色男金と力はなかりけり
「プールって真面目に泳ぐと疲れるのよね。それでも君の健啖ぶりにはいつも驚かされるわ。見ていて楽しいくらい」
「……どうしてお前はそうやっていつも平然としていられるんだよ。あんな事したのに」
語弊はある。プールに真面目に取り組まないとどうしようもないくらい思考が一色に染まってしまった。後、俺が目立たないと詠奈の不自然な動きに気づかれるかもしれなかったから、たまにはらしくない事をしないと。
いつもベッドでじゃれ合っているから分かる。詠奈は無愛想で積極的だけど凄く弱いのだ。だから見る人が見れば更衣室から出て来ただけなのに太腿の辺りがしっとり濡れていた事を不自然に思っただろう。入水前にシャワーに入る慣習があって助かった。
「私も疲れちゃったけど、ナイトプールではこんな必死に泳ぐ必要はないわ。甘い時間を過ごしましょうね」
「……これは水に慣れる為だったのかよ。分かってたけど……詠奈は学校を楽しんでいる訳じゃないんだな」
「退屈は猛毒よ。ここは本当に退屈だけど、でも高校くらいは卒業したいと言い出したのは君でしょう。私の事は気にしないで。元々ここに居なくても退屈極まっていただろうから」
「何もかも手に入るのに、それでも退屈なんだな」
「そうね、高すぎる物を除けば何でも手に入るわ。だからこそ退屈なの。昔々、動乱の時代を生き抜いた王奉院はさぞや退屈しなかったでしょう。羨ましいわ。今の私は君と触れ合う時間だけが唯一の癒し。景夜君はどうかしら?」
「俺は……」
割と楽しい、のが本音だ。詠奈は別に縛らない。俺が誰と話していても気にしないし、ちょっと成績が悪くても勉強は付き合ってくれるが点数に関してとやかくは言わない。自由を感じている。
御飯も美味しい。やはり米は良い物だ。詠奈に買われる前は食事も与えられなかったなんて言わないけど、美味しいとは思わなかった。栄養を詰め込んでいるだけ、というか。残したら怒られたし。あれを『食事』と言ってよかったのかは議論の余地がある。食べていたのは普通の料理だったけど…………米一つ取っても、今の方が圧倒的に美味しい。
「退屈はしてないよ。こんな生活が出来てるのはお前のお陰だ。毎日が楽しい……最近はちょっとトラブル続きだけど。まあそれもいいかなって思うよ。俺に出来る事はなかったし」
「……そう」
―――ふと、学帽の青年の言葉が脳裏を過る。
傍に詳しい人物がいると聞いたけど、詠奈ではないのかと。その詠奈に事情を悟られたくない思いはあったが、ただ聞くだけなら大丈夫だと思う。
「詠奈。藪から棒に聞くようだけど心を無にする方法について詳しい人って居ないのか?」
「…………どうしてそんな事を聞くのかしら」
「特に意味はないんだけど……もし成績上げたいってなったら家庭教師を雇うだろ? 俺はほら、色々雑念が多いから、興味があるってだけだ」
「―――家庭教師なんて雇わなくてもこの程度の勉強なら私が教えられるけど、その境地の話は専門外ね。私に聞いたのは賢明よ、一人ぴったりの人材を知っているわ。君も良く知っているし、この学校にも今日は来てる」
「だ、誰?」
「剱木八束」
想像もしなかった名前を告げられて、思わず弁当をつついていた箸が止まる。
「……八束さんが?」
見つめ合う。詠奈はいつもの無愛想のまま頷いている。
「え? 嘘だ。ちょっと信じられない。詠奈、エイプリルフールはとっくに終わってるぞ」
「こんな状況で嘘を吐く意味がないわ……君にも多少思う所はない? 八束が少し俗に疎いように見えたとか」
「あー……でもそれって育ちが良いとかじゃないのか? お金持ちでずっと温室育ちだったとかでも説明がつくぞ。詠奈がそれ以上のお金持ちだから買えたってオチだ」
「随分な言い草ね。確かに理屈は通っているけどもう一つ可能性があるのよ。もっと単純な話、本当に俗世を知らなかった場合よ」
そう言って彼女が鞄から取り出したのは一枚の契約書だ。支倉の時にも見ただろう、ここには契約の条件と購入した金額、そして購入された場所まで記載されている。
