王奉院 詠奈
「ぐっ…………う」
「残念。私はとても慈悲深いけれど、護身用の銃くらいは持っているのよ。銃を扱えることくらい、指を視れば分かったかもね。早撃ちなんて久しぶりだけど……景夜君。音については誤魔化せないから後で良い感じの言い訳、よろしくね?」
「それは……大丈夫だと思う。詠奈なら無茶ぶりが利くし、火薬を含む危険物を取り扱う為に屋上へ出たって言えると思うから」
それよりもどうにかするべきは屋上に生まれた血だまりだろう。胴体を撃ち抜いた一発は即死とは行かずとも致命傷であり、崩れ落ちた身体が血にまみれてもまだ、床に広がる事をやめない。処置をしなければ、十郎はもうすぐ死ぬだろう。
「保健室では到底扱いきれない怪我……病院へ行けば銃創と判断されてしまうかもしれないわね。仕方ない。景夜君。梧ちゃんを呼んできてくれる? 保健室から色々持ってきてもらって、応急処置をお願いするわ。車は外に控えさせるから連れ帰ってもらう。話はそれからにしましょう」
「……殺さないんだな」
「殺すのは良くない事なのでしょう? 貴方に嫌われてまで誰かを殺したいとは思わないわ。早く。詠奈が人殺しになる前に」
「わ、分かった!」
「ちゃんと手は隠すのよ」
「え、あ、うん!」
梧のクラスは把握しているが、自然に連れ出す為の理由なんて一々考えられるような余裕もない。興奮状態で痛みが誤魔化されているだけで、俺もいつか限界が来る。
クラスの扉を蹴破る勢いで開ける。本来他クラスの出し物を見に行くのはご法度というか、普通にサボリと認定されるがそれどころじゃない。どうでもいいそんな事は。
「梧、来い! 用事! 早く! いいから!」
「え、あ、ちょ、あ? は? ええええ?」
ロマンチックさの欠片もない呼び出しに、果たしてこれが男女の恋愛模様だと勘違いする人は居ないだろう。強引に連れ出すと、事情も説明せずに保健室の前まで連れて行く。
「ありったけ持ち出してくれ!「
せ、説明してよ! 何がどうなって……って、沙桐! 貴方手が……」
「いいから早く! なんか言われたら詠奈に頼まれたって言えばいいから!」
「はいはいはい! 分かったって! 何なの!?」
制服の中に手を引っ込めてはみたが、ワイシャツの方は限界が近づいている。しみ込んだ血が溜まって滴ろうとしているのだ。一秒が長い。血は流れているのにまるで時間は永遠の様だ。意識が遠のいていくそのコマ割りは、六〇分の一秒では収まらない。
「梧さん!? どうしたの!?」
「ごめんなさーい!詳しくは詠奈ちゃんに聞いて!」
間もなく保健室から沢山の医療用品を抱えた梧がやってくる。痛みに堪える為のイメージにも限度はある。待ち時間はほんの僅かであったと思うが、その少しの待ち時間でもう、俺は喋る余裕をなくしていた。
出来る事は無事な方の腕で真上を指さすのみ。
「……屋上ね!」
事情は分からないけど走れる。それが梧の良い所だと思う。誰かを連れ回す力など到底残っていないから、一人で走ってくれるならその方がいい。先に戻ったのは都合上、梧で。
その惨状を見て、叫び声を上げた。
「いやあああああああ! な、な、な…………」
「もうすぐ力尽きるわよ。早く応急処置を。家まで運べば一先ず大丈夫だと思うから。階段は非常階段を使ってね」
「あ、は、は、は、は………………ッッァ!」
映画撮影で酷い事に巻き込まれた経験が活きたのか、戦慄はしつつも梧は瀕死の十郎に駆け寄って処置を施す。仮にも一緒に登校した仲だ。そんな人間が変わり果てた姿で見つかれば動揺も無理はない。その上で行動出来るなら、彼女は俺より強い。
「さて、貴方は私が処置しましょう。こっちに来て」
動く気力はなくなった。梧を間に合わせた安心感が俺から体力を奪ったのである。偽詠奈は仕方なしと肩を落とすと、自分から近づいてきて、隠し持っていた包帯と消毒薬で掌の応急処置を始める。
「一旦はこれで我慢して。家に帰れば貴方も治療が受けられるわ。それは治療を専門とする病院のような場所より余程最先端で……大丈夫だから」
