命の価値
善にしろ悪にしろ、強烈な自我を持った人間に人は惹かれる。自分にはないものを持っているから。
俺には主体性が欠けている。
母親に従う事が全てで、母親を怒らせない事が俺にとっての世界だった。だから主体性なんて物はない。無意識に、何の思惑もなく誰かの顔色をいつも窺っている。そういう奴は基本的に悪い扱いは受けない代わりに舐められるようになる。あいつを怒らせると不味い事が起きる、と思われないのだ。
大した問題ではないと思うだろう。だがこういうのは大事。小学校の頃からある風潮として、女子贔屓があった。十割彼女に非があったとしても責め立てたら泣いてしまって、その内こちらが悪い事になってしまう。これは女子を攻撃したら被害者の立場が逆転して嫌になるから、攻撃はやめようという図式になる。
こんな陰湿な例でなくても、怒らせたら包丁持ち出す奴は攻撃しないだろう。物理的に殺される恐怖があるからだ。学校なら先生にチクるような奴も攻撃されない。母親に怒られる事が何より嫌だった俺と同じように、生徒の多くは先生に叱られる事が嫌いだからだ。
いずれの例にしても、攻撃して何も起きない奴なら幾ら攻撃しても良いという風潮が生まれる。それはイジメとは違う。イジメは明確に犯罪でいつか起きる破滅を招く時限爆弾なのに対して、この名前をつけられない状態は本人が追い詰められないので幾らでも悪化する。
クラスメイトが俺を馬鹿にするのは悪意がある訳じゃない。その証拠に会話にすんなり混ざれただろう。イジメとは違うのだ。アイツ等は悪意があってあんな物言いではなく、俺は優しいしどうせ怒らないからと軽率に信用しているから口が悪くなる。
実際、怒れない。
確かに寂しくなる事があったり勝手に割り切れなくてもやもやする事はあるけれど、それと引き換えにあんまりにも的外れな事を言っているじゃないか。詠奈と俺が交際してない? それは正しいが、同棲している。皆の知らない詠奈の顔を俺だけが知っている。偏にその優越感が俺の欠点を誤魔化していた。見下していると言ってもいい。でもそれはそれとして困っているなら出来るだけ助ける。それはもう身体に染みついてしまって、どうやっても取れない癖になってしまった。
そんな簡単な事で築いた人望が更に俺に対する敬意を失わせているのだと分かっていてもやめられない。親切とは見返りを求めない物だと母親に教わった。一方で見返りに虜にされたのも同じ人物ではあるけれど……
マザコン?
好きに言えばいい。世界の全てだったとはそういう事だ。自分がどれだけ成長してもまずそれを基準にしてしまう。しようとしてしまう病気。詠奈に買われるという荒療治があってもまだ抜けない。
俺はいつになったら、自分を好きになれるんだろう。
「おーい! 起きろよ!」
頭を何度も叩く音がした。別に痛くも何ともないが、眠気を覚ますには十分だ。流石に目覚めてからは受ける道理もないので腕で防御すると、クラスメイトの雅鳴正良がふざけたにやけ面を見せつけていた。
「もう授業終わったんすけど。景夜よお、部活に入ってねえのに居眠りとかありえねーだろ!」
「…………や、悪い。起こしてくれて有難な」
「起こしてねーし! 何で寝たのか気になったんだよ。だってお前友達も居ねえし夜更かしもするタイプじゃねえだろ。何で寝てたんだよ」
「…………友達いないのは関係なくね?」
「寝落ち通話とかあるじゃん」
日焼けした肌からある程度は推察出来るようにこの男は陸上部に所属している。だからか身体は華奢で、身のこなしも凄く軽い。体育などで移動教室になろうものならいち早くやってくるのがこの男だ。単に走るのが好きなだけと単純な動機だが、お陰で先生の覚えが良くて平常点で得をしている。
「あー…………いや、眠いもんは眠いんだよ。理由とかはない。何で急にそんな事聞くんだ?」
「…………ちょい顔貸せよ。休み時間数分だけでいいから」
「ん……」
寝起きなので素直に言う事を聞いてしまう。聞くべきかどうかを考える頭がない。歩くにつれて目が覚めていくが途中まで従っているからもういっその事どうでもよくなってきて、やっぱり逆らわない。
男子トイレに連れ込まれると、雅鳴は気まずそうに切り出した。
