湯水のごとく金は雪崩れる
すっかり久しぶりの自由時間を満喫して、満足を胸に詠奈の寝室まで戻って来た。夕食までには起こした方が良いだろう。俺はいつまでも寝顔を見ていたって飽きないけど、メイド―――主に彩夏さんが困るだろうから。
「詠奈。起きてるか? そろそろ起きないとみんな困るぞ」
天蓋のカーテンを閉める時は俺と二人で眠る時だけ。それが詠奈と決めたルールだから、外から寝顔を確認出来る機会は貴重だ。彼女は死んだように眠っており、だが確かに息はしている。ドレスの生地が緩やかに上下しているのが何よりの証拠だ。
「…………」
ベッドの脇に座って寝顔を見つめる。目覚めのキスとやらで起きるかどうかも気になるが、俺は何よりこの寝顔に見惚れていた。眠り姫も斯くやと思われる美しさは、人形よりも無機質で。それ自体が画になるような華々しさも持ち合わせている。
「詠奈。詠奈」
肩を揺さぶって優しく起こす。慣れない夜更かしが寝覚めを悪くしている可能性はありそうだ。根気よく肩をゆすっていると、不意に手首を掴まれた。
「いか…………ないで………………」
それは寝言に違いない。どんな夢を見ているのだろう。俺が彼女の傍を離れるような事態と言うと買収されたくらいだが、この世界に詠奈より金持ちが果たしてどれだけいるのか。そいつはどんな事情があって俺を欲しがるのか。現実的ではないけれど、夢とはそういうものだ。
「行かないよ、詠奈。俺はいつまでも傍にいる。せめてお前が俺を無価値だと思っちゃうまでは。そう思ったなら、処分してくれてもいい」
だって俺には何もない。
自分から生きるような動機もないし。
心血を注ぐ目的もない。
馬鹿にされたら良い気分はしないが、決して爆発しないのは自分自身をどうとも思えないからだ。感想を持てない。一側面に過ぎない空虚性ではあるものの、とにかく俺は自分が好きじゃない。自分の事を考えるのは自分勝手なんだと教育された。自分勝手は悪で他人に親切にする事が正しい。そう教わってしまったから、詠奈が俺を処分して幸せになるのならそれでいいと思う自分が居る。
「大好きだよ詠奈。お前をお金で買えるとしたらそれは一体幾らで……俺の価値じゃ到底届きそうもないのかな」
布団の下の手を握ってじっと寝顔を見ていると、詠奈の目がゆっくりと開いて、俺の顔を見るなり焦点が合った。
「…………景夜。私の事好き?」
「大好き」
「……んふ。ありがとう、私も大好きよ」
何度目かも分からない寝起きのキスを、実に三分。力の入らない詠奈に代わって俺の方から頭を抑えつけて舌を入れる。
れろ、ちゅ、じゅぶ。
二人の間にだけ聞こえる粘っこい水音を堪能する。詠奈は満足したように脱力して気の抜けた笑顔を浮かべた。
「目が覚めたか?」
「まだ少し眠いわ。少し庭でも歩こうかしら。それとも市街地に降りてお散歩でもする? 私は眠気が覚めればどっちでもいいから……君が選んで頂戴」
「うーん。市街地はクラスメイトと遭遇する可能性があるから庭でいいんじゃないかな。みんなも護衛大変だろうし」
「それじゃあ、エスコートしてくれる? 庭までの道のりを……眠くて力が入らないの」
さっきあんなにキスを受け入れていたのに、なんて野暮な事は言わない。詠奈なりの照れ隠し、甘えたいだけだ。指を重ねるように取ると、夜の舞踏会へと誘うように慎重な足取りで寝室を出る。そのまま階段を下りて、玄関から屋敷の外周を回り込んで庭の方へ。
新緑の芝生が一面に広がる庭は、まるでゲームか漫画に出てくる平原のように見通しがいい。俺達二人が使うには広すぎるし、ここにメイドが全員参加してもまだ広い。奥の端にあるのがランドリーで、主に洗濯の仕事を任された子が一日を殆どそこで生活している。その対極にあるのが塔みたいなのが展望台。町を一望出来る望遠鏡付きだ。
そしてその中間にあるのが別館だ。大掃除の時や詠奈が表に出たくない際に時々避難する。基本的にはあまり使われないが特に出入りも禁止されていないのでランドリーで働く子が休憩の時に使っているとか居ないとか。
「ああ……いい日差しね。童心に返ってしまう様な温かさがあるわ。少し横になってみるのもいいかもしれないわね」
「また寝るぞそれ。起きる為に来たのに」
