05.ザウル湿原
「あれがザウル湿原ですか?」
「そうよ」
眼下には広大な湿地帯が広がっていた。
大小さまざまな形の沼が点在し、その隙間を縫うようにして幾つもの川が流れている。
エステルは歩きながらザウル湿原について教えてくれた。
ザウル湿原は、ミロン王国の北部から西部にかけて広がっており、この国の西の玄関口であるカリオペの町とアルテミシアの往来を酷く困難なものにしている。
通常アルテミシアからカリオペに行くには、ザウル湿原を南に大きく迂回しなければならず、しかもその道はあまり整備されていないため、馬車を使っても八日はかかってしまうらしい。
ただ、ザウル湿原には間道があり、馬は使えないが、徒歩でも四日あればカリオペに行くことができるそうだ。
「私達がこれから通ろうとしているのがその間道よ」
ただし、ザウル湿原には魔物が出没するから、腕に覚えがなければ護衛を雇う必要がある。
「魔物が出るんですか?」
「出るわ。でもそんなに強くはないから私なら余裕よ」
エステルは平然と言ってのけたが、でも、こんなか弱そうな体で本当に大丈夫なのだろうか……。
湿原が目前に迫った。
遠目ではわからなかったが、湿原には葦が三メートルほどの高さまで生い茂っており、非常に視界が悪い。
また、密度も濃く、人の侵入を思いっ切り拒んでいる。
そんな葦の群生の壁に、これから通ろうとしている間道らしきものが頼りなげに小さく口を開けていた。
エステルは間道の入り口に差し掛かった所で足を止め、俺の方にくるりと振り返る。
「私が先を歩くから、あなたはそのすぐ後ろを歩きなさい。で、もし魔物が出たら、荷物を抱えて急いで身を隠すこと。いいわね?」
「……俺は戦わなくてもいいんですか?」
「奴隷は荷物の心配だけしてればいいの」
後でわかったことだが、通常、奴隷には武器を持たせない。
主人を襲う恐れがあるからだ。
だから逆に主人を護衛する仕事もできない。
護衛が必要な場合は、傭兵を雇うのが一般的らしい。
「じゃあ、行くわよ」
簡単な打ち合わせが済んだところで、俺達はさっそくザウル湿原に分け入った。
間道は獣道のように細く粗く、曲りくねりながら湿原の奥へと続いている。
あちこちに水溜りやぬかるんだ所があって非常に歩きづらい。
俺は前を歩くエステルの足元を見ながら、できるだけ乾いた場所を選んで歩いた。
湿原に分け入ってから一時間ほどだろうか、やっと間道を歩くのにも慣れ始めた頃、それまで軽やかに動いていたエステルの足が唐突にピタッと止まる。
「ん?」
不審に思って目線を上げると、彼女は左側の葦の茂みの辺りを見るとはなしに見つめている。
目を細め、眉間にしわまで寄せながら。
……どうしたんだろう?
そう思った瞬間、彼女は急に振り返り、俺の後方を凝視しながら叫んだ。
「隠れて!」
「えっ?」
俺は彼女の視線に釣られ、とっさに後ろを振り返った。
すると、さっき通ってきた間道の脇からこっちに向かって物凄い勢いで突進してくる大きな物体が!
……な、なんだ!?
突然すぎて何がなんだかわからない。
でもそれは俺にガンガン迫ってきた。
そのギラギラした目は俺を直視している。
「ひぃっ!」
俺は恐怖のあまり足がすくみ腰が抜けてその場に尻餅をついてしまった。
「何してるのよ!」
エステルが怒鳴ったが、どうにも動くことができない。
「もう!」
エステルは怒った表情で俺を睨みつけた後、仕方なさそうにその場で何かもごもご言ったかと思うと、迫りくる物体に向け、杖を構えつつ叫んだ。
「氷の茨!」
途端、物体の表面全体に白い網目模様が浮かび上がり、その動きが目に見えて遅くなった。
さらに彼女は、また何かもごもご言いながら俺の前まで移動すると、天に向かって杖を振りかざし、叫ぶ。
「氷の矢!」
すると、今度は杖の先に無数の白い粒のようなものができ始めた。
そしてそれらがわずかの間に先端の尖った棒の形に収束したところで、彼女はここぞとばかりに杖を勢いよく振り抜く。
シュッ!
