恨みは深く温かい
「十郎! 何処に居る!」
敵の姿があった方向とは逆から入り直した。地下通路を経由して屋敷から向かえばいいものを、控えめに言って頭に血が上っていたのだ。一刻も早く森の中に入るには外から入った方が早いし、それくらいしか考えていなかった。
「恨みを晴らしたいなら今じゃない! やめろ!」
声を上げれば見つかると思っていた。見つけてくれると考えていた。せめて何処に居るか聞けばいいものを、控えめに言って頭に血が上っていたのだ。何処に居るかの見当もついていないのに自分が向かった方向に居ると確信している。それは勘と呼ばれるような個人的に信頼出来る指標ですらない。何も考えていなかった。
「俺に黙って詠奈を殺そうとするなんて不義理だと思わないのか!? 詠奈は俺の恋人だぞ! お前…………お前なあ! 黙って家族殺されて怒ってる奴が同じことしてもいいなんて思ってんのか!? このままだと俺は、お前に黙って恋人殺される事になるんだぞ―――うわ!」
前方の土を踏んだ瞬間、土に隠れていた縄が持ち上がって俺を掬い上げた。一瞬何が起こったか分からなかったが、そういえば春がトラップを設置していたのだった。やはり何も考えていない。その場の衝動に流され愚かな行動をしてしまったと自覚する。
「十郎! お前、自分が酷い目に遭ったからって他人にしていいと思ってんのか! 何の関係もない俺にお前と同じ気持ちを味わわせるのか! 中途半端に誰も殺さないで、それが善い事してるつもりかよ! ふざけんな馬鹿野郎!」
だがやめない。俺は声を出し続ける。一夜の戦争なんて知らない。十郎は俺が対処しなければならない筈だ。詠奈が何を言ってもそれはきっと逆効果になる。なら諸々の因縁とは一切関係のない俺がでしゃばるまでだ。好きな人が殺されるのを黙ってみてる奴が居るか。
「お前は悪だ! 人でなしだ! 少しでも自分が悪い事をしたと思わないように自己満足の気遣いをしてる悪党だ! 詠奈に恨みって言うけど、アイツだって被害者だぞ! アイツがお前の家族を奪ったのか!? アイツがさんざんこき使った後に処分したのか!? 違う、ただ同じ血筋なだけだ! 元凶が居ないからってお前は詠奈で片をつけようとしてる! こんな風に裏切っといて、復讐を妥協してるんだ! ならお前の怒りは偽物だ! どうしようもなくイライラしてるこの気持ちを何とか抑えさせてほしいってだけの我儘だ! 復讐鬼なんて言葉も似合わない! お前はただの子供だ! このクソ野郎が!」
「―――人が反論しないのを良い事に、随分好き勝手言ってくれるなお前は」
網の中で無様に喚いていると、学帽を被った男がライトを片手に姿を現した。手には日本刀。だが使った様子はなく、鞘に収められたままだ。
「お前は女の趣味が悪いよ沙桐。俺の意見は変わらない。止めに来たのか? でもそんな状態じゃ俺は止められないな」
「お前が真実を知ってても知らなくても分かるだろ! 年齢をさ! 詠奈殺してスッキリするほどの怒りなら忘れちまえ! 大体何で寝返ってんだよ! あの人もお前―――」
「王奉院詠奈だってんだろ。知ってるよ」
十郎は音もなく抜刀すると縄を下から切って俺を解放した。だからと言って状況は変わらない。彼を物理的に止められるような力は俺にはないし、武器すら持っていない。助けてくれたのは彼の慈悲か……いいや、こんなのは慈悲じゃない。
「だけど俺は何度やっても勝てなかった。あれには勝てないと分からされたよ。勿論それだけで諦めたりはしない。ただな、アイツは俺に教えてくれたんだ。真実をな」
「……だったら猶更、詠奈を殺すなんて筋違いだろ。親を殺せよ親を!」
「お前さ、イジメを見て見ぬフリをしてる奴が無罪だと考えるタイプか?」
「……は…………?」
「自分の母親が蔑ろにされてたら戦うだろ。間違った事をしてるって明らかだ。俺の……姉ちゃんを殺してくれやがって」
…………あの人、何を言ったんだ?
嘘を吐いた?
