恵比寿の紙より出雲の神
「はあ、はあ、はあ…………え、詠奈。大丈夫か……?」
「ええ……問題ないわ。景夜君も私が居て危なかったでしょう。何を見たのかは、知らないけど」
「はーい。じゃあ不正防止のために確認しますねー」
グラウンドの真ん中、順位旗の手前で座り込む俺と詠奈を尻目に運営の生徒が紙を回収して中を確認する。運が良いとか悪いとか以前にこんなお題は好きな人をクラスでバラされるような物でかなり問題があるとしか思えないのだが、運営側だけが確認するならそれでもいい……いや、良くはない。
「はいおっけー。不正じゃありませんね。お前等の列は一位確定!」
「…………え、詠奈」
掌を差し出すと詠奈も応じる様に手を伸ばしてハイタッチ。家での慣れからつい彼女の胸に顔を埋めて飛び込んでしまいたくなるのを抑えて、全順位の確定を待つ。
差は結果的には僅差だった。
足が速いとか遅いとかじゃない。単に人一人を連れて走るのは他の軽い物を借りた人間より圧倒的に重かったというだけだ。他の奴のお題は良く分からないが、俺の次に可哀想な奴と言えば白組で元々最下位気味だった所か。お題はともかく中々見つかっていなかったし結局二リットルのペットボトルを抱えて走る事になっていたし、あれは紛れもない不運。
三位の段ボールも不運だと思うが、機転を利かせて畳んだのが功を奏したか。『借り物楽ちん』ランキングならあと少し俺を追い抜きかけた二位のゴルフボールがぶっちぎっている。運の良さはトントンだ。俺が勝てたのは俺の直前を走っていた後輩が本当に早かったから。俺がギリギリ保った僅差は最後まで覆る事はなかったから、いよいよ冗談ではなくあそこが分水嶺だったように思う。
「疲れた……な」
「暑いし……早い所テントに戻りたいわね」
髪の毛が砂に当たらないように身体の前へ持ってきて、詠奈は俺の腕をこちょこちょと擽っている。俺達の頑張りが決定的勝利になったとは言わないが、最善は尽くせたので満足だ。
手前を走っていた後輩にお礼を言いたいが、彼にも交友関係という物があるし、多分そんなつもりではなかったのだろう。白組の友人と思わしき男子と話しているのなら、それを邪魔したくはない。
「詠奈やったな! すげえよお前!」
「やっぱ詠奈しか勝たんわ~! いやー良かった良かった!」
クラステントに戻ると俺の存在はいつものように忘れ去られて詠奈が称えられていた。男子だけかと思いきやそんな事もなく、詠奈に付き纏っているお陰でイジメを辛うじて回避出来ているような女子も乗っかっている。これ自体は前年も同じ様な事があったから気にしていないが、ただ一人そこに交わる不穏分子だけはどうにも容認出来なかった。
「詠奈…………な、何てことをしたんだ!」
鹿野崎栄太。陰謀論の申し子。そんな言い方は悪いと思うけど、でも振り回されているから仕方ないと思う。雨が降っただけであの取り乱しようじゃさぞ生き辛かったに違いない。それが天候兵器のせいで拗れに拗れてどうしようもなくなってしまった。黒服の男たちを見て更におかしな事になっていたけど……ああ、そう言えば彼らの列は三位だったっけ。
だからどうという話でもないが、黒服に意識を持っていかれていたせいで競技に集中出来なかったのかも……なんて。鹿野崎は詠奈の手を掴むとテントの外まで引っ張り出してまくし立てている。
「僕は敢えて参加して遂に掴んだんだ。これら競技の全てが政府の実験なんだよ! 御覧、黒服が居るだろう、何故周囲に溶け込む努力もしていないのか!? 全て繋がるんだよ、ここに雨が降らない理由と! これはきっと世界に中継されているんだ、見世物だよ。この学校の中に実験体が居てその性能テスト中なんだ! 詠奈、一位なんて取っちゃいけない。恥をかかされたと思った政府はきっと君を消しにかかるぞ!」
