千金の裘は一狐の腋に非ず
「お疲れ様、景夜。伝え忘れていたけれど着替えなくて正解よ」
車の横に立つと、体操服姿の詠奈が優しく俺を迎え入れて抱きしめてくれた。そんなへとへとになる程働いた記憶もないけど、好きな女の子に抱きしめられて嬉しくない男子は居ないのでこのまま甘んじて受け入れる。
「沢山働いて疲れたでしょう? 少し席を倒して休む? それとも水分補給かしら。男性としての疼きが止まらないならそれでもいいわよ。私も半端な所で終わらせたから……お腹の下の辺りが寂しくて」
「むぐ………ふぐぅ」
「顔を埋めながら腰なんて動かして。息が苦しいのかしら、それとも私の身体がそんなに欲しい? ふふふ……」
他人様が喋れないのを良い事に好き放題、詠奈の妄想だ。身体は全く正直だけど、喋れない理由は単に口が塞がっているだけである。
「ひ、人が苦しんでる時に勝手に憶測立てないでくれ! 水分補給はさっきしたから大丈夫。でも今苦しくなったからやっぱ必要かも」
「そう。じゃあこれ」
多分そこの自販機で買ったミネラルウォーターだ。水の味の違いなんて正直分からないけれど、ボトルが一般的だからそうだと思う。わざわざこんな場所で移し替える意味がない。
渇いていた口に潤いが戻り、喉のカサつきが失せていく。後部座席を少し倒してなんとなく休んでみる。右手は詠奈と恋人繋ぎのまま、彼女は俺の行動を見るや同じように席を倒して寄り添うように横向きになった。
「いよいよ明日が本番ね。楽しみにしてるわ」
「……遠足は行く前が楽しい、じゃないけどさ。やっぱり緊張しちゃうな。特に今回は前年と違う所ばっかりで……勿論頑張るけどさ。精一杯。でも俺が格好いいかどうかは分からないと思う」
「そう言うと思った。幾ら私の身体を使っても心の底からつくような自信なんて難しいでしょう。そう言うと思ったから、もっと直接的な手助けが必要かと思って用意してあるわ。着替えなくて良かったのはその事に関連しているの」
「……?」
「車を発進させて。帰りましょう、私たちの愛の巣へ」
その言葉を合図に車は発進する。そこまではいつも通りだが、直ぐに止まったのは予定外の行動だった。
「…………信号はまだ来ない筈よ」
「え、詠奈様。何か忘れ物などはございませんか?」
久しく声を聞かなかった運転手が怯えた様子で彼女に話しかける。普段は『景夜との時間を邪魔しないで』との指示を受けているから喋ろうとしない。それが仇になったのだろう。
「どうしてそう思うのかしら。部外者の貴方が気づけるような忘れ物はないと思うけど」
「う、後ろからご学友がついてきているので……」
俺と詠奈で顔を見合わせる。扉を開けて確認しようとしたが引き止められた。代わりに彼女が用意したのは座席の足元に納められたタブレットだ。どうもドローンを操作出来るようになっているらしく、搭載されたカメラからの映像がこちらに流れている。
「…………ドローンってすっかり見慣れたけど。そう言えば他人の敷地に入るのって違反みたいな話なかったっけ」
「君の危険に比べれば些細な事よ―――ふーん。車に乗る位置も君を拾った所もずらしたのによく気づいたわね」
「誰が居たんだ?」
カメラを覗き込んで確認すると、不審な動きに反して見覚えのある制服姿。首には怪しげなネックレスを幾つも重ねた鹿野崎栄太がそこに立っていた。ドローンの存在には気づいていないようだ。アングルと距離の問題か、それとも車に集中しているのか。
彼が車の存在に気づけるとすれば俺が乗った時と言いたいが、俺に執着する理由はない。となるとどうにかして詠奈の後をつけてきたと考える方が自然になる。
「…………ストーカーって奴だな。でも家の門を超えられる訳じゃないからいいか」