その棒は空気を切り裂く音を立てながら高速で飛んでいき、見事にその物体の眉間にグサッと突き刺さった。
「ギュワォ……」
物体は小さな呻き声を上げたが、それ以上動くことはなく、硬直したまま横に倒れ込んだ。
「早く隠れなくちゃだめじゃない」
その物体が完全に動かなくなったのを確認すると、エステルは振り返って腰に手を当てつつ打ち合わせ通りに身を隠さなかった俺を責めた。
彼女は何事もなかったかのように落ち着いている。
「い、今のが、マ、マモノ?」
一方、俺は恐怖と緊張でまだ震えが治まっていなかった。
「そうよ、青白く光ってたでしょう?」
「こ、怖くてそこまでわかりませんでした」
俺はエステルの手を借りて何とか立ち上がった。
……カッコ悪い。
と思ったが、同時に「無理もないじゃないか」とも思う。
だって、今まで普通の動物にすら襲われた事などないのだから。
あんなでかいヤツは動物園でしか見たことがない、ヒグマや白熊に匹敵するサイズ。
そんなのが自分めがけて突進してくるんだから……。
たぶん現代の日本人なら誰だってビビるはずだ。
俺は恐る恐る死んだ魔物に近付いてみた。
一瞬普通の熊かと思ったが、よく見ると足が六本もある。
体が紫と茶色のまだらになっていて、まだうっすら青白く光っていた。
「ダークベアっていうの。魔物の中ではかなり弱い部類よ」
横でエステルが事も無げに言う。
「でも、いくら弱くてもさっきみたいに邪魔されると対処できなくなるかもしれないから気をつけなさい」
「すみません。初めて魔物を見たので足がすくんでしまいました」
俺が正直に言うと、
「まあ初めてなら仕方ないか。でも次はすぐに隠れるのよ」
彼女は大目に見てくれた。
「……さっきエステル様が使ったのって魔法ですか?」
「そうよ。水の魔法」
「初めて見ました」
アニメやゲームほど派手じゃないけど、リアルに氷ができることに感動してしまった。
「本当は火の魔法が得意なんだけど、ここで使うと葦が燃え出して面倒臭くなりそうだから水の魔法を使ったのよ」
「なるほど」
彼女はあんな大きな魔物を一瞬で倒してしまった。
しかも、ちゃんと周りの状況まで考えて。
すごいの一言だ。
とりあえずこの人がそばにいれば、魔物を恐れる必要はまったくなさそうだ。
俺は落ち着いて自分のやるべきこと、「すぐに隠れる」を実行するだけでいいのだ。
またエステルが歩き始める。
俺はさっきよりも意識して、できる限り彼女のすぐ後ろを歩くようにした。
次に現れたのは犬のような魔物だった。
今度は青白く光っているのがはっきりとわかった。
ぱっと見は赤黒い体毛を持つ大型犬といった感じだが、足が普通の犬に比べて異常に太い。
それが吼えながらエステルに向かって走り寄ってきたのだ。
「マーシュドッグよ!」
エステルはそう言うと、即座に呪文を唱え始める。
「っ!」
俺はすかさず近くの茂みにさっと身を隠した。
が、
「もう出てきていいわよ」
なぜかすぐ彼女に声をかけられる。
不思議に思いつつも間道に出ると、先ほどのマーシュドッグは頭と胴体が離れた状態で近くに倒れていた。
「さ、行きましょう」
「……は、はい」
本当に怖いのは魔物ではないような気がしてきた……。
その後もダークベアやマーシュドッグが度々出現したが、エステルは難なく倒してしまった。
「私なら余裕よ」と言うだけあって、その実力は伊達じゃなかった。
******
西の空が夕日で赤く染まり始めた頃、突然開けた場所に出た。
エステルはふうっと息を吐き、後ろの俺に告げる。
「今日はここで野宿よ」
彼女の話によると、ここは「ザウルのヴァルハラ」と呼ばれているらしい。
地面が他の場所よりしっかりしていて、ぬかるみがない。
見晴らしもいいから魔物が出てもすぐにわかる、野宿には最適の場所だ。
間道沿いにはこのような場所が幾つかあって、ここを通る者達の疲れを癒す場所になっているらしい。
あちこちに焚き火の跡がある。
今も二つのグループが火を囲んで休んでいた。
エステルは辺りを見回した後、おもむろに焚き火跡の一つに近付く。
「まだ薪が燃え残ってるからここにしましょう」
「はい」
俺達の野宿場所は決まった。
彼女は杖を脇に置き、近くにあった手頃な石に腰を下ろした後、疲労の溜まったふくらはぎを手で揉み解しながら、
「火をおこして」
と、当たり前のように俺に指示する。
「……はい」
釣られて返事はしてみたものの、ライターもマッチもない。
「……あのう、どうやって火をおこすんですか?」
「えっ!?」
エステルがびっくりした表情で俺の顔を凝視する。
「火もおこせないの?」
「……はい」
「呆れた、どれだけいいとこの坊ちゃんだったの?」
「すみません」
「ちょっとそのバッグ貸して!」
俺がショルダーバッグを差し出すと、彼女はそれをふんだくるようにして掴み取り、側面のポケットから小さな箱を取り出した。
その箱の中には、火打石など火をおこすために必要な道具が一式入っているようだ。