「あだだだだだだだだだだだだ!」
「我慢して。この手の治療はあまり上手くないの。梧ちゃん、床の血だまりは後でこっちがどうにかするから貴方は集中してね。下手でも何でも一時的に止血出来ればそれでいいから」
「あががががががががあああああああああ!」
俺はともかく十郎の方は文字通りの死活問題だ。一秒遅れる度に死ぬ可能性が高まっていく。処置が始まって一〇分。梧は火事場の馬鹿力か彼を背負って非常階段を下りて行った。
「……さて、血は無事に止まったわね。良かった。もう少し大きな傷だったら手の施しようがなくて困っていたわ」
「いで………………有難う、ございます」
ベンチで傷だらけの腕を放り出しながら、無事な方の腕を偽詠奈に寄り添わせる。目の前の血だまりには努めて意識を向けない。あの赤色を見ると、自分の怪我を思い出してしまいそうだ。
「お礼を言うのはこちらの方よ。私を本物として扱ってくれてどうも有難う。おかげさまで騙せたわ。即興の演技にしては大したものね」
「貴方を本物だと思わせたら詠奈には被害が及ばないかなって思って……まあでも、詠奈はブレザーを全開にしてブラウスを見せつける真似はしないですけどね」
スタイルはとてもよく似ているが、俺には分かる。胸は詠奈より一回り小さく、だが腰回りはずっと屈強だ。腰は触らないとともかく胸に関しては見れば分かる。大きさが無理ならブラの色とか。詠奈はあまり水色を持っていない。
と言っても生活を共にしている訳ではない十郎には酷な見分け方だったか。それが一番簡単なのに。
「これは防刃防弾チョッキを装備していない事を見せていたのよ。それに、刀で刺せば白い服は赤く染まるでしょう。下着も透けているし、これだったら死んだフリは出来ないと伝わる。襲撃犯にはきちんとお前は不意打ちを成功させたって事を見せてあげなきゃね」
「な、成程…………偽物なりの思考誘導みたいな事だったんですね。いづ…………で、えっと。影武者さん。俺も聞きたい事があって来たんです。助けたのはそのついでみたいな事で」
「分かっているわ。そうでなければここに来る事はないものね。詠奈とのデート後にわざわざ学校に戻るなんて、それくらいしか思い当たらない。何が聞きたいのかしら」
「えっ」
十郎との反応の違いに、声を詰まらせる。
「君は詠奈に許可を貰っているじゃない。それを私が妨げる権利はないわ。教えるとも言ってしまったし……」
「そ、そうですよね。俺もそう思って聞きに来たんで……秘密文書については読みました。王奉院のしたい事が犯罪であっても国が総力を挙げて保護してる……その実態について書かれてました」
「王奉院の血は確かに国を立て直した英雄だけれど、同時にこの国を限りなく腐敗させている病巣よ。無尽蔵の資金はこの国の税金、国賊の無茶苦茶な要求が通る事があるのもまた王奉院のせい。一言で言うなら国全体の汚職を引き受けつつ、自分のケツは他人に拭いてもらっているって所かしら」
「…………そんな家に生まれた割には、詠奈の感性が普通過ぎると思うんです。全部出来たら退屈なんていうけど、退屈でも紛らわせる為なら全部やるべきでしょ。どんな事しても国が尻拭いするなら猶更で、もっと自由に振舞えばいい。何で詠奈はあんなに……市井の事を考えるんですか?」
偽詠奈は空を仰ぎ、遠い日々を思い出すみたいに微笑む。
「そう言えば、子供が生まれるみたいね。名前はもう決めたかしら」
「え。いや、流石にまだですけど……」
「王奉院では名前を先に決めるのよ。男か女か分からない内から……次の当主は男であるべきか女であるべきか。その時点で決めてしまうの。当代は王奉院詠奈である事が決まった。だから詠奈は、詠奈なのよ」
「…………いまいち要領を得ないんですけど」
「貴方は私を影武者と言ったわね。確かにそれは事実。私は王奉院詠奈の偽物よ。けれど名前までもが違うと言った覚えはないわ。私の名前も王奉院詠奈。ややこしいから名乗らないだけで、名付けられた名前もそうなの」
―――詠奈が、二人?
