プロローグ
プロローグ
春の夕暮れが街を鮮やかなオレンジ色に染めている。
ずっしりと重たいトートバッグを肩に掛け、少女が家路を急いでいた。
麻木乙女。兜山第二小学校に通う五年生だ。
バッグに入っているのは、市の図書館で借りた本。司書のお姉さんから勧められた中から、迷いに迷い抜き、厳選した五冊だ。
『大江山の酒呑童子』
『兜山の昔ばなし』
『ジュニア版 日本の妖怪百選』
『本当にあったコワ~い昔ばなし』
『鬼と妖怪のヒミツ』
鬼や妖怪の本ばかり借りてしまったのは、しばらく前から人気を集めている、鬼と戦う剣士たちの漫画の影響だった。漫画を読み、アニメを見て、乙女は鬼や妖怪といったオカルトものにすっかりハマってしまっていた。
鬼や妖怪なんて実際にはいない、と分かってはいる。でも、「桃太郎」や「一寸法師」「こぶとりじいさん」のように、鬼の出てくる昔ばなしはたくさんある。奈良県には「鬼の雪隠」や「鬼のまな板」と呼ばれる巨大な石があるというし、「鬼頭さん」や「鬼塚さん」のように、「鬼」の字が入った名前だってある。
昔は、鬼が身近な存在だった。人間にはどうすることもできないような現象、災害や疫病などを、当時の人々は鬼や妖怪の仕業だと考えた。
だけど、と、乙女は思う。
もしかしたら、鬼や妖怪の姿を見ることができる人が、昔は本当にいたんじゃないかな。
科学技術が進歩したおかげで、人間は、どんなことでも説明ができるようになった。
病気はウイルスや菌によるものだから、魔除けのお札を貼ったり、お清めの塩をまいたりするよりも、手洗いやうがい、アルコール消毒のほうがずっと効果的だ。
気象衛星から送られてくるデータと、スーパーコンピューターの分析能力を合わせれば、台風の動きだけじゃなく、自分の住む町に、何時から何時まで、どれぐらいの量の雨が降るかだって分かってしまう。
地震がいつ、どこで発生するかは、まだほとんど予知できないらしいけれど、そのメカニズムは解明されている。火山の噴火だって、そうだ。
だけど、と、乙女は思う。
夜、道を歩いていて、ふと誰かに声を掛けられたような気がする。
誰もいないはずの部屋で、なぜか、誰かに見られているような気がする。
何人かの友達と遊んでいるときに、気が付くと、知らない子が交じっている。だけど、後になってから、ほかの友達に尋ねても、みんな「そんな子、知らない」と言う。
そんな、ごく当たり前の日常生活の隣に、ちょっと不思議なものが存在する。
それは、科学では説明できない。「ただの気のせい」とか、「何かの間違い」なんて言葉で片付けられてしまう。
だけど、もしかしたら、そんな「ちょっと不思議なもの」こそが、「鬼」や「妖怪」といわれるモノたちの仕業だったりするのではないか――。
そんなことを乙女が考えてしまうのは、彼女たちが通う学校に伝わる、七不思議の伝説と関係があった。
一、夜になると、校庭の隅にある二宮金次郎の銅像が動きだす。
二、夜になると、音楽室に飾ってある肖像画がしゃべりだす。
三、夜になると、理科室の人体模型が動きだす。
四、夜になると、体育館に女の子の幽霊が出る。
五、夜になると、無人の体育館倉庫から人の話し声がする。
六、夕方、校舎内に一人でいると、妖怪に声を掛けられる。
七、暗くなってきたら、校内の鏡の前に立ってはいけない。
このうち、一から五までは、普通の学校生活を送っている限り、まったく関係のない話だ。真夜中に学校を探検するなんて、先生に見つかったら怒られるだけじゃ済まないだろう。それに、似たような話は全国各地の小学校にもあるはずだ。