違う。嘘を吐く場所がない。十郎の発言と俺の知る歴史に相違はない。これは単なる認識の問題か。誰しもが同じ思考に至るとは限らない。先入観、固定観念、思い込み、イデオロギー。言い方は何でもいいが、それらが与える方向によって結論は変わってくる。
立ち上がって、彼が去るようなら追いかけるつもりだった。しかし俺の必死に絞り出した煽りが効いたのか単に用事でもあるのか、十郎はその場から動かない。都合が良いかどうかは俺次第だ。この場で切り捨てられる可能性も、勿論ある。
「…………お前にとってあの状況は、イジメを見て見ぬフリしてるって判断なのか? 本気で言ってるのか?」
「ああ、それもまた教育だろ。自分以外を軽んじる事が王奉院には肝要だって聞いたぞ。じゃなきゃこの国の王様は務まらないらしいな。じゃあ同罪だろ」
「従わなきゃ詠奈は処分されてたかもしれないんだぞ!? 命と天秤にかけて正義を実行するのか? いいや、それが正しいかどうかも分からないくらい幼かった筈だ。常識を教えるのは教育で、王奉院の教育は歪んでた! 当時の詠奈、詠奈以外の子も何が正しくて間違ってたかなんて分からない! 子供にとって絶対に正しい最初の価値観は、親の言う事を聞く事だ!」
「好きな人だからって、知った風な口を利くなよ」
「俺もそうだったから言ってんだよ!」
自分でも驚くほど自然に、躊躇いなく、十郎の顔を殴りつけた。知った風な口? それはどっちだ。当事者から正確な事情を聞いておいて、何故理解した風な口を利ける。詠奈を無条件に敵視されているからじゃない。十郎と俺の住む世界が違う事が悲しかった。
俺達は、一般人だったのに。
「俺にとって、母親は絶対に正しかった。言う事をきかない選択肢なんて最初から俺には用意されてなかったんだよ。虐待があった。子供を虐げる親は犯罪者だろ。正義なら従わずに反抗するのが正しいってか? 俺にそんな教育はされてないよ。俺は悪か、十郎。子供に無理言うなよ。お前はそうやって自分は不幸だって言うけど、その前は幸福だったじゃないか」
「……不幸自慢なんて、それこそ不毛だろ。お前は詠奈とは違う」
「いいや同じだね。俺も詠奈も最初から選択肢もなければ幸せだった時間もない。幸せか不幸かを判別する脳も恐らくなかったよ。だってそれが当たり前だからな! なあ、同じ事を言い返してやるよ。知った風な口を利くな。姉の仇だからって、なんでも見透かしたように言ってんじゃねえ」
俺の拳なんて十郎には何でもないだろう。事実反撃もしてこない。殴り返すまでもないと思われているのだ。その気になれば一刀両断出来る相手に、どうしてわざわざしょぼい攻撃をやり返す必要がある。
ただ、殴らずにはいられない。そんな悪し様に好きな人を語られたら、言論で説得などしようとも思わない。発端として、この男は詠奈を殺しに行こうとしている所なのだから。
「せめて殺しに来るなら正々堂々としてほしかったよ。詠奈が手一杯の時に乗じてくるなんて最低だ」
「殺し方に良いも悪いもないだろ。これが千載一遇のチャンスなんだ。お前はアイツを守りたくて、俺はアイツに恨みを晴らしたい。口で何か言っても到底分かり合えないさ……他の誰も殺したくなかったけど、お前がそこまで言うなら仕方ない。殺す事になる」
殺気なんて曖昧な感情じゃない。十郎は刀を抜いて俺を捉えるように突きつけてきた。果たして直接的な殺害予告である事は言うに及ばず、誰にでも分かる。ハッタリでも脅しでもない。
「…………やれよ」
「死ぬのが怖くないのか?」
「詠奈を失う事に比べたら怖くなんてないね! お前は詠奈から大事な物を奪うつもりで殺そうとするんだろうが、違うな。俺から全てを奪おうとしてる! ―――王奉院よりもずっと最低な奴だよ」
「――――――それが遺言なんて、空しい奴だな」
音はなく、兆候はなく、反応もない。ただ瞬きをした次の瞬間にはもう目の前まで刃が迫っており、脊髄は反応してもそれ以外はまるで遅延が邪魔をする。咄嗟に避ける事は難しく、精々割り込んだ腕が真っ二つにされるのがオチだ。痛いのは嫌いで、死ぬのは嫌で、それでも立ち向かってしまった感情的な男の末路には相応しい?
「十郎。景夜様は私の夫でもありますが――――――黙って殺せると、思いましたか」