手段なき滑稽
「え、割のいいバイト? いや、割のよくないバイトなら知ってるけど」
「私も知らん。何それ、むしろ私が教えて欲しいんだけど」
「ば、バイト……? ごめんね景夜君。その……沢山お金がもらえるバイトは知ってるけど、女の子じゃないと駄目だったから」
学校では今日も詠奈主導の下、勉強会が執り行われる。参加者は前回に比べてまた少し増えるらしい。みんな詠奈とのワンチャン狙いで縁を作りたいのか、それとも単に勉強がしたいのか。真相は曖昧にしておいた方が男子の為だと思う。女子はもう、単に詠奈と仲良くなりたい目的が増えてきたように感じる。勿論勉強会を通じて彼氏を作ろうという目的を否定はしない。それは、隙を見て横顔や後ろ姿の写真を撮って閉鎖的なSNSで共有する男子よりは健全だからだ。
―――命琴に聞いても駄目だったか。
恥ずかしいという訳でもないが、勉強会に参加を表明してくれた方がきっかけがあって絡みやすい。話題の転換なんてその気になれば多少強引でも大丈夫だ。ほとんどの人間は細かい脈絡を気にしない。『ていうかさー』とか『どうでもいいけど』とか、前置きを加えておけば大抵どうにかなる。
本当にそんなバイトが存在するか、ちょっと怪しくなってきた。彼女の情報網を信用しない訳ではないが……いや、信用? そうか、俺は詠奈の数少ない友達という優位性の代わりに信用がないのかもしれない。ちょっとした不幸に遭っている人間は助けたくなるように、ちょっとした幸福が誰かにとっては死ぬ程羨ましかったなら、仕返しのつもりで突き放すように。
次の休み時間。俺はわざわざ梧のクラスまで出向き、事情を話してみた。協力を取り付けたのは俺の勝手な判断で、十郎も彼女も友里ヱさんからの調査報告は聞いていないだろう。
「闇バイトっぽいの? それをどうして私に聞くのっ?」
「……教室で話すのも気まずいし、ちょっといいか?」
デリケートな話題だ。幾ら俺には関係のない話で、今は解決していたとしても配慮する。命琴は同じ顔をした別人が関係者として代替した事で解決したが、梧は違う。
屋上まで移動すると、扉を閉めて、小さな声で用件を切り出した。
「映画撮影の時を覚えてるよな。お前は湊谷左京に酷い事される形で交際して、当時あった虐めから逃げる代わりに身体の関係を迫られた。その写真で……色々やらされたんだろ」
「………………ああ、だから、ね」
梧がぎゅっともう片方の腕を握って自分の身体を抱きしめるように縮こまる。伏せた目は嫌な過去から目を背けるみたいに虚ろで、それが思い出したくもない事実である事は想像に難くない。
「ごめん」
「…………………………………いいわよ、もう。それで頼りに来たんでしょ。だったら私が出来る事はその期待に応える事くらいで、それが出来なきゃまた電撃を流されるんだから」
でもごめん、と言い残すと、梧はそっぽを向いてハンカチを取り出す。涙を拭いているような仕草だが、こちらに背を向けているので正確な所は分からない。ただ俺に踏み込む権利はないというのは分かる。
「……おっけ。もう大丈夫。それで用件については私も分からない。でも頼れるツテ自体はあるから……聞いてみるわ。本当はあんまり頼りたくないけど、そんな我儘言い出したら、殺されちゃうし」
「…………」
詠奈に価値を見出されなくなったら処分されるのは買われた人間全てに共通している事だ。厳密には彼女は買われたのではなくただ単に拾い物として生かされているだけだが、この要項は変わらない。唯一違うのは俺達には己の価値分のお金を支払って支配の鎖を切るチャンスがあるくらいか。梧にはそんなもの、存在しない。
情報漏洩のリスクも考慮して、要らないと判断されればその時点で処分だろう。そんな軽い命が少しでも重くなればと思って俺は友達関係を続けている。
何もかも、真実と呼ぶには複雑化しすぎているのに。
「有難う。頼んだからな」
十郎は……別にいいか。アイツにはそもそもクラスという概念もないし、学校の事情に詳しいとは思わない。一緒に居てくれるなら心強いけど、それは実際にバイトが見つかった後で頼むべきだ。
