琴線に触れたい
「詠奈!」
足は俺の方が早い。仮に普段はそうでなくても詠奈を抱えている向こうにハンデがあるのは明白で―――それでいい。今だけ早いならどうでもいい。
「詠奈を離せ!」
背中から蹴飛ばしたら抱えられている詠奈も一緒に吹き飛ばしてしまう。肩を掴んで勢いを殺すと、振り返った顔に合わせて鼻を思い切り叩いた。
「いぢゃッ!」
ゾンビといったって思い込んでいるだけだ。痛覚はあるし疲労もあるし、鼻を殴られたら涙が出るし鼻血も出るし。願わくはその痛みで以て元の人間に戻って欲しい所だが、今は詠奈を切り離せただけでも満足だ。
「詠奈、大丈夫か!?」
「ええ。何とか」
「逃げるぞ! こんな奴の相手してられるか!」
火事場の馬鹿力とやらが身近な人物を救った例は世界に幾つもある。今の俺は正にそれで、彼女の重さを全く感じないまま当てもなく走り出していた。あの家こそ恐らくこの世で最も安全な場所。逃げきれたら俺の勝ち。多少信号無視を挟んでいるが命には代えられない。法律を守ってまたゾンビに噛まれるよりはずっとマシだ。
「お前さあ、迂闊なんだよ! 好き放題するのもいいけどせめて自分の身に危険がないようにしてくれよ! 本当に……生きた心地がしなかったんだから」
「…………ごめんなさい。少し悪ふざけが過ぎたわね。また君に助けられちゃった」
疲れたので足を止める。人気のない場所に逃げ込んだのは悪手? いいや、むしろここまで人気のある場所を進んだから問題ない。ゾンビが手当たり次第に人を襲うというなら今頃とっくに警察沙汰だ。ここには来られない。
「…………また?」
詠奈を降ろすと、彼女は近くのベンチに座って俺を隣に招く。
「初めて会った時も助けてもらったでしょう? ほら、やっぱり君は頼りになるのよ。世界一格好いいの、間違ってないわ」
「…………俺はお前がこんなにお転婆だと思ってなかったよ。体育祭だからってはしゃぎすぎだぞ。幾ら法律に触れないからって―――いや、違うな。俺はお前の所有物だ。やめてくれなんて言う資格がなかった。今度から危なそうな気配がしたらお前を第一に守るよ」
騎士、とは言わない。
従者、とも言わない。
守護者とも言えそうにないが、所有物にとって詠奈は世界の全てだ。それが危ういなら守るしかない。
「…………頼りにしているわ景夜、大好きよ」
「ああ、頼りにしてくれ。命に代えてもお前を護るよ」
自信なんてなかったのが昨日までの俺だ。しかし、今日は間違いなく俺自身の働きで守れた。俺が居なかったら詠奈はきっと噛まれていた。怪我をしていたのだ。それは間違いなくて、だから俺は俺を信じても良い。好きな人を守れたのだと。
そして今日守れたのなら、明日も守れる。
明後日も、明々後日も。詠奈だけは守れるのだ。
「迎えが来るまで待ちましょうか」
肩に寄り添うように詠奈がもたれかかって、そのまま特に何も起きない事五分。静かな寝息が聞こえて来た。また寝たのかなんて野暮な事は言わない。無愛想だけれどきっと怖くて、安心したからこうなったのだ。詠奈はちょっと我儘なだけの女の子だと言っただろう。俺の評価は正しい。
―――彩夏さんも八束さんも何処行ったんだろうな。
言い訳になるから言わなかったが、観戦に来ていた子が護るものとばかり思っていた。たまたま見逃したとも考えにくいが実際に詠奈は攫われてしまったのでそう思うしかない。これからは他人任せにしないで俺もセンサーを張り巡らせておかないと不安だ。詠奈が死んだら、どう生きていけばいいのやら。
「…………格闘技的なの、習った方が良いのかな」
痛いのは嫌いだけど、詠奈を守る為ならそれすら厭わない。好きな人くらい自分で守れるようにならないといけないと今日初めて思った。明日から色々考えてみよう。
更に十分程待っていると黒塗りの車が目の前にやってきて扉が開いた。詠奈の位置は何らかの手段で捕捉しているのだろう。肩を揺らすと、今度は簡単に起きてくれた。
「…………もう来たのね。それじゃあ帰りましょうか。それじゃあ帰ってお風呂にでも入りましょうか」
「そうだな。今日はトラブルもあったし疲れたよ。帰ってゆっくりしよう。サンルームでのんびり夕食でも待って、後は何もしたくないな」
「君ものんびりとした時間を過ごす事に慣れてきて嬉しいわ。時計がないからこそ楽しめる時間もあるの。現代人は忙しないから」
「昔の人みたいに言うなよ。お前だってそうじゃないか」
車に詠奈を乗せて、俺も後へ続く。
ああ、そんなつもりじゃなかっただろうけど。今日は自分に自信が持てた、幸せな一日だった。
「お嬢。ふざけすぎだぜ」
「?」