「なんかさ、俺と共通の趣味みたいなのないのか?」
「…………詠奈が好き」
「それはそうかもしんないけど! あんだろゲームとか合コンとかカラオケとか!」
「高校生で合コンはちょっと……意味分かんないし。何でそんな事急に聞くんだ?」
「助けてくれ」
その言葉が、俺のスイッチに引っかかる。雅鳴の表情は真剣そのもので、俺を揶揄いたくて言った訳ではないと分かった(そもそもクラスメイトとはかかわりが薄いから俺の性質も知らないけど)。
「…………何に困ってるんだ?」
「もうこれ以上お金を払いたくないんだよ―――!」
中学の頃は地味だった自分が高校デビューをしようとするも失敗。クラスで浮くのを防ぐ為に一年の頃、クラスカースト上位の女子をお金でつって交際(彼の家は裕福らしい)。その後は陸上部の練習を経て部活仲間も出来て自然となじめるようになり、お金でつられた女子も雅鳴の事などどうでも良かったから気にされていなかったのだが……ここにきて突然、お金を要求されるようになったと。悲痛な叫びを要約するとこんな感じになる。
「払わなきゃいいのに」
「分かってくれよ……根も葉もない噂を女子に流されたら勝てねえって。停学喰らったら親がなんつーか……」
「ああ、そういうタイプ。小学校の頃に居たよそういう子。でも俺が助けられるようには見えないんだけど」
「いや、他の奴ならちょっと申し訳ないっていうか、いや、申し訳なくない……嘘吐いてたからさ、俺が恥ずかしいんだよ。実は付き合ってませんでしたって。でもお前ならいいだろ。詠奈に金払ってるんだから」
「支倉にも言われたけど、何処からそんな話流れてくるんだよ。俺が知らないだけでお友達料金はメジャーなのか?」
「あ、新聞部が端っこの枠使って書いてんだぞ。詠奈と仲良しの男子の謎って銘打って、調査の結果お金を払ってますって」
―――――部活だからって好きにやるなよ。
流石の先生も見過ごしているだけだろうから言えば止めてくれるだろうが、支倉然りクラスメイトにはその情報が知れ渡っている可能性が高い。インターネットと一緒、広まった情報は消えないか。
「……まあその話はいいよ。で、俺はどうやったらお前を助けられるんだ?」
「悪いけど身代わりになってくれ。頼むよ景夜!」
「記事?」
「そうだよ。校内新聞。見てない俺が言うのもあれだけど、お前も見てない? やっぱり?」
「ごめんなさい。興味がないから知らなかったわ。でもどうでもいいじゃないそんなの。君との関係はそういうのじゃないし、所詮は根も葉もない噂よ」
案の定、詠奈は一ミリも気にしていなかった。だと思ったのは、あれだけの権力があるのだから不愉快と感じればすぐにでも先生に報告するか部活を潰すかくらいはすると思ったからだ。
「それとも、景夜君は不愉快かしら。私にお金を払ってお友達になっているという噂は」
「ん…………いやあ、そんなに。それでなんか当てにされるのは面倒だけど。関係の隠れ蓑になってくれるなら別にいいかなって思わないでもない」
俺と詠奈の関係は調べようと思えば直ぐに調べられると思う。同じ車に乗って同じ場所に帰っているのだ。部活に入っていないから人目に付きにくいだけでその気になれば買われたまでは行かなくてももっと背徳的な関係だと分かる筈。
それを抑止出来ていない方が面倒になりそうだし、新聞部については一先ずいいか、となってしまった。
「それよりも私は身代わりの方が気になるわ。景夜君は私のお友達だから口を出すつもりはないけど……受けるの?」
「お金は払いたくないんだけど…………あ、そっか。身代わりってそういう事か」
詠奈にお友達料を払っている前提で、彼女が何かにつけてお金の話題を切り出すから払っている額は相当→景夜は裕福だから金銭面を負担してくれというロジックか。たった今理解した。
「俺のお金さ……一億使える?」
「ええ。君の価値が下がった事は一度としてないわ」
「そっか。じゃあ受けようかな」
お金とは価値。
お金で買える幸福があるように。
お金より尊い命はあっても、お金は命に代えられるように。
「手切れ金渡して全部終わらせればいいんだよ。名案じゃないか!」
お金で回避出来る不幸も、沢山ある。




