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幾何学模様の泥汚れ

 地方都市の幹線道路を車で走っていた私は、十数メートル先に道の駅と書かれた看板を見つけ、少し疲労を感じていたこともあり、そこで少し休憩をしてついでに食事や何か珍しい物が売っていたら買おうと考えてゆっくり減速をしながら車を左へと寄せていき、道の駅の駐車場へと入って空きスペースを探すことにした。


 幸い、建物の入り口からは遠いものの、道の駅の駐車場に入ってすぐのスペースが空いていたので、そこへと車をバックで停めて、ドアミラーを畳んで暖房のスイッチを切り、ギアをパーキングに入れてサイドブレーキ――最近ではサイドについておらず、足で踏むタイプもあるのでパーキングブレーキというのが定着し始めているらしい――を引いて、エンジンを切ってドアを開ける。


 外に出ると海が近いせいかやや磯臭い香りがするものの、少し前まで降っていた雨で空気中の埃が落ちたのか澄んだ心地良い空気が肺に満たされていき、長く車に乗っていたためにどこか息の詰まっていた私にはその空気がとても心地良く感じられて、大きく伸びをしながら深呼吸をして冬の夕刻の少し冷たい空気を堪能した。


 そしてドアを閉めて鍵を掛け、道の駅の建物へと向かい歩いていくと、海が近いからだろうか干したわかめやこんぶ、魚などがパックに詰められて並んでおり、どこからか魚を焼いている香ばしくも少し焦げ臭さを感じさせる匂いが漂ってきており、食べるなら焼き魚も良いかもしれないと、そんなことを考える。


 とりあえずは腹ごしらえをしようと建物に入り、目についた食堂に入ると、やはりここで魚を焼いていたのか先ほど外で匂った香りが強く漂ってきて鼻孔をくすぐってきたので、私は入り口にある食券を売る機械に小銭を入れて当初の予定通り焼き魚定食の食券を購入し、カウンターに向かって中で調理をしている中年の女性へと手渡す。


 偏見かも知れないが、こういう店で働いている女性は元気が良くて愛想も良いと思っていたのだが、こちらをじろり、と一瞥すると受け取った食券の半分を千切り、残りの半分をこちらへと手渡してきて、水はセルフだよ、と小さく呟いて手でプラスチック製のコップの並んでいる方を指し示したので呆気に取られてしまう。


 女性の態度にやや辟易としながらも私はコップに水を注ぎ、適当に空いている席に座って改めて店内を見回してみると、夕食時にはやや早いがそれにしても人が余りいないように感じる。私以外の唯一の客は真っ黒な神父服のようなものを着た全身黒尽くめな男性だけで、これは店を選ぶのを失敗してしまっただろうかと心配したが、漂ってくる魚の焼ける匂いは美味しそうで、店員の態度の所為だろうと思うことにした。


 それから待つこと暫く、焼き魚定食の人と言う声が聞こえたので半分に千切られた食券を手にカウンタへーと向かい、食券を渡して定食の乗ったトレイを受け取ると香ばしい焼き魚の香りに胃が刺激されたのかきゅうっと腹が鳴ってしまい、聞かれたかと思って女性を見るもまるでこちらを見ていなかったので聞かれていなかったのであろうとほっと一安心する。


 定食の味噌汁が零れないように気を付けてトレイを運びながら、座っていた席へ戻ってテーブルの上にトレイを置いて改めて内容を確認すると、何の魚かは分からないもののやけに目の大きな焼かれた大ぶりでグロテスクな魚の乗った皿に大根おろしとかぼすが端の方に存在し、小鉢はひじきと豆の和え物、たくあんと白いご飯、そしてわかめと豆腐の味噌汁と言う焼き魚定食らしい焼き魚定食だった。


「そうそう、こういうのでいいんだよ、こういうので。やっぱり焼き魚って言ったら大根おろしだよな、これに醤油を掛けて魚の身と食べると魚の脂もしつこくなくなってさっぱりして上手いんだ。それにかぼすがついてるのも心憎いね、柑橘の爽やかな香りが堪らない。味噌汁も、具がわかめと豆腐とシンプルでいい、小鉢のひじきは外で売っていたのを使っているのかな? 磯の濃厚な香りがまた海の側の定食って感じがしていいじゃないか。それにたくあんの色もいい、俺好みの濃い黄色で旨そうだ」


