金に物を言わせる
「今日からプールの授業ね」
ベッドの上で俺に髪を梳かしてもらいながら詠奈が学生っぽい話題を振って来た。彼女との雑談はいつだって突然だ。こういう日常の隙間みたいな時間にはとりとめのない会話を振ってくれる。
「あんまり髪が長いと不便じゃないか? いやキャップは被るけどさ、そんな楽しみにする程の事なのか?」
「景夜は嫌い?」
「いや、風評被害に巻き込まれそうなのは怖いかな」
普段の学生服なら幾らでも興奮なんて誤魔化せる。実際は痛いくらいに興奮していたとしてもギリギリ腹痛という事で誤魔化せない事もないというか。もしくはずっとトイレを我慢していたとか。定期テスト前なんかはよくある話だ。クラスに一人はお腹の弱い奴が居る。もう小学生でもないんだし、一々排泄排便を面白おかしく騒ぎ立てる人類は存在しない。
だが水着ともなると誤魔化すのは難しい。詠奈のせいで彼女に振られる男子が多いのは大抵この時期だ。水着姿の詠奈を見て興奮してしまって、それが見るからにバレてしまうと。
「凄く今更な事を言うようだけど、普段からお互い裸を見てるのに興奮するなんておかしな話よね。それはどうしてかしら」
「そ、そういう問題じゃないだろ。裸を見てるからセーフって、その理屈は絶対におかしい。それが正しいんだったらみんなとのお風呂、あんなに気まずくないからな」
「ふふ……みんなは気まずくないみたいよ。あんなに雄々しいモノを見たら……ねえ。それに気まずいと言いつつ君も喜んでるでしょう。春ってば興奮して眠れなかったそうよ」
「それとこれも話が別だ! だ、大体な…………? 俺だって自分でどうにかする時間があればするよ……そんな時間がないからつい……」
「ヘンタイの言い訳ね」
「………………申し開きのしようもございません。ええ、ええ、悪かったですよ御主人様」
「拗ねちゃった。でも風評被害なんて気にする必要はないと思うわ。それは他人に自己評価を任せるような人間が気にする下らない指標よ。もし君がそんな人間だったとしても指標は私。違う?」
……そうだけど。
この関係性において大切なのは俺が詠奈の所有物という点だ。過度にプライベートに干渉されるのも、物の見方を押し付けられるのも全ては所有物だから。そこには三億の重みがあり、俺には到底支払えない金額だ。
俺自身の価値を現金に換算する方法は……あるのだろうか。価値の算出は現金で行われるがそれは給料というよりお金を引き出せる範囲に等しい。みんなが共有で詠奈の財産を使っているだけというか、使っても全然蓄えが減らないというか。
「そうそう、八束と友達になりたがってた子の話だけど、一応関係は続いているそうよ」
「へえ。いや、破綻してるとも思わなかったけど意外と良好なんだな」
「話を聞いてる限り猛アタックされているみたいだけど、あの子恋愛には疎いっていうか鈍い所があるから気付かないのね。微妙な関係って所かしら」
「…………俺は?」
「君は何度も八束を助けているでしょう? 日常生活の上で、幾度も。だから景夜を好きになるのは仕方ないわ。欲しいと言われない限りは咎めない。だって私の物だから」
助けたと言ってもそこまで大層な真似はしていない。八束さんは身長が凄く高いからそれで不便を被る事があるというだけだ。何があったかは聞いていないけど昔は高身長である事に嫌気が差している節もあったから、気にかけていた。
「……そう言えばそろそろ車の用意が出来たとかって来るはずなのに来ないな」
「学校で工事を指示しているのね。大丈夫、友里ヱが来てくれる手筈よ。色々ごたごたがあってもたついちゃった……本当はもっと早い時期にしたかったのに」
前年のプールは体育祭で一度休止して、夏休みを経て九月に残りが消化されるようになっている。だが今年は詠奈が学校に圧力を掛けた結果夏休みは日数をそのままにずらしてまで体育祭後にまとめて行われることとなった。
ごたごたというのは主にバイオテロ扱いされるようになった鹿野崎の事件だろう。自分で蒔いた種に悩まされる辺り、詠奈もポンコツというか何というか。
「―――ていうか何の工事だ?」
「それは着いてからのお楽しみよ。それよりもプール。学校でクラスメイトが居たら一応『友達』だし近づくのは難しいでしょ? 今夜、ナイトプールでもどうかと思って」
「ど、何処に行くんだ?」
「私がオーナーを務めてる場所だけど。勿論貸し切りで、そこなら気兼ねなく楽しめるでしょう?」
「そ、そうは言っても俺ナイトプールなんて行った事ないから何をすればいいのか」
夜にプールに入るのと何が違うのかも良く分かっていない。そもそも高校生がナイトプールに行く事自体普通ではないような気もする。努力義務で家に帰る必要もあるだろうし。