彼女はそれらを器用に使い、あっという間に火をおこしてしまう。
「おおっ、すごい!」
俺が思わず感嘆の声を上げると、
「こんなの子供でもできることよ」
彼女は呆れ顔でため息をついた。
「……でも、エステル様なら火の魔法とかでばっと火をおこせるんじゃないんですか?」
疑問に思って質問してみた。
「できなくはないけど、魔法は意外と疲れるのよ」
彼女は百メートルくらい先にある小さな木を指差しながら言う。
「例えば、あの木まで全力で走れば体力が消耗するでしょう。それと同じように魔法を使うと精神力が消耗するのよ。『精神的に疲れる』と言った方が分かり易いかしら」
彼女は火打石を見せながら話を続けた。
「火をおこすのにこんな便利な道具があるのに、わざわざあの木まで全力で走る人はいないでしょう?」
「なるほど」
確かにその通りだ、無駄に疲れる。
「まあ、私のように魔法に熟達した者なら、精神力の消耗を多少は抑えることもできるんだけどね」
彼女は自慢交じりに付け足した。
その後、俺はエステルの指示で食事の準備を始めた。
まずショルダーバッグから小さな鍋と水筒を取り出し、お湯を沸かす。
沸いたらそこに干し肉と乾燥野菜を入れ、味付けに塩と胡椒のような物を入れて煮る。
それだけだが、しばらくするとおいしそうな匂いが漂ってきた。
「おいしそうですね」
「奴隷は後だからね」
彼女は素っ気なく言った。
鍋ができあがると、エステルは焼き締めたパンと一緒に食べ始める。
その様子を見ていたら腹がぐーっと鳴ってしまったので、俺はできるだけ彼女を見ないようにしていた。
「んっ」
しばらくして、食べ終わったのかエステルが俺の方に鍋とパンの切れ端を差し出してきた。
「ありがとうございます」
礼を言ったが、彼女はどうでもよいといった感じでそっぽを向いている。
ただ、鍋の中を見ると、
「……」
半分より少し多めに残っていた。
……この人はたぶん優しい人だ。
何となくそう思った。
食べると異常にうまく感じたが、それは空腹のせいだけではないような気がした。
俺が食べている最中、エステルは夜中の見張りの順番を決めるために他のグループと話し合いを行っていた。
ヴァルハラでは野宿しているグループが順番に見張りをし、もし魔物が出た場合はみんなで対処する、ということが暗黙のルールになっているらしい。
俺が食べ終わった頃、エステルが戻ってくる。
「私達の見張りの順番は三番目よ」
彼女の話では、一から四まである順番のうちの三番目、一番辛い時間らしい。
「お願いね」
「……はい」
もちろん見張りは俺一人、エステルは普通に寝る。
「さて、寝るか」
全ての用事を済ませたエステルは、帽子を脱ぎ、ショルダーバッグを枕代わり、マントを毛布代わりにして、焚火の近くで横になった。
あらわになった彼女の豪奢な金髪が火に照らされてキラキラ輝いている。
「……」
その美しさに思わず見とれていると、俺の視線に気づいた彼女が、
「あなたももう寝ていいわよ」
と見当違いのことを言った。
俺が「寝てもよい」という指示を待っているとでも思ったのだろう。
「……はい」
俺もわざわざ否定せず、彼女の勘違いに便乗してその場で横になろうとした。
が、その様子を見ていたエステルが慌てて上半身だけを起こし、五メートルくらい先の方を指差す。
「あなたは奴隷なんだから、私から少し離れて寝なさい」
どうやら奴隷は野宿の時ですら主人の近くで寝られないらしい。
「……はい」
俺はその指示に従って彼女から少し離れた所まで移動し、そこで横になったのだった。
******
……誰かが俺の肩を軽く叩いている気がする。
目を開けると、知らない男が俺の前に立っていた。
「交代の時間だ」
「……あっ、はい」
俺の見張りの時間がきたのだ。
見張り役はこのヴァルハラの真ん中で辺りを警戒し、青白い光が見えたら大声でみんなに知らせることになっている。
「お前の次はあそこで寝てる奴だから、時間がきたら交代しろ」
それだけを告げると、男は大あくびをしながら自分の寝床に戻っていった。
見張りの時間は一本のろうそくが燃え尽きるまで、二時間ほどらしい。
……寝ちゃダメだ、……寝ちゃダメだ、……
俺は時々頬を叩いたり手をつねったりして、ひとり睡魔と激しく戦い続けていた。
幸い、魔物は現れなかった。
俺は次の見張りの人を起こし、さっきまで寝ていた所に戻った。
エステルはぐっすり眠っているようだ。
……それにしても、何てかわいい顔をしてやがるんだ。
俺はここぞとばかり彼女の顔を覗き込む。
寝顔だけを見ると、本当に天使のようなのだ。
……これでもう少し性格が良ければなぁ。
起きている時とのギャップに苦笑せざるを得ない。
ただ、もしかしたら……
俺は地べたに横になって、焚き火に照らされたエステルの安らかな寝顔を遠目に眺めつつ、静かに眠りについた。
******
…………うっ!?