六だって、子供がいつまでも学校に残って一人で遊んだりしないように、「早く帰らないと、オバケに連れて行かれるよ!」なんて脅したものが、変化したのだろう。
しかし、七だけは微妙に雰囲気が違う。
「暗くなってきたら、鏡の前に立ってはいけない」。
鏡の前に立つと、どうなるのか。
ある人は、「花子さんが出てきて、捕まえられる」という。
ある人は、「鏡の中に引きずり込まれて、帰れなくなる」という。
ある人は、「鏡の中に、死んだ自分の姿が映る」という。
しかし、確かめた人はいない。
なぜなら、兜山第二小学校の校舎内には、ほとんど鏡がないからだ。
教室や職員室、理科室、音楽室だけでなく、トイレにも、手洗い場にも、階段の踊り場にも。およそ、普通の学校なら設置されていそうな場所のどこにも、鏡がないのだ。
乙女の知る限り、学校にある鏡は、体育館の壁に張ってある大きなものだけだ。その鏡だって、普段は鍵のかかる引き戸でフタをされている。授業などで必要なときだけ先生が鍵を開け、ガラガラと重たい音を立てて引き戸を開けるのだ。乙女がその鏡を見たのは、これまでで一度か二度しかない。
兜山第二小学校というのは、そんな、ちょっと不思議な学校なのだ。
取りとめもなく、そんなことを考えながら歩くうち、乙女は小さな公園に差し掛かった。
正式名称は「洞門第一公園」というのだが、誰もそんな呼び方をしない。公園の周りに桜の木がたくさん植えられているため、「さくら公園」と呼ばれていた。
もう少し大きな公園であれば、いまの季節は花見客でにぎわうのかもしれない。しかし、その公園は鉄棒と小さなベンチが一つあるだけで、空いているスペースには一年中、草がぼうぼうに生い茂っている。公園というよりも、草むらと呼んだほうがお似合いの場所だ。おかげで、花見といってお酒を飲んだり、騒いだりする大人が集まることはなかった。
乙女は、その公園がお気に入りだった。
特に、いまの季節、いまの時間。
夕焼けに照らされた桜が、白と、ピンクと、オレンジの混じり合った色で空に浮かび上がる。
その幻想的な美しさが好きだった。
図書館でじっくり時間をかけて本を選んだ理由の一つが、帰り道にこの景色を独り占めして、ゆっくりと見たかったためでもあった。
しかし、今日に限ってはその景色を独占することはできなかった。
(……あ。誰か、いる)
公園の隅、草が生えないようにコンクリートタイルが敷かれた場所に、一人の少年が立っていたのだ。
身長は乙女より少し高い。しかし、足元にランドセルが置いてあるのを見ると、年齢は同じぐらいだろうか。
少年は乙女に見られていると気づいていないようだった。何かを待つような顔をして、桜の木を見上げている。
(何してるんだろ?)
乙女は夕陽に照らされる少年の顔を、離れた場所からじっと見つめていた。
ザアッ。
不意に風が吹いた。無数の花びらが風に乗って飛び散る。文字通りの花吹雪だった。
スッ、と少年が腰を落とし、腕を振った。
左腰の近くに当てた右腕を、上に振りかぶったかと思うと、斜めに振り下ろす。
それは、鬼と戦う剣士が「〇〇流剣術・一の技」なんて決め台詞と同時に繰り出す、必殺技の動きにも似ていた。
右斜め上から左下へ。左下から右斜め上へ。上から下へ。下から上へ。
踊るようなステップを踏みながら、少年は何度か右腕を振った。まるで、その手に本物の刀を持って、見えない敵と戦っているかのように。
風が収まると同時に、少年は右手を開いた。顔の前に右手を近づけ、ふっと息を吹きかける。何枚もの花びらがふわっと舞い散り、小さな花吹雪を作った。
(え……? そんなこと、できるの?)