「…………取り敢えず振り切って。出来るだけ信号のない場所を通れば追ってこられないから」
「か、かしこまりました!」
詠奈はタブレットを座席の下に収めると、俺の腕を絡めるように取って身体を密着させる。
「あんなのは適当に対処しておくから忘れましょうか。大切なのは未来、私達のこれからよ。準備は良いかしら?」
「さ、さっぱり要領が掴めないんだけど?」
「おひさ! 景君待ってたよ!」
家に帰ると噴水前で友里ヱさんが体操服を着て待っていた。潜入の為に学校に関連する服装はあらかた支給されていると思うからそこまでおかしな事ではないが、問題は下のパンツだ。お初にお目に掛かるというか、時代的に見た事がないのは当然というか。
「やだー景君えっちすぎー! 私の太腿なんか見ちゃって~!」
「い、いや。え? え? ええ? え、詠奈。あれって」
「ブルマだけど。ここは私の家の敷地なのだから所有物に何を履かせても私の自由。学校の規則も法律も知らないわ」
「そ、そういう意味じゃなくて―――」
「はーい入り口はこちらでーす!」
友里ヱさんに引っ張られて屋敷の裏手にある庭へと連れ込まれる。一歩下がった所から詠奈がついてくるが彼女は満足そうに口元を綻ばせるばかりで説明をする気はないらしい。
庭には、大量のテントが設営されていた。
それもまだ設営途中なのかというくらい物が多い。そういう意味で豪華さは学校の比ではなく、違いがあるとすれば足元が芝で走りにくいかもしれないというくらいか。とはいえ体育祭前はここでずっと汗を流しているしそこまで深刻な問題ではない。
「景夜さん。おかえりなさい」
「獅遠。お前もなのか」
「ま、まあ……詠奈様の指示だし。なんか少し恥ずかしいね、これ。下着姿見られてるみたいで……あ、あんまり見ないでよ!」
そう言われても、惜しげもなく晒される美脚から目を逸らすなという方が難しい。ブルマの物珍しさもあるのだが、多くはここに住まう女性の美貌に因るものだと頭で分かっている。遠くでは彩夏さんも例外なくブルマを履いて作業しており、俺の存在に気づくと拡声器を通して「おかえりなさーい!」と出迎えをしてくれた。
ここから見える限りランドリーで働くこの一部も、厨房で下働きをする子もいる。顔と名前が一致しているからハッキリ分かる。春が俺を見るなり近づいてきて、クラッカーを打ち鳴らした。
「景夜様、お帰りなさいませ! 私のブルマ姿どうですか~?」
「か、可愛いと思うけど……ご、ごめん。率直に聞く。これは一体どういう状況なの?」
「体育祭の前夜祭でも、予行演習でも何でもいいけど」
後ろからやって来た詠奈が隣に並んでそう言い放つ。当たり前だが彼女達が勝手にやる道理はない。全て詠奈の指示によるものだ。
「直接的な自信をつけるならこれが一番。地面の状態だけはどうしようも……ない事はないけど直すのが手間だから。今回、皆には景夜の味方と敵をそれぞれ務めてもらうわ。体育祭の種目別に戦ってみましょう。これで勝てたなら本番もきっと大丈夫」
「…………こ、ここまでしてくれるのか」
「ここまでなんて大袈裟ね。私はほんの少し背中を押してあげるだけよ。君は世界一の男の子だって知ってるから。さ、実況と進行は流れに任せてあるから早速席に座りましょうか。先に言っておくけど手加減なんて―――」
気づけば、詠奈の身体を抱きしめて、唇を奪っていた。
「――――――っ」
「有難う、詠奈。俺の為にここまでしてくれて。大丈夫、手加減なんてしないよ。全力で臨む。お前にかっこいい姿見せる為に頑張るよ!」
「…………心から応援しているわ。それじゃあ私達の暫定クラスへ行きましょう。きっとみんな歓迎してくれるから」