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『消えたはずの記憶』

 薄暗い室内、月明かりに照らされた人影、どこか見覚えのある光景。あの時この場面を見たのは、一体何回目だったのだろうか?


 俺の記憶にある彼女と、今見える彼女はまるで別人のようだった。今より感情に乏しい表情、話しかけても言葉は返ってこず、まるで物言わぬ人形みたいだ。


 こちらの言葉を理解しているのかそうでないかさえも分からない。極端に喜怒哀楽が少なく、瞬きはするがそれ以外の動きはせず、何をするにも見つめていることが多かった。


 返せないのではなく話せなかったと分かったときは酷く驚いたものだ。今思うと長い間一人きりだったのだからそうなってしまうのも当たり前だったのかもしれないと納得している。誰とも話さず、たった一人、静かな部屋で過ごす日々は、どれほどの孤独を彼女に強いたのだろうか?


 いかなる理由があったにせよ、それは彼女を縛り付けた。


 仕事場に()()()連れてきたときのことを思い出す。出された紅茶に手を付けず不思議そうに見つめる彼女は、まるで(けが)れを知らない小さな子供のようだった。見慣れないものにすぐ興味を示し、いつの間にかいなくなって困らされたときもある。


 思えばサルファーやウィスタリアにいたときからその傾向はあった。放っておくとどこかに行ってしまう気がしたのだ。だから大人しくするように言ったのだと、今更ながらに納得する。


 一体どこに消えていたのかと思うほど、彼女と過ごした日々が次々と鮮明に思い浮かぶ。


 ――あぁ、そうだ。()()はウィスタリアから逃げる時、彼女は羽を出しはしなかった。成す(すべ)もなく取り囲んできた兵に捕らえられ、彼女は城へ連れ戻された。俺は天使を連れ出した罪で監獄へ入れられ、その後の記憶は、何故かない。


 真っ暗な意識から浮上すると、俺は見慣れた部屋で同じ依頼を受けていた。再び彼女と出会いウィスタリアへ行くまではいつも同じだった。その後の展開は多岐に渡り、此度の俺には知ることのないはずの光景が見える。


 それは活気溢れる港町だったり、雪が降り積もる山だったり様々だった。どこに行こうとも結局ベゴニアへ向かうことになるのに変わりはなかったが、今思えばウィスタリアは分岐点だったのだ。


 最終的な結末は彼女が天に帰るか、俺が手詰まりになるかの二択だった。どちらにせよそこまで辿り着くと、何故か全てがリセットされ最初の場面に戻されていた。


 何度繰り返してもこの事実に気付くことはなかった。今までも、いや、今この瞬間まで。――まるで繰り返すことが義務付けられているかのように。


 引き継がれない記憶は、ただ世界を円滑に回すために全て消されるだけ。世界の歯車の一部である俺には、その流れを変えることはできなかった。


 そんなことにも気付かぬまま、一体どれほどの時間(とき)が流れたのだろう? いつの間にか、俺は何かに違和感を覚えるようになった。


 最初に疑問を抱いたのは、彼女と話をしていたときだ。いつも一方的に話しかけていたはずなのに、その頃から少しずつ会話ができるようになっていった。


 それとほぼ同時期に見知らぬ場所、見覚えのない景色に既視感を感じるようになった。小さい違和は次第に大きくなるが記憶にない以上、どう足掻いてもそれが解消されることはなかった。


 さらに違和感はそれだけではなかった。何度も彼女に出会い直す度に、俺は次第に奇妙な感情を抱くようになっていた。それは本来抱くはずのない感情。結末が決まっているこの世界で、抱けるはずがなかったもの。


 ――そう、俺は彼女に恋をしたのだ。消されるはずの記憶が少しずつ積み重なり、それは想いに変わっていった。実るはずのない儚い恋。これだけは誰も、俺すら予想していなかった、俺自身の最初の変化だった。


 決められたシナリオは、俺が終わるか彼女が帰るまで続けられる。これは彼女を天へ帰すための物語。それが叶うまで、いや、叶っても決して終わることはない。だから俺達は出会いと別れを繰り返していく。彼女のための、この鳥籠(とりかご)の世界で。




 しかし繰り返していくだけと思われた世界に、ある日明確な変化が訪れた。


 いつの頃だろうか? 俺達を捕まえようとする動きに、変化が起こり始めたのは。どこに行こうとも彼らは必ず彼女を連れ戻そうとしていた。それなのに、徐々に彼女ではなく俺を狙うようになった。


 いつもは捕まったらすぐに監獄へ入れられるだけだったのが、何かを探るかのように尋問され、それが上手くいかないと悟ると拷問に変わり、時折試すように(むご)たらしい仕打ちを何度も受けた。それで何度死んだことだろうか。


 何故こんなことをされるのか理由は分からないがこれだけは分かる。彼らに捕まったが最後、生きて彼女の元へ帰ることはないということだ。


 彼女はそれを知っていたのだろうか? 別れ際、明らかに動揺していた彼女を思い出す。それなら俺はもう、彼女に会えないのだろうか?


 ――いや、そうではない。きっとここで俺が死んでも、俺はまた彼女に会うのだろう。あの城で、記憶をリセットされ、再び繰り返すのだ。彼女が天に帰るまでの、この旅路を。この世界が壊れるまで、永遠に――。


 ただ、願うならば。今の彼女とまだ一緒にいたかった。次の彼女ではなく、今の彼女と。ミティスと共に。


 初めて見せてくれた彼女の本音と交わした約束を思い出す。何度も破ってしまった彼女との約束。一度だけ行くことができた勿忘草の花畑で、二人きりで誓ったのに。不甲斐ない自分が何度も捕まり死んだせいで、果たすことができていないことを、俺は今、確かに思い出したのだ。


 今度こそ彼女との約束を果たすためにも、俺は彼女の元へ戻らなければならないのに。真っ暗な視界、重たい身体、また死に向かっているかのような感覚に、どうしようもない喪失感が募る。


 やっと彼女の本音が聞けたのに。また俺の記憶から消えてしまうのだろうか。誰かと約束をしたと、それが俺だったらと吐露(とろ)した彼女が思い浮かぶ。


 あぁ、やっとここまで来たのに。もう少しで約束を果たせそうだったのに。また悲しい思いを重ねさせてしまう。そんなことはさせたくなかったのに。


 この暗闇から目覚めた時、俺はどこにいるのだろうか? また最初からなのか、それとも――。

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