 かぼすを絞って焼き魚にかけて、パリパリの皮を感じながら箸先で魚の身を解し大根おろしを少し乗せて口へと運ぶと、途端に口内へ広がるかぼすの香りと焼かれた魚の香り、噛んでいけば感じる濃厚な魚の味に大根おろしがあることで魚の脂がまろやかになって、シンプルだが上手い、シンプルイズベストなこの味は実家で昔、今は亡き母が焼いてくれた魚の味を思い出させる。


 私の母は料理の上手な人で、毎日、母の料理を食べることが出来ること、それがどれだけありがたいことだったかということに、自分で料理をして食事の準備をしなくてはいけないようになってから強く思うようになった。


 何を作るのか献立を考え、それに必要な食材を調べ、味付けには何を使うのかを調べ、それをメモしてスーパーに買い物に行き、家に帰ってそれを切って味付けをして配膳し、食べ終わったら食べ終わったで茶碗や皿だけでなく料理で使った器具も洗わないとならず、その面倒くささに早々に私は総菜を買って帰り、米だけ炊くという楽な方向に流れていった。


 父も別に総菜が食卓に並ぶのに文句を言うようなこともなかったので、料理をする機会はたまに週末に気が向いたときや、自分で食べたいものが出来たときくらいになったのだが、今にして思えばもう少し母に料理を教えて貰っておけば良かったと少し後悔したものの、母が包丁を扱わせるのが怖いと言って教えてくれなかったのでどうしようもない。

 

 隣で手伝いながら料理をしているところを見ていたのである程度の手順や味付けの仕方は覚えていたが、一度だけうろ覚えで味付けをしてしまった時はとてもじゃないが食べられたものじゃないものが出来てしまい、それ以降は良く分からない料理をするときはちゃんと調べるようにしたおかげか、不味くて食べられないというものを作ってしまうことはなくなった。


 そして父と二人で暮らしていたが数年前に父が他界してしまったので私は葬式や諸々の手続きが終わった段階で、遺産のうち家、土地、債券、株式など現金化できるものを全て現金化し、数十年勤めていた会社も辞めて退職金を貰い、それまでにしていた自分の貯金も含めてまとまった金を手に、気ままな日本縦断の一人旅に出かけることにした。


 私には兄と姉が一人ずついたが、兄は公職についていて金に困っておらず、姉は父が介護が必要になっても何もしなかった負い目からか、最後まで父の世話をしていた私に二人とも法律で決められた相続分も放棄して父親の遺産を全て譲ってくれたので、遠慮なく相続をさせてもらった。


 最初は実家が無くなることに二人は多少は難色を示したものの、独身で子供すらいない私には相続する相手もいないのだから身軽になっておきたいということと、長年の夢だった日本縦断の旅をしたいということ、もし私が死んだ場合はその時に残っていた現金は兄と姉で半分ずつ受け取って貰い、葬式は別に金を渡しておくのでそれでまかなって欲しいと遺言状を書いておくことで納得して貰った。


 実は二人には言う必要もないと思ったので言わなかったが、実家を売った理由は身軽になりたいというだけではなく、それがまるで自分をその土地に縛る鎖のように感じていて、私はいつかその鎖から解放されて自由になりたいとずっと思っていたからだ。しかし、仕事のことや親のことがあったので自由になる訳にはいかず、この機会を逃すともう自由になることは出来ないと思ったからである。


 そう、私は昔からここが自分の居場所ではないと感じていて、ならどこが自分のいるべき居場所なのか分からずにおり、色々な旅番組を見てはここだろうか、それともここだろうかと考えては何とも言えない違和感を胸に感じて生きてきて、両親の死をきっかけにようやく自分のいるべき場所、居場所を探すための旅に出ることを決意したのだ。


 とはいえそう簡単にここが自分の居場所だと想える場所には巡り合えないまま本州の最西端まで来てしまい、次は九州に行こうか四国に行こうかと目的地をどこにしようかと悩んでいるのだが、どちらに行ったものだろうか、定食を食べながらそんなことをつらつらと考えていると先客の男性が食べ終わったのか、席から立ち上がりトレイをカウンターへと戻しに行った。


