子女万金に抵る
翌朝の朝食は和食で、彩夏さんが拘り抜いた湯豆腐で胃を温めるところから始まった。ベーカリーに比べると一食分がしっかり整えられているから食べ終えるのに時間がかかる。その代わり補給するエネルギーは別格で、彩夏さんが細かなオプションにも対応している所が実に素晴らしい。米の種類なんて俺は気にした事もないけど、それも選べるし、本膳で満たされなかった人にはだし巻き卵をわざわざ目の前まで機械を持ってきて焼いてくれるようだ。本当にもうそういう業務かもしれないけど彩夏さんのサービス精神には頭が上がらない。いつも笑顔で元気一杯で……もう本当に可愛い。クラスにもこんな感じの人が一人くらい居たら空気も明るくなるのにな、といつも思っている。
「はいはーい♪ それじゃお茶を掛けますねー!」
「有難うございます」
炊き立てのご飯の暖かな香りに混ざる茄子の焼き浸しの匂いや牛肉のしぐれ煮の触感、鯛にかかったゴマ醤油の臭いが食欲をそそった。俺の望んだオプションは本膳をあらかた食べ終えた後に、鯛茶漬けにしてもらう物だった。詠奈は既に終えているから部屋に戻っていてもいいのだが、俺の食事を最後まで見届けている。
――――――
彩夏さんか朝食の事を考えるようにしていたのは、ある意味で自己防衛だ。詠奈の方を見るとどうしても、口が気になってしまう。その視線はどうやっても直ぐに気づかれるので考えない様にしていた。
「どうかしたの?」
「い、いや……何でもない」
「景夜」
「いや、いや! 本当に何でもない……た、ただ昨日のマッサージが忘れられなくて……き、気持ち良すぎた、から」
第一線を行く整体師の整体は天にも昇る心地なのだと聞いた事がある。俺はそこへ通うような仕事もしていないし年齢的にも行く機会に恵まれないが、きっと心地よさで言えばあれに近いのだろう。身体をほぐすという言葉があるならとろけるという言葉も許される筈だ。お肉も柔らかいの上位互換にはとろける油という表現があるではないか。口の温度に触れた途端に油がとろけて肉の味が広がる。詠奈のマッサージはそれに近い。
身体がとろけてしまうようだった。彩夏さんの指使いも忘れられないけど、あれはまた違う。だからずっと、目が行ってしまう。
「ふふ。満足してくれた様で嬉しいわ。でも、その目線は外では控えるのよ。私やここに居る子は喜んで受け止めてあげられるけど、他はそうもいかないから」
「し、しないです全然。特に詠奈が美人過ぎるから、目移りしません!」
「そうかしこまらなくても良いのよ。昨日はお互いのぼせそうになったわね。呼吸が荒かったのは私の身体に釘付けで、今にも触りたそうにしていたから? それとも大浴場の湯気に当てられた?」
「ど、どっちも…………」
恥ずかしいのでこの会話は早く終わらせたいが、詠奈は俺の答えに機嫌が良さそうだ。彩夏さんはワゴンの下から親指を立てて「ナイス!」と感謝を伝えてくれた。
「ご、ごほん。御馳走様でしたっ」
「今日も素晴らしい食事だったわ彩夏。コックにも礼を」
「お粗末様です~。詠奈様からそんな事を言われるのは珍しいのでちゃーんと伝えておきますねっ。それじゃあお皿の方を片付けさせてもらいます!」
「詠奈様。景夜様。お車の準備が出来ました!」
春が二人の鞄を持って朝食室にやってくる。運転手は別に彼女という訳ではない。ただ伝えに来ただけだ。
「そう。なら行きましょうか。今日は彼女がどんな反応を見せるか楽しみね」
「俺は払わなくていいって話だけど…………断り切れる気がしないな。雅鳴も嫌がってたし、俺も詠奈が居るとはいえ女子の間で変な噂が立つのはちょっと嫌かも」
詠奈が恋人のように手を繋ぎ直してから振り返る。
「そんな事にはならないわ。景夜君はお友達だから守ってあげる。安心して断ってね」
「…………支倉みたいに買った訳じゃないからあんまり過激な方法はやめて欲しいけど。大丈夫かな?」
「出来るだけ穏便に済ませるわ」
車に乗り込む所で、車の傍に控えていた神子(獅遠の同僚)と友里ヱさんが深々と頭を下げて俺達を見送ってくれる―――厳密には俺にだけ、「景君行ってらー」だったけど。
車が発進したのは分かるが窓はカーテンに遮られている。ここから到着するまでは詠奈と話しているしかない。
「そう言えば、倒産? 破産? どっちか知らないけど、完了したのか?」
「ええ、ついでに関係者をあの男を除いて逮捕させたわ。きちんと犯罪行為をしていたから警察もやる気を出したの。今回の件とは全く関係ないけど、詐欺の流れであの会社を通していたみたいでね」
「……って事は周辺全部逮捕されて身ぐるみはがされたような状態の奴が一億抱えて? そうとは知らない佐山が貢ぎ続けるかどうか……みたいな状態って事か? なんだそりゃ訳分からん。本当にどうなるんだ」
「真実の愛とやらを見せて欲しいわね。日記には社長のお嫁さんになって玉の輿がどうとか言っていたけれど……矛盾に気づかなかったのかしら。学生なんかに金を無心する社長と結ばれた所でそうはならないって」
