欠けたのは愛 懸けるのは命
人の出払った屋敷は静かなもので、右を見ても左を見ても人が居ない。まだ何もしていなくとも、自分がここの支配者であるかのようだ。それは滑稽である。窓を封じ扉を封じ、外の世界と隔絶された世界の支配者になっても間抜けなだけだ。
―――。
耳を澄ませば、かつての残響。言いなりの男達と、私と私と私と私と…………今は全てが幻。平和な世界の裏に隠された、残酷で無意味だった王権争いの真実。
「景夜君、無事だといいけれど」
時限爆弾は起動した。山を火が囲えばどちらが勝ってもタダでは済まない。最低でも引き分け以上にはなる。名案なようで、王者の作戦とは言えない。戦う前から負ける事を視野に入れてフォローを利かせるのは凡人の発想……戦略としては正しくても、こんな手を使うなら『自分は弱気になっています』と宣言しているに等しい。幾らこれまでも勝てていなかったからって、彼との温度差には乖離を感じずにはいられない。
「冬古の方はまだ交戦中? 神楽を援護に行かせて。春の方向に援護は要らないわ。経験で劣っても地の利は私達にある。落ち着いて春と連携しなさい」
食堂は、家族団欒とは程遠い拷問のようだった。如何な高価な食材、上質な調理法でも高ストレス下においては触感があるだけの栄養食と変わらない。切ったり焼いてあったり盛りつけてあるだけの食事。例えばそこに大勢の人間が居ても味の感想はなく、会話はなく、経験もない。何を食べても一緒だ。何を飲んでも変わらない。
求められるものは王の所作。与えられるものは寵愛。あらゆる一切、ものの全てが人生にかみ合わない。
お金に代えられないものはある。
だが命はお金で買える。
欲しいモノはお金で手に入る。邪魔な存在は全て排除出来る。それ以上に何を望む。
「火の処置は気にしないで。今はその火が私達を守る壁であり、敵を追い込む網よ。庭の方のトラップが突破されている? そう。春が動けるみたいだけど八束が近いみたい。聞いていたわね、行って。無理はしない事。春は西側の応援に回って。友里ヱはそのまま前進。春の目印を頼りにして、罠を踏まないようにね」
私たちが望んだのは、それじゃない。足りなかったのは権力では得られないもの。
お金に代えられないものはある。
だが命はお金で買える。
しかしお金で私達は満たされない。
扉を開けて、口笛を吹いた。
モニターに向き合っていた顔が上がり、私の顔を目視する。さぞや暗くて見え辛かろう。壁のボタンを押して電気を点ける。
「ごきげんよう、おチビさん。経験もないのに有事の指揮を頑張っているようね。姉として、褒めてあげてもよろしくてよ?」
「…………どうやって入ったの?」
「入り口は確かに封鎖されている、と言いたいのね。しかも破られてはいない。唯一の抜け道は貴方の腹心が待ち伏せをしている……頑張って籠城したつもりでも、抜け道はあるのよ。例えば全容を把握していない地下とかね」
近くの椅子を手に取って、詠奈の前に設置する。鍵もかけない。奇襲にも対応しない。何故ならそれらは起こらないから。
詠奈はヘッドフォンを外すと、折り畳みの机を横から引っ張り出してきて私と自分の間に展開した。
「景夜と戦うんじゃなかった? 気が変わって、出し抜いたのかしら」
「最期に、少しくらいお話ししたいと思ってね。ここに戻ってきてから貴方は私に怯えてばかりで、碌に会話をしなかったでしょう。でも今は、好きな彼の為に腹を括った。それに気づいたから私もわざわざ手駒を捨てる形でここに来たの。こういう使い方は消耗品として捉えているみたいで気持ち良くないけど、殲滅屋の足止めが出来れば十分よ。彼らには感謝しないとね」
「……あんなに沢山の人を何処から持ってきたの?」
「貴方にその名前を譲って以降は行くあてもなく各地を転々としていたわ。しがらみから解放され、権力を失った。そんな私に生きる方法はあるかどうかを知りたくてね。結論を言えば、私は体一つでも成り上がれた。運命が私を繫栄に導く。成功するビジョンさえあれば何でも出来た。政治家の秘書、マフィアの幹部、ホームレスを束ねるリーダー、はたまた特殊部隊の指揮官。私の能力は証明されたの。その名前がなくても、私は祝福されている」
「―――じゃあどうして私にあんな弱音を吐いたの? 自慢したいくらい有能なら、私なんて」
「未知とは私にとって希望なの。その名前を持っている限り見えなかった世界が広がって、世界中を旅している時は本当に楽しかった……かもね。でもこの国は? あの悍ましい男が支配したこの国で、決められた名前と地位を継いで何が未知なの? 資料を読み込めばすぐに分かった。この国の未来は明るくない。そしてそれは、私にはどうしようもないって」
「何故?」
「王奉院という独裁者を裏に隠しながらこの国は民主主義をうたっている。あらゆるしがらみにより左の思想も右の思想も関係なく、はたまた単なる売国奴であっても王奉院には逆らえない。でもね、おチビさんが怠惰になっていたように表向きでもなんでも国を動かしているのは民主主義なのよ。私達は絶対の権力でありながら表で舵を取る事を許されていない。サイコロを自分の手で振れるならチャンスは幾らでもある。それが……無知蒙昧な者の手に委ねられていたら?」
ポケットからサイコロを取り出して、机の上で転がしてみる。最初に六が出て、次に「五」と宣言すれば五が出る。「二」と宣言すれば二が出て、また「六」と宣言すれば六が出る。