「あら、そう言えばそうね。見慣れた庭だけど、君と来るとまるで駆け落ちの末に辿り着いた場所のようでドキドキしちゃうわ。白いワンピースに着替えるべきだったかしら。これは部屋着に近いから気分が壊れちゃう」
「今はいいだろ。俺とここに来る機会なんて幾らでもある。その時に見せてくれよ。詠奈の色んな姿。大歓迎だから」
「景夜は興奮してくれる?」
「…………あ、あまり言いたくないけどお前の寝顔見て興奮するような男だからな俺は。さ、察してくれ」
庭で当てもなく歩き回っていると、自然と手を組み合って、足を整えてしまう。
「やり方は覚えてる?」
「教わったからな」
曲は頭の中で流れる。二人を示し合わせる物は必要ない。流れている音楽が一致している事を信じて俺達はワルツを踊り始めた。足捌きも手も、何もかも覚えている。人に見せられるクオリティなどではないけど、詠奈を楽しませるには不足もなく、完璧に。
「ふふ、いいわ」
「詠奈。あの一億っていつ用意したんだ?」
「いつも何も、私が電話をすれば持ってくるというだけよ」
「でもみんなは家事で忙しいだろ?」
「家から持ち出させた訳ではないから関係ないわ。まあ、それでもいいけど、凄く手間がかかるでしょう? だから銀行に用意させたの。あんまりにも大きなお金は用意するのに時間がかかると聞いていたから早めにね。後はそれを護衛の子に持ってこさせればお終い」
「……お嬢様にしては警備が薄いと思ってたけどやっぱり見えてない所に護衛が居るんだな」
「何も全てを買っていないというだけでスケジュールを十年買うくらいは私もするわよ。私は景夜が居てくれさえすれば安心だから、全部君を守る為ね」
「…………有難う。詠奈はいつも優しいからずっと惚れてるような気がするよ。一億渡した子に彼女とか要らないかって聞かれたけど、うん。やっぱいらないな。俺にはお前が居れば十分だ」
「…………景夜」
ワルツの終わり。首筋にキスをされた。噛む様な強いキスは、鏡で見たら痕でも残っていそうなくらい力強い。腰を持ち上げて彼女を抱え込もうとすると足が腰に組み付いて、上半身が詠奈で埋められる。
「重くない?」
「軽いよ。ほら、その証拠に持ったままお前を揺らせるだろ。いつもみんなの仕事手伝ってるからかな、こういう力はついてきちゃったんだよな」
「そう。いい事ね。大きさもそうだけど、これなら激しいのを期待出来そう……ふふ」
「ん? 俺をアトラクション代わりにするのはやめてくれよ。激しいのって言ったって、ジェットコースターが出来る訳じゃないんだからな」
遊園地に行きたいなら貸し切りにするか買ってくれと言いかけた所で背後から芝生を踏みしめる足音がする。
振り返ると、幾葉聖が気まずそうな顔を逸らしながら立っていた。
見てはいけないものを見たというか、主人の大切な時間を意図せず邪魔してしまったと言わんばかりの不可抗力な焦りが窺える。サイドテールに縛った黒髪を所在なさげに触っているのも気まずそうに見える原因だろうか。
カーテシーが必要かどうかはこの場合俺には分からないが、それをしようにも聖は沢山の書類が見える封筒を抱えており、とてもじゃないがあれが出来る状態ではなかった。彼女は獅遠の妹で、二人まとめて詠奈に買われた。髪が長い方が聖で短い方が獅遠と捉えればいい。もしくは俺みたいにお風呂に入ったのなら、大きい方が聖で小さい方が獅遠。もっと言うと―――この話はやめよう。また頭の中がおかしくなる。
「詠奈様。お、お楽しみの所失礼します。調査は無事終了しました」
「終了? 本当に? 何もかも調べ終えたの?」
「公権力の協力も取り付け、終了させました。それでこれは……執務室に置いておくのは良くないと判断したので、直接お渡ししたいと」
「それは正しいわね。私は執務をしないようにしているから。でも今は邪魔。その成果に免じて今回は見なかった事にしてあげるから、八束に渡しておきなさい」
「は、はい! 失礼しました……!」
聖が血相を変えて慌ただしく屋敷の方へと戻っていく。余程慌てているのか玄関から回り込んできたのに帰りは厨房の裏口から戻っていく程だ。詠奈を怖がるのは分かるが、あれで今後の仕事に影響が出ると困るのは彼女本人だ。少し気に掛けた方が良いだろう。
「何を調べさせたんだ?」
「一億の使い道に興味があるの。私にとってははした金でも他の子にとっては違うでしょう? つまらない使い方でなければいいのだけど」