残響のテオス
文化祭の打ち上げ、もとい詠奈への慰労を目的としたパーティーに堅苦しさは不要だ。侍女達の殆どは主人への気遣いなど忘れて各々楽しんでいる。参加者のほぼ全てが女性である事から俺の肩身は狭いように思うが、こんな事で窮屈に感じていたならそもそもここまで生活出来ていない。
ナイトプールでの一件もあるから、違う意味で危険性を孕んでいるが、孕ませるのは俺だ。そういうリスクは全部詠奈に向ける事で事実上の回避を果たしている。
「去年は無かったし、詠奈の気まぐれだからってみんな全力で楽しんでるな」
「淑女としてはあるまじきはしたなさだけれど、所有物に一々そんな振る舞いは求めていないわ。だから、君も私に付き添わないで、少し自由にしていいわよ。私が愉しいだけの時間は少し後の話だから」
「そっか。じゃあちょっと皆の様子を見て回るかな……ん? そのボタンなんだ?」
手元を見ると、詠奈の右手にはレバーのような形をしたスイッチが握られていた。真上に赤いボタンがついていて、親指の腹が既に軽く触っている。線を辿ったがそんなものはなく、ただスイッチだけが独立していた。
「これは神様を呼び出すボタンよ」
「え?」
「私は参加者にパフォーマンスを求めたけど……全員が成功するとは限らないわ。もしかしたら失敗して恥を掻いてしまうかもしれないでしょう? 私は努力を嗤う趣味はないの。他人が幾ら気にしないと言っても一人だけ引きずる様な子がいる事も把握してる。そういう時に備えたボタン。とーっても高い買い物だったけど、その価値はあると思うわ」
「とーっても高いって……幾らだ?」
「この国に住む所得の高い順で八割の国民から全財産を巻き上げてどうにかこうにかってくらい? 勿論そんな真似はしていないわよ。私の資産でどうにかなる範囲だけど……ちょっと痛いのは確かね。獅遠と八束が安定期に入ったら仕事詰めになろうかしら」
敢えて具体的な金額を教えない事によって与える印象を統一させたいようだ。億を端金扱い出来るようなお金持ちがこんな風に言わざるを得ないのは、相当な金額がかかっているのだろう。正直大きさのせいでとてもそうは思えない。詠奈の鑑識眼は疑えないけど。
「使わないに越したことはないから気にしないで。それじゃ、君のパフォーマンスを楽しみにしているわよ」
「え、あ、うん。じゃあちょっと。な!」
「あ、景夜さん! こんばんは! 今日はこのような催しにお招き頂きまして―――」
「俺が誘った訳じゃないからそんな堅苦しくならなくていいよ、鈴子。飽くまで詠奈が主催だからさ。俺も単なる参加者」
学校よりも交友関係が広いのはどういう理屈か。ずっと仕事を手伝ってきたからだ。下働きの人間にとってやはり詠奈は少し怖いというか、威圧感がある。幾ら年頃の女の子で、俺にとってはちょっと我儘が凄いだけの子でも、長い間買われてその権力を知る者が恐れるのは無理からぬことだ。
だから詠奈から少し離れるだけで、俺は直ぐ話しかけられる。『王奉院詠奈』の言う通り、俺は空っぽで―――誰から見ても恐るるに足らない存在だからこそだ。怒れなかったのも、そういう理由がある。
「仕事、最近手伝いに行けなくて悪いね。色々変な事が起きててさ……今日は俺が普段食べてるのと同じグレードの料理が出てるみたいだし、お腹いっぱい食べなよ」
「はい! お酒を飲む機会って早々ないんですけど、やっぱりこれってお高いんですか?」
「んー俺は未成年だからな…………でも詠奈はあれでも食にはちょっと煩いから、こんなパーティーの時に安物用意するなんてないと思うよ。一緒に飲んでやりたいけど、それはもう少し待ってほしい」
普段見ないような料理の数々に目を輝かせる侍女達。給仕係を務める彩夏さんも、今はその仕事がないので気楽に構えて同じ厨房で働く子などに話しかけている。赤いドレスは名前の通り良く似合っており、この真夜中でも彼女の姿ならすぐに見つけられそうだ。