「ナイトプールはカップルが気兼ねなくいちゃつく為に行く場所よ。勿論……貸し切りだから、君が気にするような目は何処にもないわ。手を出してくれてもいいのよ」
我慢の限界だったのか分からないが、遂に詠奈の方から『お誘い』が来てしまった。
これまでも何度かそれをにおわせてくる事はあったけど今度は直接的だ。嫌っていう訳ではない。むしろ俺だってシたいけど。これまでの努力が全て無に帰すような気がして怖いのだ。
せっかく頑張って耐えて来たのに、一度手を出したらその選択肢が入り込んでお風呂でも寝室でも同じことを繰り返してしまうかも。Cだけは進むわけには……と頑張って来たのに。
「…………分からない事がある」
「何?」
「なんで命令しないんだ?」
詠奈は俺の主人だ。個人的な価値観で踏みとどまる事はあっても命令されたら従わないといけない。『私を孕ませて』と言われたら当然、それを遂行するのが所有物の務めだ。
「…………お前は俺を試してるんじゃないのか? 誘惑に抗い切れるかどうか、みたいな」
「――――――!」
髪を梳かすのを止めると、詠奈は対面に座るように向きを変えて、器用に俺の腰に組み付いた。わざとか偶然かスカートが捲れて、透けた黒い紐の下着がチラリと見えている。
「中々の慧眼ね。確かに私が命令すれば大抵の事はどうにかなるわ。でもそれってあまり面白くないの。私は求めるばかりで、求めれば手に入る生活を送って来た。逆に私は求められても誰も手に入れられない。手に入れてくれない。誰でもいいなんて言わないわ。それじゃまるで私の価値が低いみたい。交際の五十億を筆頭に、私に何かをして欲しいなら相応のお金を取るわ。私に子供を産ませるなんてきっとどんなお金持ちにも出来ない事。でもね、君は別」
艶やかな視線に当てられて、舌を出していた。唇の触れ合わない距離でべろべろと舌を絡ませ合って、静寂の満ちた寝室に粘液の音が響き渡る。命令されていない。俺は自分の意思で詠奈を欲している。妖のような色気に操られているような、自分が自分の物ではないような。
「好きな人は特別なのよ景夜。君は私に愛情を教えてくれた。お金で愛情は買えるけど、お金を介さない愛情もあるのは知っているわ。流通ルートの問題だけど、私はそれが好きなの。君に女の子として見られるのが好き。身体を舐め回すそのエッチな目が好き。私の身体を気遣って優しく触れてくれるのが好き。たまにケダモノのように求めてくるのも……ええ、きっと得難い経験なの。大好きなの、信じて。君が本当に好き。本当は君を食べたいくらい」
「し、信じるよ。俺も詠奈が好きだから。世界一。たまに見える笑顔とか、俺に優しい所とか、我儘な所とか、あんまり体力ない所とか、頼ってくれる所とか」
「そうやって必死に下心を隠そうとする所も可愛くて大好きよ。でも……一つ言っておくと、景夜は私の誘惑を全く振り切れていないし、もう負けていると思わない?」
ぐい、ぐい。
詠奈の腰が、文字通り痛い所を突いてくる。
「い、いや。まけて―――ない。何もしてない……から」
「じゃあ体育祭が終わった後にチアガールの衣装を着てあげたら、私の全身を汚した件は?」
「……………………参りました」
「素直な所も好きよ」
詠奈はブラウスのボタンを外すと、俺の目の前で開けて見せる。
「学校。少し遅れましょうか。私も身体が昂ってきたの」
学校で行われた工事は至って単純。登校した瞬間にそれは明らかだった。
うちの高校は男子更衣室と女子更衣室が一つの建物で一体になっており、別々の入り口で以て仕分けされている。女子更衣室の方は鍵がかかるようになっており、外から覗く事は出来ない配慮がされている。
工事というのは他でもない、その不可侵の突破だ。
「……………………」
登校するや否や生徒指導の先生に専用ロッカーの存在を知らされたので見に来た。基本的にロッカーに大したものは入れないから特定個人がその場所を使い続けるなんて事はないのだが、俺が指定されたロッカーは以前からお化けが出ると噂されたばかりに一つだけ部屋の奥に隔離された挙句に使用禁止されていたロッカー。
噂の真偽はさておきお化けに怖がる男子は多いようで、水泳部の自主的な対策によりカーテンがしかれてロッカー自体がそもそも隠されている。ロッカーの隙間から目が見つめてくるという話のせいだ。
詠奈はそのロッカーに工事を施させて、女子更衣室のロッカーと繋いでしまった。
「ありゃ~景君、一人女子の園に侵入ですか、と」
「む、向こうのロッカーって」
「そりゃ詠奈様だけどー? 元々景君と同じ位置がいいって言って独占してる場所だし。良かったね景君? 詠奈様の生着替えを見ながら着替えられるようになって♪」