「…………」
「いや、お前誰だよ。詠奈疲れてんだからそっち持ってくなって」
「うっさい黙れえ! 僕はこの子だけでも助けなきゃいけないんだ! 僕にしか出来ない事だ!」
「うおっ」
先輩後輩の力関係を彼は知らない。きっとその特異な価値観が人間関係の構築を許さなかった。宗山が緩いばかりに敬う事を知らなかった。そも『政府』という社会的に上位の存在に楯突くという発想の時点で、彼には年齢差の圧力など通用しない。
それは、別にどうでもいい事だけど。
「やめろよ」
詠奈と彼との間に割って入って、肩を軽く突き飛ばす。彼の価値観から詠奈を知る方針は諦めよう。
「詠奈を走らせたのは俺だし、疲れてるんだ。これ以上変な事に付き合わせるなよ。可哀想だろ」
「…………景夜君」
「お前の話は滅茶苦茶で整合性がない。自分だけが世界の真実に気づいてるってスタンスはいいんだけど、それと常識はまた別の問題だ。話したいならタイミングがあるだろ。だからお前は理解されないんだよ」
「―――そうか。そうなのか。詠奈は苗床なんだな。いや納得出来る。実験体と言っても人間だ。人間を改良するには遺伝子が混ざり合うしかない。きっと詠奈は優秀な遺伝子を持っていて……」
「…………もう、その話はいいんだけどさ。一つだけ言わせてくれよ」
俺は暴力が得意じゃない。受ける側にばかり回っていたから慣れていないのだ。だから彼が感じる恐怖なんてきっと想像以上に存在しないし、圧力も何もあったもんじゃないとは思う。それでもこれは、言っておきたい。
「詠奈に何かしたら、怒るぞ」
「…………クソ、流通した食材に混入させたウイルスタンパク質はここまで人を変えるのか! 策を変えないと……僕一人じゃ無理か!」
またぶつぶつと何か自分本位な世界観を構築して鹿野崎は退散した。一位を取るなって、体育祭は勝ちに行かないと冷める催しなのに無茶苦茶だ。もう参加するなと言ってくれた方が素直でいいのに。
振り返ると、詠奈は騒動に関わろうとしなかったクラスメイトに連れられてテントに戻っている。俺だけが外に行って関わったみたいで複雑な気持ちだ。秘密結社の方に注意を向かわせる作戦は失敗したのか……いや、多分俺が借り物競争で詠奈を連れて行ったのが原因だろう。
現に出番が来るまで鹿野崎は競技の事など頭から抜けていたみたいだし。だからって嘘は吐きたくない。俺にとって最愛の人は『王奉院詠奈』だ。だからもうあれを拾ってしまった運勢が悪いという事にした方が良い。
気を取り直して、次の競技を見よう。
「踏ん張れええええええええええええ!」
「嫌無理無理無理無理いいいいいい…………」
競技として一つで勝っても他の所で負けたら油断は出来ない。綱引きで圧倒的な敗北を喫してからの玉入れは気合いからして違った。詠奈がその気になれば幾らでも相手を妨害して無双する事も可能なのだろうけど、そんなつまらない事はしない。詠奈は飽くまで一個人として権力を使わず体育祭を楽しんでいる。
俺は彼女のそんな所も可愛いと思う。
「頑張れー!」
「きゃー景夜さーん!」
詠奈組の応援も頑張れた要因の一つだ。決して俺達には知り合いとして干渉して来ないけど確かにその声は聞こえてくる。玉入れは人混みで声が混ざるからまだしも障害物競走には特に影響があった。
障害物を抜ける時の緊張、どうしたって速度が遅くなってしまう時の焦り。それを絆すような声援は励みになる。障害物競争に関しては陸上部も練習する機会が自分から作らない限りないので、事前にみっちり練習していた俺に軍配が上がった。それでも普通に走る部分でとても追い詰められていたが、どうにかこうにか、全力。