 なんとなく、視線があったような気がしたので軽く会釈をすると向こうも会釈を返してくれてそのまま食堂を出ていったのだが、私の心臓は激しく動悸を打っており、もしや彼に聞こえているのではないかと思うほどに激しい動機が収まるのを、私は胸を押さえて待っていた。


 彼はサングラスをしていた、それにも関わらずまるでそのサングラスの奥から私の瞳を見つめるような視線を感じ、そしてその視線がまるで私の心や魂までも覗き込み全てを見通してくるような感覚を私は覚えて、その恐ろしさに激しく動揺してしまい、表に出さないことにはどうにか成功していたがあんな視線は今までに生きてきて一度も感じたことのないものだった。


 それから私は食事を終えていたが、どうやって食べたのか、何時の間に食べ終わったのか、最後は味も良く分からず、ただただあの視線の恐ろしさに冷や汗が流れてシャツを濡らし、濡れたシャツが肌に貼りついて体温を奪い、暖房の効いた店内でなければひどく震えていただろう。いや、もしかしたら自分は気付かない内に震えていたのかも知れない、何故ならトレイを食器の返却棚に乗せたとき妙に大きな音がしたからだ。その音に反応したのか、女性がじろりとこちらをねめつけるようにしてきたので、小さく謝罪の言葉を口にして私は食堂をそそくさと後にして、冷たい空気に体が凍てついていくのを感じながら車へと向かい小走りに駆けていった。


 駐車場の中、迷うことなく私は自分の車へと近づいていくと、停めたときは気にならなかったがバックドアガラスがやけに汚れていることに遠目ながら気が付いた。雨が降ったせいで黄砂や花粉と言ったものがこびりついてしまったのだろうか、後でスタンドなりによって洗車した方がいいかも知れない、そう思いながら近づき、その泥汚れを見たときだった。





 その泥汚れはまるで何者かが踊っている様を幾何学模様的に並べて繰り返しているようにみえるものでありその模様を見つめ続けているとまるでその汚れが実際に狂ったように踊りながら横へ横へと無限に動き続けていて上の段から下の段へと果てしなく繰り返されるそれはいつしかバックドアガラスをはみ出て私の周りをぐるぐると踊り出し取り囲むようになっていって私は踊りの中心で遥か彼方の全ての宇宙の中心に座し眠るかのように横たわりぶつぶつと沸騰しながら膨張と収縮を繰り返す恐ろしく悍ましい冒涜的な言葉を吐き散らしている不定形な姿をぐるぐると回る視界の中で幻視したような気がしてくらりくらりと意識が遠のいていき私の意識はまるで宇宙の果てのような深くて暗い闇の中へと沈んでいった。





 居場所、私が長い間探し求めて心から望んで欲していた居場所はここにあった。私は今、聞くものを不快にさせる狂ったリズムを刻む太鼓の音と、ひび割れたかのようなフルートの奏でる代り映えのしない演奏に合わせ、数えきれないほどの仲間と共にどろどろと沸騰するその存在の周りをぐるぐると、波ひとつない湖の水面のように狂ったままに踊り続ける其処こそが私の居場所だったのだ。

 私は今、とても満ち足りている。いつしか私は私と言う名の存在のくびきから解き放たれ私と言う形を失い、周りで踊り続ける者達と同じ存在になるだろう。

 その時こそが私が真に居場所に溶け込んだ瞬間であり、その瞬間こそが私の至高の至福の悦びの瞬間であり、究極の幸福が訪れる瞬間なのである。

 私は今、その時が訪れることを心から待ちわびながらぐるぐると終ることのない踊りを踊り続けているのだ。


 あのバックドアガラスに残された、幾何学模様の泥汚れのように。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 妙に不愛想な店員に、種類の分からない魚の料理。 そうした些細な違和感が蓄積されていく過程が、丹念に描写されていますね。 バックドアガラスに泥汚れで描かれた幾何学模様を見る前から、視点人物の…
[良い点] 家族の状況が生々しくて読んでいて困ります。 親兄弟の介護の話や相続問題。実家という重り。解決した事への解放感と、少しの葛藤。 それぞれが年を経ると誰にでも降りかかるものだけに、読み手もつ…
[良い点] 深い。 想像するといろいろな結論に至る。 答えのないもの。どこに答えを求めるかは自分次第。 場所なのか人なのか自分なのか家族なのか…… 誰かの妨げにはなりたくないので私が求めた答えは記さず…
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