動体視力を鍛えているプロのスポーツ選手なら、舞い散る花びらを捕まえることもできるのかもしれない。
しかし、自分と同じぐらいの年齢の少年が、花びらを握りつぶすことなく、次から次へ、何枚も捕まえることなんて、できるのだろうか。
実際に目の前で繰り広げられた光景だったにもかかわらず、乙女は信じることができなかった。
再び風が吹き、花吹雪が舞った。
「えいっ、えいっ」
乙女は先ほどの少年のマネをして、花びらを捕まえようとしてみた。しかし、何度繰り返してみても、その右手はスカスカと空を切るばかりだった。
「……だめだぁ」
あきらめのため息をつく。先ほどの少年を探してみたが、すでに、どこにも姿はなかった。
「いっけない、早く帰らなきゃ!」
気づけば、あたりはすっかり薄暗くなっている。乙女は慌ててトートバッグを肩に掛け直し、家路を急いだのだった。
同じ日の夕方。
「あーもう、やっぱりヤメときゃよかった……」
島谷佳乃は、しんと静まり返った校舎内を、一人で歩いていた。
窓から差し込む夕日が、廊下を、教室を、鮮やかなオレンジ色に染めている。
廊下に、ゴム底の上靴が鳴らすキュッキュッという足音だけが響いた。
いつもなら、家で宿題を終わらせて、夕方のアニメを見ているはずの時間だ。そんな時間に学校にいるのは、宿題のプリントを教室に忘れて帰ってしまったからだ。
「宿題はプリント一枚だけだから、十分もあれば終わる。夕方から始めればオッケー!」
そう考え、家に帰ってからずっとゲームで遊んでいた。
「佳乃! いい加減、宿題をやりなさい!」
お母さんに怒られてしぶしぶランドセルを開け、初めて宿題のプリントがないことに気づいたのだ。
学校の正門は閉まっていたが、先生と生徒なら、ナンバーロック式の通用門から出入りができる。学校のすぐ近くに住んでいる佳乃は、これまでにも何度か、学校へ忘れ物を取りに行ったことがあった。
そのため、今回も「プリントを取りに行きなさい!」とお母さんに言われたのだ。
(『プリントを持って帰るのを忘れました』って正直に言って、先生に怒られるほうがマシだったかも……)
半泣きになりながら、佳乃は教室へ急いだ。
兜山第二小学校。
この学校には、不思議な伝説が伝わっている。
いわゆる「学校の七不思議」というものだ。
そのうちの一つに、「夕方、校舎内に一人でいると、妖怪に声を掛けられる」がある。
まさにいま、佳乃は校舎内に一人でいる。
(妖怪が、また声を掛けてくるんじゃないかな……)
そんなことを考え始めると、見慣れているはずの廊下や教室が、遊園地のオバケ屋敷よりもずっと不気味に見えてきた。
そう、「また」なのだ。
佳乃は以前にも、学校に宿題を取りにきたとき、誰もいないはずの廊下で名前を呼ばれたことがあった。
しかし、そのときはただの聞き間違いか、空耳だろうと思い、何も気にせず学校を出た。
怖くなったのは、家に帰って
「あの声、何だったんだろう……?」
と考え始めてからだ。
七不思議のことを思い出し、
「もしかして、あれが妖怪の声だったのかも……」
そう思い始めたら、学校が怖くてたまらなくなってきたのだ。
(急ごう)
佳乃はパタパタと音を立てて走りながら教室に入り、自分の席を目指した。
机の引き出しに入っていたプリントをつかみ、教室を出る。
廊下を走って、昇降口のくつ箱を目指す。
佳乃は知らない。
夕方、「黄昏時」は、かつて「逢魔が時」とも呼ばれていたことを。
逢魔とは、つまり、魔のモノたちに出逢う時間である。
昼と夜の境目の時間は、この世とあの世が混じり合い、不思議なことが起こりやすくなる。
草木も眠る丑三つ時、今でいう夜中の二時ごろと合わせて、この世のものではないモノたちの活動が盛んになるのが、逢魔が時なのだ。
「コラッ、島谷! 廊下ヲ走ッタラダメダロ!」
後ろから急にどなりつけられ、佳乃は驚いて立ち止まった。
「ゴメンナサイッ!」
慌てて謝る。
そして、謝ったあとで、思う。いまの声は、だれだったのだろう、と。
大人でも、子供でもない、かん高い声。先生も、生徒も、そんな声の人はいない。聞いたことがない。
でも確かに、いまの声は「島谷!」と、自分のことを呼んでいた。
後ろを振り返る。夕日が差し込む廊下に、人影はない。
(だれ、なの……?)
問いかけようとするが、喉がかすれて声が出ない。
「コンナ時間ニ学校デ何ヲシテルンダ!」
再び声がした。びっくりしすぎて、心臓が口から飛び出しそうになる。
そして、佳乃は見た。廊下の端に置いてある消火器の後ろで、何か――もしくは、誰か――が、動いたのを。
目を凝らす。
小さな人影が、消火器の後ろからひょこっと顔を出して叫んだ。
「早ク帰リナサイ!」
それは、オジサンだった。
しかし、ただのオジサンではない。消火器の陰にすっぽりと体が隠れてしまうぐらいの大きさしかないからだ。
ポヨポヨとした髪の毛がちょっと残っているだけのツルツル頭。ポッコリとしたお腹。ヨレヨレになった白いタンクトップシャツ。茶色い腹巻。白いステテコ。
お笑い芸人がそんな恰好をしているのを、佳乃はテレビで見たことがあった。
お笑い番組でそんな姿を見れば、何も考えず笑ったことだろう。
だけど、人気のない学校で。
明らかに、ヒトではない何かが相手だとしたら。
平静でいられるはずはなかった。
佳乃は泣きながら、全力で走り出した。
「いやあああああああああああああああーっ!!!!!」