他意もなければ含みもない。文字通りの意味。王奉院詠奈は二人いる。影武者である事と名前が同じである事は違うらしい。そこに相関関係はなく、影武者でなくとも彼女は王奉院詠奈であると。
「そ、それってありなんですか? 十郎って確か、姉ちゃん攫われたって言ってましたよね。その人の苗字がたまたま王奉院じゃないと成立しない様な」
「攫った人の苗字なんて一々気にしないわよ。攫われた人は限界まで子供を産まされるわ。当代は女の子であるべきと決まったから男の子は処分。弱った母体も勿論処分。これは気分、とかではなくてね。今まで男の子の当主だったけど、それだと外部から優秀な母体を引き続けないといけないからって事で、方針転換があったみたい。要はお試しで一回女の子に当主やらせてみようって事。今までだったら死んでいたのは私達―――『詠奈』の方」
「じゃあ詠奈はその……え? どういう事だ? そんなに詠奈が居るならもっと屋敷には詠奈って名前が沢山居てもおかしくないんじゃ……」
「王奉院詠奈は一人だけ。トップが二人も居たら混乱しちゃうからね。だから等しく王奉院詠奈と名付けられた私達は生き残りをかけた競争をする事になった。母親を取り上げられ、父親からの英才教育に応えられなかったものは処分される。あれは生きる地獄よ。例えば今、貴方の周りには沢山女の子がいるけど、昔は男の子だったの。全員が父親のシンパでね。何処に行っても監視の目があった。風呂の中でも、ベッドの中でも、食事中でも、どこでも」
思い出を語る目に懐かしさは感じられず、あるのは悲哀と、まるで他人事のように語らなければ耐えられないとばかりの自嘲気味な笑い方だけ。引き攣っている。心底嫌な記憶を、美化しようにも狂えないと嘆くみたいに。
「私もね、もう疲れちゃった。生きる事に疲れたから影武者なんかやってるの。だから本の世界が好きなの。読んでいる間だけは、自分が詠奈以外の何者かである気がして。あの子もきっとそう。父親の教育の反動なのか腹に据えかねていたかは分からないけど、教えられたとおりの振る舞いは避けているのね。本来はもっと乱暴で、傲慢であるべき。まあ元々、あの子にそんな才覚はなかったわ。王奉院詠奈としてはずっとドベで、処分されなかったのは運が良かっただけ」
「…………話を聞いている感じ、運が介入する瞬間がなさそうなんですけど」
「町から女性を攫って無理やり子供を産ませるようなクズの父親だけど、そんな父親も真っ当に愛した女性が居てね。その人との子供が居たの。勿論王奉院詠奈よ。私達はその、所謂オリジナルと競争させられていた訳。貴方の良く知る詠奈―――おチビさんと呼ばれてて、随分可愛がられていたわ。だから処分を逃れていたってだけ。勿論それは私達にとっては面白い事ではなかったけど、イジメは王者の振る舞いではないし、幸いそれ以外であの子に負ける事はなかったから仲は悪かったけど……ほら、辛うじて血の繋がりがあるってそういう事」
「…………オリジナルに勝とうとは思わなかったんですか?」
「生まれた頃から同じ教育を受けていたという点では変わらないのかもしれないけど、オリジナルは幾らか年長さんでね。そもそもの素養が違ったのか、正直競争と言ってもまともな勝負にはなっていなかったと思う。私達がどれだけ頑張ってもオリジナルには遠く及ばない…………貴方の知る詠奈が余程可愛がられていた証拠としては、そうね。発言や行動の節々に真似が滲み出ているかしら。可愛がられているおチビさんは処分されないから、必然その次に来る詠奈が処分される事になる。要するに私だった。まあハメられただけなんだけど、それでも別に。大分最初から参ってたから死んでもいいかなって。おチビさんに優しくなれたのもそんな気持ちからだったわね」
「……………他の詠奈は、最終的にはその」
「ええ。全員処分された。私が生きているのは詠奈の慈悲に過ぎないわ。あの子がオリジナルを殺してくれたから……私を殺す運命はなくなった。王奉院の軛を引き受けてくれたから、影武者として自由を謳歌出来ているの。だから代わりに死んであげるくらい何でもないのよ。王奉院の歴史を背負わぬ詠奈なんて、何の価値もないんだから」