剱鬼羅刹の魔女
「…………今の私からは想像もつかないでしょうが、かつての私は剣の道を極める為に俗世を避け、人生の全てを剣に捧げていました。風呂場で私の裸体を見ているならある程度は察せたのでは?」
「―――いや、俺はその見ただけで全部わかるみたいな特技はないんです。引き締まってるなあとは思ってましたけど、それで得られる感想は、凄く綺麗だなってくらいで」
「…………最初から剣に惹かれていた訳ではないのです。ただ、かつて私が住んでいた地域には殺人鬼が居るとされていて……ある日私が学校から帰ると既に両親は瀕死の重傷で助けを呼ぼうにも呼べない状態でした」
「え……!」
「あまりにも幼かった私には警察も救急車も呼べませんでした。辛うじてまだ意識のあった父は代々受け継がれているとされた刀を渡して、誰にも見つかるな、逃げろと言ったんです。幼い頃に親の言う事に逆らう事は出来ないと、景夜君なら分かると思います」
「―――そうですね。俺はもっと年を取っても無理でしたよ。今も、もし出会ったら身体が言う事を聞いてしまうかも」
「でも逃げろと言ったって何処に逃げればいいのか分かりません。今にして思えばどうしてそんな場所を選んだのかも分かりませんが、とにかく私は樹海まで逃げ込んでしまいました。ひょっとすると死んで後を追うつもりだったのかもしれませんね。二十年も前の事ともなるとうろ覚えです」
「…………復讐は望まなかったんですか?」
「最初は生きる事に精一杯でした。樹海に住む動物を、昆虫を、沢山食べました。近くに水が無かったので確保するのも大変でした。今となっては遠い昔、けれどあの時私は死を間近に感じ、そして生きないといけなかった。剣を取ったのは生活に少し余裕が生まれてから。弱いままではどうにもならないと独学で、或いは闇雲に剣の道と向き合ったのです」
それは現代の話なのか、と聞いている内に思ってしまう。二十年前は生まれていないから、通りで現実味がないわけだ。俺に言わせれば大昔の白黒写真すらリアリティがない。その時代を生きて知らない故に違和感がある。実際そんな事はないのだと知識で分かっていてもだ。
「剣は後に無銘と判断されましたが、私に言わせれば大切な一振りです。それを振っている間だけ、まるで両親が傍にいるようでした。だから私はただひたすら、その道を歩き続けました。何の見返りがなくともそれだけで十分でした。この国は人のいない場所だとしても土地の所有権という物があります。当然ながら勝手な狩猟行為は禁止されていますし、そもそも銃刀法に違反していたでしょう。いつからかそれを感覚で知って私は人前にも姿を現さなくなりました」
「……服はどうしてたんですか?」
「例外的にどうしても顔を合わせてしまう人が居ます。自殺志望者です。私は彼らを殺す代わりにその衣服や道具などを貰い受けるようになりました。それが初めての―――人斬りです」
こんな暑苦しい日に、不思議と寒気が止まらない。彩夏さんなんてまだまだ平和な方だった。同じ国の話をしているとは思えないくらいに物騒で、非現実的で……そんな人が巡り巡って俺と話しているなんて事が、最もおかしな話で。
これから死のうとする人の服を貰うのだから、その格好はまるでお化けか何かだったのではないだろうか。どうやって殺すにしても返り血はきっとあるだろうし、環境を聞いている限り血を完璧に洗い流せるような方法も無さそうだ。放置したのではないか。
「人を斬れば生活は楽になり、生活が楽になればその分だけ剣と向き合える。それがかつての私です。復讐しようという気は起きませんでした。誰が殺したかも分からない以上、そして人斬りに手を染めた以上、市井に出れば見かける人々を斬り捨てる自分が容易に想像出来たからです、それは良くないと思っていました。まだまだ剣士としては未熟なまま、そのような真似をしたとて達成出来る筈はないと。詠奈様とはそんな時に出会いました」
「―――アイツはどうやって八束さんを知ったんですか?」
「私が自殺幇助をしていたせいで樹海の幽霊として噂になっていた様ですね―――」
最初は同じ自殺志望者かと思ったそうだが、詠奈らしい一言が、それを勘違いだと教えてくれたのだという。
『貴方は幾らで買えるのかしら?』
『…………幾ら?』
『価値よ。お金とも言うわね。貴方の名前は剱木八束。私が生まれるずっと前に家族を殺されここに逃げ延びたのよね。全部分かっているわ。ここを首狩り樹海に改名しなければいけない程人を斬っちゃってくれて、もう大変。でもいいの。興味が湧いたから。お侍さんが居た時代でもないのに剣術を極めんと没頭する貴方が欲しいわ。剣の腕一つと言わず、その全てが、幾らかしら』
『……ごめん。価値がお金、分かるけど。もうずっと外に出てないから。価値は知らない』
『しら……ない?』
『ここは、生きてる事が全部。死んだらそれまでだから。お金の事なんて分からない』
『…………そう。ますます興味深いわ。お金じゃ代えられないなんてふざけた事を言う奴は大勢いたけど、貴方は価値その物を知らないのね。正直でいい事だわ。ええ、価値を知らないのに見積もれる筈なんてないわよね。ねえ、私と一緒に外へ出てみない? 貴方に俗を教えてあげる。俗物極まった私が言うのだから間違いないわ。その真っ白い心を自分の手で汚してみたいの』