翌朝、脇腹に激しい痛みを感じて目が覚めた。
見上げると、目の前にエステルが立っていて、恐らく二発目であろう蹴りを今まさに入れようとしている。
「くっ」
俺は辛うじてそれを手で受け止めた。
すると彼女は、不満そうにちっと舌打ちをした後、
「いつまで寝てるのよ、早く起きなさい」
と、怒りながら言った。
「すみません……」
昨日と同じ起こされ方だ。
それにしてもこの人はもう少し優しく起こせないのだろうか。
……昨日「優しい人」と思ったのは取り消しだな。
俺は脇腹を押さえながら渋々起き上がった。
今日、空は曇っていた。
周りでは他のグループの人達が川で顔を洗ったり、朝食の準備をしたりしている。
俺はエステルの指示で鍋に水を入れ、それを火にかけた。
お湯が沸くと、エステルはショルダーバッグから黒い粉末状の物を取り出し、それをささっと鍋の中に入れる。
「……それは何ですか?」
「え? ああ、スティーナっていう飲み物よ」
……スティーナ?
色や香りからするとコーヒーのような飲み物だろうか?
そんなことを考えながらぼーっと鍋を覗き込んでいると、エステルが鍋を持ち上げてその中身を木のカップに移し、
「あなたも飲んでみる?」
と、まだ半分ほど残っている鍋の方を俺に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
俺は礼を言ってから、とりあえず一口飲んでみる。
やはりコーヒーの味だ。
……懐かしい。
会社にいた頃、眠気覚ましに一日五杯以上コーヒーを飲んでいたことを思い出した。
その後、彼女は焼しめたパンを割り、その半分を俺に渡した。
「ありがとうございます」
パンとコーヒー、久しぶりの朝食っぽい朝食に俺は感動しつつゆっくり食べていた。
のだが、その途中、いつの間に準備を終えたのか他のグループの人達が思い思いの方角に向けてヴァルハラを出発し始めたため、
「さあ、ぐずぐずしてないで私達も行くわよ」
と、エステルに急かされてしまい、結局パンを頬張ったまま荷物をショルダーバッグに詰め込むという忙しない朝になってしまったのだった。
ヴァルハラを出発するとさっそくダークベアが二匹ほど現われたが、エステルが難なく撃破した。
彼女は俺に隠れろとか言っておきながら、俺が隠れようとした時にはすでに魔物は動いていなかった。
それくらい彼女の力は魔物に対して圧倒的だった。
******
昼過ぎ、
「前に山脈が見えるでしょう?」
エステルが歩くペースを若干緩めて珍しく俺に声を掛けてきた。
見上げると、俺達が進んでいる西の方角に南北に連なる山々が。
「はい」
「あれはエゴール山脈って言うんだけど、ほら、あそこに一箇所だけ切れ目があるのがわかる?」
「ええ、わかります」
「あの辺りにカリオペの町があるわ」
彼女の話では、ヴァイロン王国に行く場合、まずミロン王国の西隣にある「アルキス王国」に入国する必要がある。
アルテミシア方面からアルキス王国に行くには、エゴール山脈の切れ目「カリオペの谷」を通ることになるのだが、その谷の入り口にカリオペの町があるそうだ。
「まだまだ先は長いけど、目標がわかっただけでも励みになるでしょ」
エステルはそう言うと前に向き直り、またさっきと同じペースで歩き始めた。