「既知は恐ろしい。わざわざ敗北の未来に突き進む事のなんて無様か。私は逃げたかった。しがらみが私を破滅させると考えていたから。貴方に名前を譲ったのは、そんな私の悪あがきから生まれた変数だったから。端から破滅する未来で舵を取るつもりはない。そこまで意気込むならって、押し付けたの」
おチビさんは困ったように眉をひそめて、首を傾げた。
「……知らなかった。貴方がそんな臆病だったなんて」
「手厳しいわね。言葉を選んでくださる? 勝利者として無様は晒したくないの。貴方は―――どうして私が戻ってきたか分かる?」
「私が約束を破ったからでしょ。あれは……生き残る為の嘘だったから」
「ああ、まあ。そういう理由もあるけど。それだけならやっぱり戻る理由なんてないわよね。おチビさんは何もしていない。この国の未来も変わらない。いずれにしてもこれが最期のつもりだから、話してあげる。貴方に辛い思いをさせたくなくて、戻ってきたの」
サイコロを何個用意しようと、望んだ数字が勝手に出る。確率は収束しない。運命は私の思い通りに動いていく。私が主体である限り、この世界は思うがまま。
「貴方には出来ない。王様は破滅の影響を一番受けるのよ。有事の際、舵を取るのは貴方で、愚かな人々は貴方に判断を仰ぐ。全ての責任は貴方にある。私達は表向き存在しないから、うまくやっても手柄は向こうに行く。失敗すれば……誰もフォローを入れてくれない。世界を巡って、私はこの結末を確信した。唯一、最初から詰んでいる未来を押し付けるなんて……薄情な事をしたとね」
「なのに私を殺すんだ?」
「王様が二人も居たら派閥が生まれてしまうわよ。別に殺さなくてもいいけれど……貴方のカレシが駄目だって言うから。そうそう、ここまで本心を明かしたのだし、一つ聞かせて下さるかしら」
「…………」
「貴方、死人を蘇らせたわね」
「山中で殺した警官をダシにマスメディアを動かして攪乱するつもりだったの。翌朝に仕掛けたから隠し切る事は出来ない。警察署に行ってみればすぐに分かった。死んでいなかった事を」
「弾の当たり所が良かったんだよ。みんな奇跡的に生きてただけ」
「私がここに連れてきた手駒は、軍に所属していた経験のある強者ばかりよ。頭部への銃撃が一人残らず失敗していたとは考えられない。そうここにきてからずっと―――それが分からない。好きな範囲に雨を出し、逆に雨を消し、放射性廃棄物を抹消し、挙句死者蘇生を図る。常識では考えられない事ばかり見せてもらったわ。私がチートなら貴方はバグ。一体全体その機械とは何なの? それを使えば、この国を変えられたのではなくて?」
「…………無理なんだよ。それは。出来ない。所有者は私じゃないから」
彼女の目には、不安が浮かんでいる。私と話していると恐怖心を仰がれてしまうようだ。昔から泣き虫は変わらない。ずっとびくびくおどおど、小動物みたいに震わせて。
「私達が価値を算定する習慣を身につけたなら、あれを買うには高すぎる。お金で買えないんだよ。単純に足りない。世界中の貨幣を集めても全然駄目だ。実を言えば、貴方のその運命力は所詮下準備のあるイカサマだろうと考えていたの。でもあれを見てから……そうは思わなくなった。あの理外に比べたら、貴方の運命力なんて実際にありうる程度の幸運だと思った。私は使わせてもらってるだけなんだ。お金でね……その権能を見れば分かると思うけど。『機械』は王奉院の権力では揺るぎもしない絶対的な暴力。もしかしたら貴方はそれを欲しいと思っているのかもしれないけど。時間の無駄よ」
「ますます気にならせてくれるじゃない。つまり……ああ、そう。合点がいった。もう使えないから、私との短期決着を望んだのね。こうして話すまでは分からなかった。それじゃあ今からでも撤退戦をすれば、今度こそ貴方に勝ち目は―――」
「待ちなさい、侵入者」
「絶対に逃がしませんよ」
扉を蹴破って入ってきた二人の女性。よく似ている。二人は共に銃を構えているが、悲しいかな一人は妊娠中。戦力としては控えに回らざるを得なくて。もう一人は銃弾一つさえ私に当てられなかった。
「―――ほんの冗談。私は景夜君と勝負をしに来たの。彼はまだ? それとも外で戦ってて死んでしまわれたのかしら」
「景夜様はまだ死んでおりません。侵入された事は屈辱的ですが、暫くはここに留まっていただきます」
「それともその運命力とやらで私達を突破してみますか? こんな体でも、人ひとりの足止めくらいは可能ですよ」
「優秀な侍女ね。私が名前を取り返したら代わりに仕えて下さる?」
「まさか」
「御冗談を」
「「貴方は景夜様の敵です」」
王奉院詠奈は代わっても、その番は入れ替わらない。沙桐景夜は一般人であり、名前を固定されるような習慣もない。その家庭がどんなに悲惨であっても、名前は彼の為につけられたものであり、その体のものであり、その魂のものである。私達とは大きく違う。致命的に。決定的に。
「………………はあ」
ため息が出る。心からの本音を、今なら言える。
「ねえ。誰か私を殺してくださらない? 退屈なの」
不可能が可能になるその瞬間を、見せてほしい。
運命の出会いのようにロマンチックで。
あの日見た青空のように果てしなく。
「はぁ、はぁ、はぁ―――――」
二人の侍女の間を通って、息を切らせた男が顔を上げた。
「首を長くして待っていたわ。ずいぶん待っていたのだし、何か一言言って下さらない?」
初恋のように、純粋な言の葉を。
「―――――死なない貴方を殺してみせる。約束を、果たしに来ました」