶対に、ぜえったいに!」
買い物カートをガタガタ揺らしてくるせいで良く聞こえなかったけど、これ以上突っ込んでも無駄に機嫌を損ねるだけに見えるからいいか。面倒事は避けるに限る。殆ど相手の為だ。
「ていうか! 好きな人じゃなきゃお風呂に入らないでしょうが!」
「お風呂? ごめん何の話だ?」
「…………」
獅遠は不機嫌になったまま買い物に集中してしまった。
やっぱり俺が荷物持ちか、という愚痴を形に変える息さえ今は惜しい。両手に抱える袋の重さは尋常ではない。普段力仕事を手伝っているから耐えられるだけだ。それに、重さは純粋な重さの話ではなく、何処にどれくらい重さがのしかかるかの問題もある。幾ら力持ちでも指先だけではその剛力を発揮するのは難しいみたいな話だ。
「景夜さん、ごめんなさい。沢山買いすぎちゃって…………」
「いや、いいんだ。屋敷に何人住んでるのかを考慮したらこれくらい必要だと……その姿じゃ車も回しにくいし、あと少しの辛抱だよ」
「やっぱり学生服はまずかった? 景夜さんの隣を歩くにはもってこいだと思ったんだけどな……」
ナイトプールとやらではせめて気楽に浮かんでいたいものだ。
車の手前まで来て後はもう乗り込めばお終いという所で、後頭部に冷たい感触が突き付けられる。
「動くな」
銃口の感触を知っているのは何故か? その昔詠奈に突き付けられた事があるからだ。特に何か問題を起こした訳じゃないけど、当時の流れで。
「獅遠!」
反射的に両手を挙げつつ彼女を見遣ると同じ様に銃を突きつけられている。ミラー越しに見えるのは目出し棒を被った男が四人。それぞれが拳銃を所有している。
「…………」
「その車に俺達を乗せろ。王奉院詠奈を呼べ」
「詠奈の知り合いか?」
「撃ち殺してもいいんだぞ。お前等の死体があれば十分脅迫になるからな」
―――不思議と恐怖は感じない。
痛いのも死ぬのも嫌いだけど、恐怖だけは感じられない。きっとあの時からそう。詠奈に買われたあの時からずっと、髪の毛からつま先に至るまで余さず買われたお陰だ。俺の事は彼女が守ってくれると、近くに居ないこんな時でも心の底からそう思える。
「景夜さん。目瞑っててね」
「…………」
メイド達は詠奈の手足。ならばこそ俺は。
パン、パンパパパンッ!
渇いた銃声が四発か五発か、良く分からない。車を停めた場所が人気のない場所だったのは幸運か否か。スーパーの駐車場では学生服を着たまま運転する彼女に言い訳が出来ないと思ったのだ。
「さ、早く乗って。食材が無事でいる内に帰ろ」
「獅遠。彼らは」
「殺さないで欲しいなんて言わないでよ。私はそんな不殺を誓える程強くないの。銃とか最強だけど、あんな距離で構える馬鹿だから勝てただけ。詠奈様にも私の活躍は伝えておいてねっ。そうしたら今度、二人きりでお風呂入れるかも……えへへ」
車が発信する最中、噂をすればと言わんばかりに詠奈から電話が掛かって来た。
『もしもし』
『景夜。寂しいわ』
『…………え?』
『寂しいの。だから急いで帰ってきてね。待ってるわ』