告げる
この作品をお選びくださってありがとうございます。
過去の自分と今の自分の力を合わせて、やっとこの作品が完成しました。
当時の私が表現しきれなかった生々しさや歪さを加えて、この家族の姿を納得のいく形にできました。
あなたの心に、この物語の異様さや気味の悪さが残りますように。
男の妻が死んだのは今から十日前のことである。鞠のように丸まった姿勢で転がっていた妻の手には、血塗れた娘の名前の入った鋏があったそうだ。男が帰宅したときには既に死後硬直が始まり、体は恐ろしく冷たかった。
男と一回り歳が離れた妻に両親はなく、葬儀は男の親族と、ある程度妻と交流のあった人が僅かに参列しただけだった。十歳になったばかりの娘は、自分の母の死を理解することが出来ない様子で、ただ呆然と虚空を眺めていた。二十歳になる息子は自分の母の棺の前に跪き、静かに微笑んでいた。母を笑って送ってあげたいから泣かないのだと、息子は棺に白菊を入れると、心の幼い十離れた妹の面倒を見ると言って立ち去った。そんな息子の後姿を見つめた男は、薄情なやつだと罵りたくなった。男にとって、妻の死は鋭利な刃物が襲ってくるような恐怖と悲しみであり、降ってきた切っ先が身を貫くような思いがした。
美しく聡明だった妻を失った事実は、男の心を醜く蝕んだ。
しかし男が半狂乱になる前に、おかしくなったのは娘だった。元々身体と心の調和がとれていない娘を、男は遠ざけていた。男の顔を見れば癇癪を起こし、時折失神する娘はひどく不安定で、男の手には到底負えるものではなかった。しかし妻はその度娘を抱きしめ、揺りかごのように体を揺らしながら娘を慈しんだ。狂人の娘に愛を注ぎ続ける妻は、もしかしたら聖母なのかも知れないと、男はより一層妻を愛した。
妻の死後、娘の世話は全て息子が担っていたが、それでも妻のようには世話できないようであった。時折娘の部屋からは呻くような叫び声が聞こえたが、娘は正気に戻るどころかますますおかしくなっていった。散らばった大量の紙屑と血痕を娘の部屋で見てしまった時は、いよいよ娘が人間ではなくなったと男は恐ろしくなった。紙屑には意味の無い文字の羅列が延々と書かれ、軽い怪我とも思えない血痕は布団にべったりと染み付いていた。それは全て娘による所業だと男はすぐに分かったが、だからといって心配する気持ちは微塵もなかった。むしろ狂人を閉じ込めてくれる牢獄となった部屋は、自身を守る砦となったことに男は安堵した。息子は娘の世話役となり、男は一切として娘に関わる必要がなくなったのである。それは妻を失った男にとって、唯一の喜びだった。
だが妻が死んでから十日経ったその日、娘は突然部屋から出た。世話役だった息子は職務を放棄したらしく、そういえば今朝から姿を見ていなかった。牢獄が破られたことで気をおかしくした男は、娘が目の前に現れた瞬間、娘を引き倒し罵倒した。口汚い言葉の数々を浴びながら、娘はぼんやりと男の顔を見つめていたが、何かを思い出したように突然娘が男へ手を伸ばした。男はさらに発狂し、その手を払い除けようとした。が、視界に入った娘の腕が陶器のような輝きを持っていることに、男は気づいた。化け物のような娘には不釣合いなほど美しいその腕は、もう二度と触れることのできない妻の腕と同じだった。手首にある複数の傷は緻密に計算され与えられたデザインのようで、白い肌と黒々とした跡の危ういコントラストが、男の胸を昂らせた。そして腕に付随した白い手が男の頬をゆっくりと包んだ。それは赤子が神に生を受ける儀式のような厳かさを孕んでいた。
「総一郎さん」
娘は男を見つめながら、はっきりとそう告げた。それは妻の男の呼び名だった。男は自身の頬を包んでいる娘の手の上に、自らの手を重ねた。娘の手は見た目通り柔く、男が少し力を入れたら粉々になりそうな不安定さがあった。しかし男は触れる娘の手に擦り寄った。娘の瞳は闇を零したように黒く、光を宿してはいなかったが、男にとってそれはどうでもいいことだった。妻の魂が宿った娘を、男は縋るように抱き締めた。
