*第67話 零の割り算
無償の愛と人は言う。
親が子を慈しむ、子が親を慕う、
見返りを求めぬ思い。
人はそれを至上の愛として尊ぶ。
それが無自覚の強欲であると気付かぬ儘に。
***
「良いですねフリーデル、
この小箱を必ずエルサーシア様にお届けするのですよ。」
箱の中にはエルサーシアが好きだと言った
曼殊沙華の刺繍がされたハンカチが入っている。
「はい母上!一緒には行かないのですか?」
何も知らない我が子を抱きしめながら
アナマリアは、今生で最後の言葉を紡ぐ。
「後から行くわ、まだ用事が残っているのよ。
ちゃんとお使いが出来ますね?」
「お任せ下さい母上!」
「良い子ねフリーデル、愛しているわ。」
「僕も愛しています母上!」
もうこれ以上は駄目だ、泣いてしまう。
我が子に見せる最後の顔は笑顔でなければならぬ。
「お願いしますわね・・・レイサン卿。」
それだけ言うのがやっとである。
「承知致しました。さぁ殿下参りましょう!」
カルアンは努めて明るく笑顔で促した。
「行って参ります母上!」
アナマリアは微笑みながら手を振るのが精一杯であった。
マルキスは無言のまま頭を下げた。
離宮を去る二人と残る二人。
もう二度と顔を合わせる事は無い。
悲しみを隠す為の笑顔は、こんなにも苦しい。
「さぁお部屋に参りましょう、マルキス様。」
まるで何事も無かったかの様にアナマリアが言う。
「あぁそうだね、行こう。」
二人きりの部屋の中、アナマリアが戸棚を開き
ワインと小さな小瓶を取り出す。
「苦しむ事も無くお休み出来るそうですわ。」
二つのグラスに注ぐ。
「最後の乾杯が王家の甘露になるとはね。」
辛党のマルキスは苦笑いをする。
「此処にはこれしか有りませんもの」
「すまないマリア・・・私のせいでこんな---」
「いいえ!それは違いますわ!」
それ以上の言葉をアナマリアは許さなかった。
「私は今とても幸せですのよ!」
とアナマリアは言った。
「フリーデルの事は心配ありませんわ、
ダモンの皆様にお任せ致しましたもの。」
「信頼しているのだね。」
「えぇ!パトラシア様は親友ですのよ!」
そうか・・・親友か・・・
私には居ないなと羨ましく思った。
「乾杯を致しましょう。」
「あぁ、愛しているよマリア。私のアナマリア。」
「えぇ愛していますわマルキス。私のマルキス。」
二人はワインを飲み干し、唇を重ねた。
***
陸軍特命に依るマルキス捕縛部隊は
離宮ターターリニ宮殿へと続く道を駆け抜けていた。
遠くに立ち昇る煙が薄闇に浮かび上がる。
(これはマズイかも・・・)
隊長ワイアトールは焦った。
捕縛隊が離宮に到達した時には、
木造の建物は既に炎の宮殿と化していた。
「間に合わなかったか・・・」
ワイアトールが悔しそうに呟く。
「突入は無理だよぉ、どうする?」
ドコが指示を仰ぐ。
こうなってはどうしようもない。
真実は闇の中で燃え尽きるだろう。
「最後まで見届けてやろう。」
「不謹慎だけど・・・奇麗だねぇ・・・」
ぼそっとドコが呟く。
すっかり日も落ちて、何時もならば虫の音が響く丘に
轟々と炎が立ち昇る。
その灯りに照らされて血の色よりも赤く曼殊沙華が浮かび上がる。
ゼロはゼロでしか割る事が出来ない。
無償の愛には、同じく無償の愛で答える以外に解が定まらない。
無償の愛を与える事は、
無償の愛を求める事に等しいのである。
業に生き、業に死して、
尚その屍を拾う者は無し。