『外、斬りたいモノが居る』
『ええ、好きに斬ればいいわ。自分の価値が分かるまで私が守ってあげる。だから価値が分かったらちゃんと教えて頂戴。そうしたら改めて―――契約しないと』
「―――詠奈様に触れる事で、私の時間は進み、こうして順応する事が出来ました。私に目をつけた理由は想像もつきませんが、面白いモノを買いたかったのだと仰っていた記憶があります」
「…………そうですか」
過去について多くは聞かない。今の八束さんが幸せなのは見て分かるし、剣を握らなくなったという事は復讐自体が完了したのだろう。銃刀法違反も、殺人罪も、或いは他人の土地で行われた狩猟も自殺幇助も王奉院詠奈の権力一つで全て覆せる。過去に取り残された剣客を、彼女はお金で変えてみせた。
「―――有難うございます。詠奈の事が何となく分かったような気がします」
「随分、前向きなのですね。私は何か役に立つような情報は話していないと思いますが」
「知らないなら仕方ないですよ。嘘吐かれても困るし、これで十分です。後は単純に八束さんの過去を知れて良かったかなとも思ってますかね。行動には起こさなかったんですけど、あそこに住む人達の事をもっと知りたいって思ってたんです。嘘じゃないですよ」
仲良しな人ともっと仲良くなりたい。だからもっと知りたい。それは普通の感情であるべきだ。かつて母親にはそれを許されなかった過去がある俺にとってこれは反動。詠奈の権力を得た事で、深く誰かを知る事が許された。
「昼休みをこれ以上延長すると本当に迷惑掛かりそうなのでもう行きます。有難うございました!」
お礼は忘れずに、教室に戻る。やっぱり人を知る事は楽しい。そこにどんな事情があっても今、俺とこうして仲良くしてくれている事実は変わらない。また少し、八束さんの事が好きになった。
案の定昼休みに喰われた時間のツケは授業に及んで宿題が増えてしまった。誰のせいでこんな事になったかを知ればクラス中が俺を非難の視線と共に責め立てるだろう。
俺は詠奈と一緒に勉強する口実が出来たから全く気にしていない。
「はー…………疲れた、な」
プールで泳いだだけとはいえ、疲労は完璧には取れていない。帰ったらゆっくり寝るのも手だろうか。詠奈とはどうせ車で合流するから先に動こうが何処に行こうが俺の自由だ。
「よう景夜! いい所に来たな。お前にしか頼めない仕事があるんだけどどうだ!」
馴れ馴れしく話しかけて来たクラスメイトの名前は鷹村。詠奈の事が好きという事しか知らない。好きなのは分かったから、更衣室で妄想のあまり興奮が最高潮に達して奇声を上げるのはやめて欲しい。その時俺はロッカーを超えて女子更衣室で詠奈と着替え合いしているのだから。目立ちたくない。
今回も昇降口で声を掛けられたので他学年や他のクラスからの視線を浴びてしまっている。最悪というほかなく、これならトイレにでも籠っていた方がマシだった。
「何だよ」
彼は親友気取りで俺の肩に手を回すと、昇降口を出て歩きながら耳打ちをする。
「お前が詠奈にワンチャンもないって事は周知の事実だ。でもお前が一番距離が近いのも事実だよな!」
「あー……うん。そうだな」
「何でもいいから詠奈のエッチな写真を撮って来てくれよ~! あ、これ相場表な! 言っとくけどこれ、クラスの男子全員が得するから頼んだぞ!」
否応もなしに紙切れをポケットに入れられて勝手に離脱。ウザ絡みが続かないのは助かったけど、相場表とは何ぞやと。そこには詠奈の身体と下着に関する料金が書かれており、それに応じて報酬が支払われるという物だ。
例えばスカート越しにパンツを撮影出来たら五万。
ブラジャーをブラウスなしで撮影出来たら八万。
ノーパン・ノーブラであるなら二倍。
全裸ならなんと百万円。
「…………………………………こ、これは」
「私も、随分安い女と思われたものね」
一連の出来事を詠奈に報告すると、彼女は静かな怒りを燃やして紙切れを破り捨てた。
「お金で買えないとは言わないけど、これはあまりにも安く見積もられていて腹立たしいわ。有難う景夜。こんな粗悪なビジネスなんかに乗らないでくれて」
「お、お金に困ってないし。幾ら頼られても限度ってものがある。詠奈のはしたない所取るのに随分安いんだなって思ったし…………」
「私の価値も分からないのに私が好きだなんておかしな男ね。ああ本当に腹が立ってしまって…………景夜は私の価値がどれくらいだと思う?」
「えっ」
これはまた、難問を。
お金には代えられないというのは地雷だ。無価値と侮辱しているに等しい。かといって俺に正確な診断をしろというのもまた難しい。五十億よりは上だろうというくらいで、それ以上絞り込める情報はない。
ならばどうする。
「う、うーん。俺はその、具体的な価値っていうのはともかくとして―――」
「…………」
「い、一年中お前とマッサージしてても……いいかなって、感じ」
「…………それは中々非現実的ね」
鼻で笑う詠奈。しかしその横顔は満更でもなさそうどころか、鼻唄まで歌うようになってご機嫌だった。
「いいわよ。君が望むなら付き合っても。人間の構造なんてお金で幾らでも変えられる。手痛い出費にはなるだろうけど、不可能はないわ。寝食を忘れて愛欲に耽るのは……凄く楽しそう」