薪野創玄は珍しく資金を払って己の所有者である王奉院詠奈を噴水前に呼び出していた。手には一枚の新聞。大見出しには市内の高校でバイオテロが行われたとの報道がされている。
「この報道は何だよ。テレビでも特集されてるしよお、馬鹿げてるって思わねえか?」
「仕込みだからって言いたいの? 確かに私の指示だけど、従わなかった新聞社は潰したから仕方ないわ。みんな生きるのに必死なの」
「そうじゃねえよ。お嬢が好き勝手するのはいつもの事だ。だがアイツが来てからエスカレートしてやがるのを心配してんのよ俺は。今回のこれは必要だったのか? バレバレだろどう考えても。普段からメイドにもスナイパーにも特殊部隊にも衛星にも常に姿を見られてるお嬢が危機的状況に陥るなんてあり得ねえだろ」
「景夜君は素直だから気付かないわ。そういう所も可愛くて仕方ないの」
確かに、と自分で言っていて納得する。
屋敷に帰ってからはありとあらゆるメイドが今回の件で少年を持て囃して浮かれさせた。様相はまるで接待、思ってもないような称賛に浮かれてしまって色々な意味で見ていられない。気が大きくなったのを良い事に王奉院詠奈に対して強気な要求を繰り返し、彼女は喜んでそれに応じて……というのが屋敷内で起きた事の全てだ。要するにいつもの惚気が酷くなったと言えばいい。
何だって今日着たであろうチアガールの姿になっているのか。それもまた少年の要求だからだ。
「実際、刷り込んだ情報は本当なのか?」
「ええ、秘密結社ではそれに近い実験をしていてね。私がワクチンを持っているという情報が良い具合に作用したみたいで良かった。本当に危なそうなら中止にするつもりだったけど、思ったより景夜の足が速くて良かった。私を想う気持ちが現れてるみたいで嬉しかったわ」
「…………好きな男とイチャイチャする為に町を巻き込むなんて迷惑だろうがよ。お嬢、目的は何だよ。アンタが手に入らない物なんてないだろ。何がしたい? 自信をつけさせたいが為にこんな大がかりな事までして、意味は何だ?」
「私、景夜にプロポーズされたいの」
星空を眺める瞳は初心な少女のように純真で、曇りもなく一点を見つめている。山に建つこの家からは、ああ星が良く見える。
「私からするのは簡単よ。される事に意味があるの。でも景夜は教育のせいで主体性が欠けて自分に自信もあまりないようだから。自分のプロポーズなら絶対に受けてくれる筈だって思ってくれるくらいにはなって欲しいのよ。私が受け入れるまで身体を責めるのもいいわ。敢えて言わせないの、口を塞いだりしてね。コックの言う通り私に手に入らない物は早々ないわ。でもたまには受動的になりたいじゃない。景夜が私の事を知りたいって言った時、凄く嬉しかったわ。自分から私の事を調べようとするなんて……それって私の全てが知りたいって事でしょう? 今回の成功体験は彼の行動を前向きにするわ。私を守るために私の事を知るとか……そんな方向性になってくれると思うけど」
煙草に火をつけて、吹かす。早々事は思惑通りに運ばないだろうが、王奉院詠奈にはそれを修正する金の力がある。
「お嬢がこの国の病巣と知ったらどんな顔するかな」
「否定はしないけど、私を取り除いても手遅れよ。利権、思惑、時流。全てが悪い方向に向いているから。選んだのは皆でしょ。民主主義なんだから」
王奉院詠奈はそれだけ言い残すと、屋敷の中へと戻っていく。煙草を消して後を追うと、寝室に戻る所だった。
「お嬢。民主主義は独裁を許さねえぞ。いつか罰が当たるからな」
「……退屈は猛毒よ。天罰があるなら期待しているわ。精々私を楽しませてね」
この部屋は閉じたが最後、中の音が全く聞こえなくなる。だがこの家に住み始めて数年、わざわざ彼女が着替えるくらいだから何をするつもりかなんて察しがついた。少年とオタノシミな事をするに違いない。
一線を越えるかどうかは少年次第。越え次第メイドの子も本番を許されるらしいから、この屋敷に住むほぼ全ての奴が少年の暴走を期待している。ハーレムなんてものを夢に見た時代もあるから気持ちは分かるが、この環境はあまりにも少年に都合が良すぎる。
朱に交われば赤くなる。この屋敷に住むメイドは主人である王奉院詠奈に当てられて少年への好意が少々過剰気味だ。少年本来の善性がもたらす好意とも言えるが、それを押しとどめるブレーキがないのは間違いなくこの環境の異常性。
「…………お世辞にも良い女じゃねえぞ、お嬢はよ」
都合が良いのは最初から。自分もこの屋敷に住まう者、沙桐景夜が道に迷った王奉院詠奈を助けた事から縁が始まった事くらいは知っている。
道に迷うなんて事、あり得ないだろうに。
「あっ、ん……ふっん……いつもより強気……強引、なんだか……らッ。好き、好きッ、だいす……き。あいし………れろ。ちゅ~…………んっ」