さて、それまでは娘を視界に入れようともしなかった男が娘を連れて歩くようになり、周囲は不思議がった。娘は相変わらず虚ろで表情というものを持っていない様子であったが、男は娘の手を引き、嬉々としていた。周囲は男を気味悪がって、妻を失ったことで狂人となったのだろうと噂した。娘は妻の魂を宿したが、それを家の外では秘めていた。心のバランスが崩れていた娘がいきなり正気になっていたら変に思われるだろうと、妻の魂が言ったので男もそれを納得し、互いの秘密にしていた。
娘に宿った妻の魂は、家の中でのみ朗らかに笑い、男を優しく気遣った。傷だらけだった体は男が手厚く介抱したことで癒え、艶やかな白さを取り戻していった。男は娘がこんなに美しい体を持っていたとは知らなかった。妻の魂にそれを告げると、娘の口元を静かに形を変えさせ、娘の手を動かすと男の手の甲をなぞった。男の爪を娘の指先が滑り、鍵盤から音を奏でるように丁寧に撫で上げた。男はそのこそばゆさに身を引いたが、娘の体を動かす妻の魂は、初心な男の反応をからかった。男は仕返しをするかのように、その腕を引き娘の体を抱き寄せると、妻の名前を囁いた。妻の魂は娘の喉を鳴らして喜び、男の背に手を回した。娘の体の妻は体温が高く、男は妻の魂が熱くはないのかと思った。妻の魂は「総一郎さん」と娘の声帯を震わせ、言葉を発した。男は妻の魂に導かれるように娘の体に触れた。妻の魂を体に入れた娘の体は、全てが美しかった。清らかで、夫である男以外は何も知らない無垢なそれに、男は笑みを隠すことができなかった。
妻の魂は変わらず娘の体に在り続けたが、娘の魂の行方は男も妻の魂も知らなかった。妻の魂は娘のそれを自分が追いやったのではないかと悲しんだが、男にとって娘の魂など価値はなかった。男は妻の魂がここにあれば、娘の魂など無くても良かった。狂人の娘はもうこの世のどこにもいないのだとすら思った。娘も妻の魂を抱えたまま成長したほうが幸せだろう。聡明な妻は娘の体で再び生き、狂人は葬り去ってしまえばいいと男は笑った。すると妻の魂はそれを肯定せず、ただ黙ってしまうのが常だった。
男は妻の魂が宿った娘の姿を見ていると、とうとう妻が死んだということは自分の気が違っていただけだったのではないかとすら思い始めた。娘と同じ空間に住んでいたせいで、娘の気狂いが自分にまで及んだのではないかと思った。男は娘の存在を否定してきた自身が、娘と同じ存在に成り下がっていたことが恐ろしかった。だが妻の魂はそんな哀れな自身を救い、男を常人へと戻してくれたのだ。妻は男にとって失うことのできない支柱のようであり、男はもはや自分は妻が居なければ意味を為さない存在になったのだと思った。男の妻への愛は深まるばかりだった。男の依存は度を越していき、一時として娘の体に宿る妻から離れることはなくなった。妻の魂はそんな男を拒むことはせず、ただ静かに存在し続けた。
だが男は、時折妻の魂がいつか離れていくのではないかと泣きじゃくる日があった。大声を立てて喚き散らし、感情を抑えることができなくなることが度々あった。あるときは、夜寝ていた男が突然目を覚まし、家から飛び出して行ったことがあった。そしてふらふら彷徨いながら妻の名前を呟き、徘徊し続けたのだった。その様子は狂人の娘の姿と重なり、周囲はいよいよ男が化け物になったと思ったのだった。しかしそのような男の心配とは裏腹に、妻の魂は消えることはなかった。目が覚めて娘に挨拶をすれば、妻の言葉が返ってくることが当たり前となっていた。
そうするうちに男はもう泣くことはしなくなった。だがその代わりにひどく心が幼くなっていった。娘の膝に手を置き、子供が母親にねだるような目をして、髪を撫でてもらうことが幸せとなったのだった。男は自らの奇行に気がつきながら、構わず幼子のようで在り続けた。世話の焼ける存在でいれば妻の魂は自分を癒し、愛してくれるだろう。男は妻の愛の全てを求めるようになっていたのだった。妻の魂は娘の体を器用に扱い、男の髪を指で梳かした。その仕草は春風がそよぐような心地良さであり、男は一等好きだった。男は妻の魂に髪を慈しまれながら眠気が自身を包んでいくのを感じた。