「…………?」
机に並べられた串焼き等を食べていると、ある事に気が付いた。食事情ではない。何となしに周りを見ていたら、違和感を覚えたのだ。しかもそれはどうもまだ誰も気づいていないように見える。あらゆる役目から解放されている獅遠でさえ、自分のお腹に夢中で(子供の存在を感じているのだろうか)気づいていない。
「八束さん。ちょっといいですか?」
「はい。景夜様。どうしましたか?」
「いや、詠奈の前だからって畏まる必要はないです。敢えて主語をぼかすんですけど、気づいてますか?」
樹海出身で恐らく生物の気配に敏感な八束さんが気づいているかどうか。それが一つの判断基準になる。ついさっきまで目を閉じて瞑想をしていたらしかったが、少し周囲を見回すと、こくりと頷いた。
「たった今気づきました。詠奈様に伝えてみてはいかがでしょうか。こんな身体ですが、少し身構えておきましょう」
「わ、分かりました……危険なニオイって、しますか。やっぱり」
「―――少しは」
孕んだ身体を支える為の杖だろうか。八束さんがぼんやりした視線を止めて鋭く夜空を見上げ始めた。そう言えば今日は綺麗な満月が輝いている。もしかしてこの月夜が見たくて詠奈は外でパーティーを?
いや、今はそんな場合じゃない。詠奈の所へ戻ると、彼女は誰に触れられる事もなく静かに食事を楽しんでいる所だった。俺の語彙にはないような調理法で仕上げられた魚を一口サイズに切って、しずしずと口に運んでいる。
「詠奈ッ」
「あら、景夜。どうかしたの? 呼び戻した覚えはないけど」
「一人足りない」
「…………へえ?」
そう、参加者はこの屋敷に住まうほぼ全ての人間。コックさんは例外として殆どが参加しているのだ。普段の生活で関わる侍女に変化はない。屋敷全体の雑務を務めている子が一人足りないのだ。指揮下で言えば獅遠の下に入る。だから彼女なら気づいているかとも思ったが……
「……確かに足りないわね。藍子だったかしら。トイレに行った訳でもないし、体調不良という話も聞いていないから、居ないのは不自然ね……有難う。この件は後で対処しておくわ。君はもう戻っていいわよ」
「な。何か起きてたりはしないよな?」
「勿論、何も起きてなんかいないわ。何も起こさない。何も起きる筈がない。私を信じて」
「…………」
「もし何か起きたとしても、それはきっと悪い夢よ。現実は非情で、無情で、つまらないの。だから何も起きない」
「信じられない?」
「そういう訳じゃないけど。何だか変だからさ」
「…………周りが誰も気づいていない事が?」
俺や詠奈が気づかなかったとしても、それは仕方のない事だ。結果的に憶えていただけで生活に殆ど関与しない人の有無など覚えていなかったとして責められる謂れはない。
ただ、そんな彼女にも友人が居るだろう。周りが誰一人気づかないなんておかしいのだ。最初から居なかった事になっているか、それとも居なくなった事自体誰も認識していないのか。
「これは文化祭の打ち上げだけれど、パフォーマンスを言い出したからには私も面白い事をしようと思ってね。その一環になると思うから、大丈夫よ。あの子が死んだり、消えてしまったりする事はない」
「本当に?」
「幾ら価値が君に比べて低かったとしても、一度買った子は大事にするわ。処分だって、処分すると決めたから執行しているだけでそれまではどうともしないでしょう? 雑用にも才能があるのよ。体力とか根性とか適応力とか……そういう意味で代わりを直ぐに探し出すのは難しいから、守るの」
パン! パンパン! パパパパパパ!
山の中から鳥が一斉に飛び出していく。
これは、銃声だ。
「…………?」
これをクラッカーと聞き間違えるなんて不可能だが、一見誰も、やはり気づかなかった。