階段を下りて教室に戻ろうとすると、トイレを通り過ぎる直前に伸びて来た手が俺の身体を引っ張って、女子トイレに連れ込んだ。
「あぐ―――」
思わず挙げた声も掌に封殺されて奥まで引きずり込まれる。他に誰も居ない事だけが幸いだ。休み時間ももうすぐ終わるからわざわざ利用しようとする人も現れにくいと思う。
解放されてから振り返ると、詠奈は何も言わずに櫛を渡してきた。
「は? え、詠奈?」
「梳かして」
「か、髪は今朝やったけど」
「男子に触られて不愉快になったから。君が整えて。ついでに纏めてくれるといいわね」
「す、数分じゃ無理だぞ。お前の髪はもっと丁寧にやりたいっていうか。やれるだけやるけど……他にもっとマシな場所なかったのか? 女子トイレって、俺が変態みたいじゃないか」
「変態じゃない」
「公然の事実ではない! 髪くらいでとは思わないけど、そんな怒るような触り方したのか? 確かにちょっと乱れてるけど」
「恋人を作ったことがないのかしら。バレないつもりで触るのは目を瞑るけど、あんな乱暴に指を入れられたら誰でも気が付いてしまうわ。君がどんなにか普段気を遣って触ってくれるのか良く分かった。いつもありがとうね景夜君。君に髪を梳かされると、いつも気持ちよくて眠くなってしまうの。やっぱりこれからも私の髪に触っていいのは君だけかもしれないわね」
「俺が来る前は八束さんが世話してたって聞いたけど、その時はどうしたんだ?」
「最初は酷いモノだったけど、次第にマシにはなったわ。ただ何度も、面倒だから斬っていいかとも言われたけどね」
今日は誰の手伝いをするべきなのかな。
そんな事を考えながらする勉強は身が入らないものの、詠奈が時々見に来てくれるから全くの無意味にもならない。水面下での戦争とはまた別にテスト勉強をしなきゃいけないのが学生の辛い所だ。それこそ本分であるのだが。
「どう? 分からない所はあるかしら。私の作った問題だから答えを教える訳にはいかないけど……あれ出して。この問題はね……」
こう見ると王様としての威厳は欠片もないし、至って真面目に教えている。不埒な男子は重力に引っ張られる詠奈の胸と制服の張りが生み出す小窓を見ているが、それでも彼女は気にしていない。人に見られる事が慣れているとか以前に、勉強会の結果なんて気にしていないからだ。こんなに優しいから忘れがちになるが、詠奈は価値のない人間に興味関心がない。何をどう見られても、どんな失敗をしても、路傍の石が風で動いたとか吹っ飛んだとかその程度の違いでしかない。
のだが、幾らどうでもいいからって労力を割けるのはそれはそれで優しさだと思う。分からないのは、こんな勉強会をして『王奉院詠奈』にどんな効果を期待出来るのかという所だが。
「詠奈。ちょっと来てくれ。この化学式について物申したい事がある」
「へ? 物申したい……って」
教える側が詠奈だけで手が足りるのかという問題については、別冊でいつの間にか用意して来た詠奈ノートが大半の人間に配られているので心配ない。それでも分からない人には直接指導がある。
「…………ああ、君の言いたい事が分かったわ。こんな化学式は存在しないって事ね」
「いや、分からないだけ」
「どうして上から目線だったの」
詠奈の字は、とても綺麗だ。見ていて気持ちがいい。紙の上を走るペンは軽やかに、何の迷いもずれもなく形を描く。果たしてあの環境を育ちの良さとは言えないかもしれないが、字一つとっても何か気品が感じられるのは素晴らしい事だ。
『今日は俺、誰を手伝えばいいんだ?』
ノートの端に、小さく書くと、詠奈も勉強のどさくさに紛れて返事を綴る。
『バイトについて進展はあった?』
『梧次第だ。今日は何もない可能性もある』
『その時は聖に頼って。くれぐれも気を付けてね。もしもアイツに出会ったら、惑わされちゃ駄目よ。君は私の夫なんだからね』
詠奈は隣に相合傘を書くと、キスの代わりにちょんっと指先で頬を突いてまた離れていった。
―――がんばろっと。
これを褒賞とするのは安いか。いいや、十分すぎる。たったこれだけでも俺は、この上ない幸福に満ちているのだ。