剱木八束が購入された場所は、ここより遥か遠くの地域に広がる樹海。自殺スポットとしても名高い魔境であった。ここで自殺する時の実況サイトなんかも数年前は話題になっていたような。学校で聞いた話だからうろ覚えになるけれども。
「今はそんな素振りも様子もないけれど、あの子はああ見えて山籠もり……いや、森籠りしていた所を買ったの。詳しい事は本人に聞いて頂戴。心を無にするという事ならこれ以上ない適任よ」
「……そ、そうは見えなかったけど……ほ、本当にそうなのか?」
「むしろ温室育ちの子なら私の身の回りの世話なんて務められないでしょう。景夜君が来る前はあの子がつきっきりだったのよ。厳密に規則を決めている訳ではないけど、所有物の統率みたいな事も今は任せてしまっているし」
そう言われると確かに納得してしまう。詠奈への奉仕は激務だ。いつもニコニコしている彩夏さんがおかしいだけで殆どのメイドは最終的に疲れが顔に出てくる。俺はランドリーの子も含めて全員と面識があるから時折愚痴られる事も込みで分かっているが、八束さんにはそんな様子がない。
『疲れました』と口では言ってもそれが顔に出ないというか。詠奈に劣るお金持ちであったなら考えにくい事だ。
「…………これ食べたら呼んでくれるか? 昼休みはもうすぐ終わっちゃうけど、時間が許す限り知りたいな」
「心配しなくても気が済むまで延長するわ。何が目的かは知らないけど……好きな人に頼られるのは嬉しいものよ。本当に」
「詠奈様からのご要望を受け、ただいま参りました。私に聞きたい事があるそうですね」
八束さんは俺の紹介で友達になった男子との交流の為に、度々制服を着て高校に潜り込んでいる。そこまで接触を重ねているとクラスも不明、不定期にしか会えないという状況に違和感の一つでも覚えそうなものだが、『会えるならそれでいい』として気にしていないらしい。やっぱりゾッコンな気がする。
相変わらずの脚線美に見惚れたいところだが、そんな場合じゃない。昼休みは不正な手段で以て五分延長中だからだ。
「……詠奈様は?」
「気を利かせて離れてくれたよ。八束さん、聞きました。樹海の中に引き籠ってた所を詠奈に買われたんですね」
「…………成程。そちらの要件ですか」
「え?」
察するだけの情報なんて一切揃っていないと思ったが。
「誠に申し訳ないのですが今は剣を振るう時間がありません。詠奈様のお世話と日々の業務に従事しているだけで一日が終わってしまいますから。だから私を師として仰ぎたいという話でしたら出来ない相談です」
「あ…………そうじゃなくて。いや、そうでもあるんですけど! 心を無にする練習っていうか……その方法だけでも教えてもらえないかなって」
それにしても物騒なワードが聞こえて、背筋に緊張が走った。剣と言ったかこの人は。この時代に?
いや、それ以前に樹海に籠る事がまず時代錯誤だけど。
だが籠る理由なんてそれこそ自殺か修行か。一般人の俺にはそのくらいしか想像出来ない。剣なんていっそ非現実的な理由も、よくよく思うと道理にかなっているか、それくらいの理由でもないと人は山には籠らないのでは。
「……ふむ。景夜君の頼みなら吝かではありません。詠奈様に許可をもらう必要が生まれましたね」
「許可って、そんな大きな事するんですか?」
「少なくともそれを教えるには昔の精神を思い出さなければなりません。今の私には制限されている思考です。今宵はナイトプールに赴くのでしたら―――明日以降にお教えしましょう」
「あ、有難うございます。因みに聞きたいんですけど、それって一日二日くらいで習得出来ますか?」
「それ自体は個々人の適性ですね。簡単に出来る人も居れば出来ない人もいます。他に質問は?」
これ以上延長してしまうと他の生徒に迷惑をかけてしまう。打ち切るべきかもっと他に尋ねるべき。良心と好奇心を秤にかけると―――主人の影響か、どうしても勝負にならなかった。
「なんで詠奈は八束さんを買ったんですか?」