「こ、恋は盲目って言うだろ。それに友達かなんかの支援って名目じゃなかったか? 話の感じだと」
「だとしても自分でお金を持っているならポケットマネーを出すでしょう。私ならそんなお店があるなら一億でも二億でも十億でも支援するけど」
「それはお前が凄いだけ…………」
…………ふと、気になった。
王奉院詠奈の権力はどうしてここまで大きいのか。気にするのは今更な事だし特に知りたいとも思ってなかったけど、支倉の一件から少し考えが変わった。
「なあ詠奈。黙ってコソコソやるのも気が引けるから言うんだけど、お前の事って調べてもいいかな?」
「…………いいわよ。何か分かったら教えてね。君がどれくらい私の事を知る事が出来たのかを確認したいから」
「…………ごめんな。お前の事何にも知らなくて」
「遅すぎるなんて事はないわ。少しずつ知っていけばいいの」
それから暫くの沈黙。車の到着。坂道の下でこの車は止まり、俺は『景夜君』に。そして彼女は遅れて登校して関係性を偽る。
「……行ってきます。直ぐ会えるけど、今は『好きな人』として」
「行ってらっしゃ―――ッ? ぢゅぶ。ぢゅぶるる。れろ。ちゅ…………」
今度は俺の方から、彼女の舌を吸い込まんとするような、強引なキスを交わす。
「…………愛してるよ、詠奈」
「……君の行動はたまに、読めないのね」
開いた扉から身を乗り出して、俺の学生生活は始まった。
「ちょお! お前マジで何したん!?」
「きかせてもらおーじゃねえーのー!?」
「え? え? ええ?」
教室が異様な雰囲気に包まれているとは思ったが、存在に気づかれるなり男女問わず囲まれるとは思ってもみなかった。いつも軽率な信用から俺を見下しているせいか、動揺が露骨だ。
「ごめん、何の話だ? 雅鳴もなんだよ。俺はたった今登校してきたばっかりで事情なんて知らないんだけど」
「いや、お前が知らないのは困るんだよ。俺等別にお前が絶対に何かしたとは言わねえんだけどさ。だからってお前まで知らないとか言い出したら軽くホラーなんだよ。分かるか?」
「何で?」
「またお金をせびられたんだよ! しかも百万! 高すぎるだろ! 俺が払える訳ない!」
「俺も言われた! とにかく貸せって! 貸す貸さないの前にまず払えねえんだよな……」
「うちもマジうざいからSNSブロックしたもん。景夜何した訳?」
…………。
成程、幾らふっかけられたかは分からないが、金銭感覚が狂った可能性が高い。俺こと沙桐景夜はお金持ちには見えない風貌だし、そこから一億が出て来たなら他の奴ももっと払えるだろうという思考に……なるのか?
「で、その佐山は何処に?」
「俺らが何で取り囲んでるか知ってるか? 払えないならお前を連れて来いって言われたからだよ。ほら来い!」
「いや、逃げないって! 逃げないからいたたた! ちょ、腕が千切れる! 場所教えてくれたら勝手に行くのに! お前等手足かよ!」
逃げると言っても逃げ場所がないのに俺の声は聞き入れられなかった。連れてこられたのは体育倉庫。運動部系列の朝練も終わった今、使う人間は居ない。中には佐山が目をギラつかせながら俺を待っており、二人きりにさせられた瞬間。
「わ、私の身体好きにしていいから! 百万円頂戴!」
土下座されるとは、思ってもみなかった。
「いや、好きでもない人の身体触るのは申し訳ないし。いらないよ」
「じゃあ百万円だけくれる!?」
「あげないけど」
「…………」
少し頭で考えれば無茶苦茶な理屈だって分かる筈だが、なりふり構ってはいられない様子。事情を尋ねても答えてはくれないのだろう。須合の名前を出せば話は変わるだろうけど、それはそれで俺が何故それを知っているかという話にもなる。
「ああごめん。使い道を教えてくれよ。それ次第だ」
「それは…………家族が病気で!」
「一億あれば手術くらい出来ると思うな。それで足りないなら今更百万上乗せしても出来なさそうだし」
「ご、ごめんなさい。実は買いたい宝石があって……」
「この町の宝石店に一億もするような品物はないぞ」
佐山が見え透いた嘘を吐くのは、単に真実が下らない理由だからというだけではない。一億を使い切る方法が純粋に思いつかないのだ。それも俺を納得させるだけの理由を即興で。当たり前だが普通の人は買い物で億の金を使わない。車だって億を下回る物は幾らでもある。一億つかいきってなお足りず、後百万という状況はどうやっても嘘では作り出せない。
「う、あ、あ、あ…………」
「とにかくこれ以上お金は無いよ。それじゃあ俺はこれで」
「ま、待って! 待ちなさい! ここから出たら叫び声上げてやる! アンタに襲われたって言うから!」
「え―――」
選択の余地はお互いにないと言わんばかりに佐山は制服を乱暴に脱いでいく。好きでもない人の裸を見るのは申し訳ないのでやっぱり立ち去ろうとすると、下着姿になったあたりで彼女が叫んだ。
これで俺が声を抑えに掛かれば襲った現場の完成という算段なのだろうけど。
「声が聞こえたから来てみれば。これは一体どういう状況なのかしら」
佐山の味方をする筈の第一目撃者の席は、詠奈が掠め取ってしまった。