「今年の景夜まじつえー!」
「ないっすー!」
「…………ありがとう」
ぶっきらぼうにしか返せなくて申し訳ない。疲れていた。暑くて脳みそが沸騰しそうだ。水分補給は欠かしていないがそれでも暑いものは暑い。裸になっても同じことを言う自信がある。
一方で詠奈はギリギリ二位や三位を取る事が多く、女子の部では苦労させられていた。運動嫌いで引き籠りというのは間違いだけれど、決して徹底的な運動をしてきた訳じゃない。体型を維持出来る運動は出来てもこういう所で活躍する運動は……どうしても一歩遅れてしまう。
かといって手を抜いて走っている訳でもないのは疲労から見ても明らかな為、誰が彼女を責められるだろう。男子は胸が激しく揺れる様子を見られて満足だし、女子も女子で彼女の頑張りを腐す事は出来ない。男子の反感を買うだけならまだしも、全力で頑張る人間に対して白けている奴が嗤うのはかえって惨めだと知っているからだ。
「はあ、はあ、はあ…………はあ! はあ、はあ、はあ…………」
「凄い汗だぞ詠奈。大丈夫か?」
「ええ………………………だ、大丈夫」
汗を拭けるくらいの体力は残っている様だが、もしもこれ以上競技に出る様な事があれば最下位は免れないだろう。疲労困憊、満身創痍。殆どそんな感じと言って差し支えない。
『ただいまより昼休憩とさせていただきまーす! 生徒の皆さまは各自の教室にーもしくは保護者の方の下へとお戻りくださーい!』
「休憩だ、行くぞ詠奈」
「ま、待って…………少しだけ、休ませて…………」
詠奈を気にする男子は居ても、いつもの素っ気なさから昼食に誘えない事は分かり切っている。次々とクラスメイトがテントから散る中で詠奈はじっと座り込んでいた。俺も動けない。
「詠奈様。お疲れのようですね」
「……八束さん! 丁度良かった。手伝って下さい。詠奈はもう動けないです」
「言われずともそのつもりでした。私が一人で運ぶので景夜く……さんは時間を置いてからあそこのテントにおいでください。詠奈様と同じ場所に入ったと思われては不都合でしょう」
「あ、はい」
八束さんに担ぎ上げられて詠奈は荷物のようにだらんとしたまま運ばれて行ってしまった。鹿野崎が干渉して来ないという事は宗山が食い止めてくれたのだろうか。黒服の男たちは風景に徹しているようで詠奈への心配を隠しきれていない。多くが視線を向けているし、向けていない黒服は事情を知らない幼い子供に絡まれてその相手をしているようだった。
見る限りの不審者に絡まれて親は気が気でない様子だが、子供は平然と楽しんでいるようなので秘密結社と言っても根は悪い人ではないのか。
―――そろそろ行くか。
ぐるっと外周を回って八束さんが入っていったテントに入ると、詠奈が遺体のように安置されて仰向けになっていた。
「ええ! 大丈夫か!?」
「少々張り切りすぎてしまったようですね」
「詠奈様ってば~沙桐君に良い所見せようとして頑張ったんですね! きゃー!」
「彩夏、煩い」
「あ、すみませーん! 沙桐君、申し訳ないのですが詠奈様たっての申し出なので身体中の汗を拭いてもらえませんか?」
「え?」
詠奈はゆっくりと上体を起こすと、体操服の首を掴んでI字の谷間を見せつけるようにぱたぱたと服を仰いだ。
「今から…………下着を脱ぐから、お願い。景夜君。胸が大きいとどうしても……ね」
「…………あ、ああ。そういう事なら…………分かったよ。彩夏さん、タオル」
「はいはーい!」
詠奈の背後に回ってタオルを掴む。下心なんてない。身体のケアをするだけだ。
念入りに。もにゅっと掴んで作業をしているだけ。これは労り。これは労り。