男はいつものように妻の魂に甘え、彼女の膝の上で微睡みを感じていた。眠気に誘われ、その瞼が閉じかけた刹那、男はすすり泣く声を捉えた。驚いて顔を上げると、妻は静かにはらはらと涙を零していた。男は身を起こし、何があったのかと問うた。妻の魂は「総一郎さん」と男の名前を呼ぶと、謝罪の言葉を吐き始めた。幾度も繰り返す言葉の真意が分からず、男は何のことか妻の魂に尋ねると、妻の魂は娘の体を抱き締めた。そして鞠のように丸まった姿勢になり、娘の名前を繰り返した。
そうして暫く経つと闇を広げたような黒い瞳を上げ、妻の魂は男に呼び掛けた。妻の魂は娘のことを訥々と語り出した。それは娘の思い出話であり、まだ娘が心と体のバランスを崩す前のことだった。娘の体は喋るたび喉が渇くのか、しきりに喉を動かしていた。脈略のない話が延々と続き、男はついに語気を荒げて本題は何だと急かした。
すると、妻の魂は娘の目に清らかな結晶を溜めながら、娘の父親はあなたじゃないと告げた。そうして美しく白い娘の腕を広げ、あなたの純血はここに流れていないのだと奏でた。そして男の手のひらをゆっくりと撫でながら、体に通う全ては息子のものなのだと言った。そして息子との間にできた娘を何も知らずに虐げていた男の愚かさを罵った。
どういうことだと震える声で聞く男に、妻の魂は息子とは合意の上だった、愛しているのは息子なのだと嬉しそうに語った。息子と娘は十歳離れているのだから息子が十歳の時のことだと、妻の魂は息子の幼い頃を慈しむような声色で男に告げる。息子の未完成な体がいじらしく、しかし妻の体を突き上げるその衝動は刺激的だった、と。妻の体内に収まらないほどの劣情が妻の体の一部となり、娘を作り上げたのだと、妻の魂は自分が宿る娘の体にキスを始める。
妻の魂は娘の言葉を使って、男の心の臓の奥を抉った。それは妻を愛していた男への裏切りであり、男の中心は切り刻まれ、黒々とした傷が浮かび上がっていくようだった。いつだったか、娘の手首にも同じ傷があったのではなかったかと男は思った。
男は、自分を蔑み罵り続ける妻の魂を手に捕らえた。徐々に力を込めて、吐き出される言葉を食い止めようと躍起になる。じわりと汗が滲むのを感じながら、男は呻き、妻の魂を捩じ伏せる。
娘の体は笑っていた。息子は自分の妹として育つことを認めながらも、娘を愛していて、だから息子は素晴らしく賢い子だと。今なお愛しているのは息子だけだと宣う妻の魂に、男はそれなら何故死んだのかと叫ぶ。
妻の魂は、自らを締め上げる男の腕に娘の手を添えて、全てをこの子は知ってしまったからだと話した。優しくていい子だった、事実を知らなければ幸せでいられたのに、と呟く妻の魂は娘の正気が失われた原因が自分にあるとは思っていないようだった。あの日、娘の気は正常だった。その上で自らの名前の入った凶器で、妻を傷つけようとした。いや、葬ろうとした。が、娘にはそれが出来なかった。あなたが自分を愛してくれたことを知っているから、と娘は涙を流していたのだという。そして、あなたが死なないなら自分が死ぬと言ったらしい。近親の卑しい血が自分の体内に流れていることが、娘には耐えられぬことだったのだろう。娘は清らかな心の持ち主だったから、と、その下劣な行動をした妻の魂は言葉にする。
男は娘を思う。今、娘の魂はどこへ行ってしまったのだろうか。娘の声は本当はどんなものだっただろうか。男の腕に力が込められていく。妻の魂は美しい声で、その体が尽きるまで、無知だった男の愚行を嗤っている。
どれほどそうしていただろうか。男の額には脂汗がたまり、手にはこれ以上ない力が入り感覚は喪失していた。妻の魂は息子の名前を呼んだ。これまで聞いたことがないほどの盲愛を滲ませながら。
男は動かなくなった娘の体を眺めた。物言わなくなった娘の体に宿る肌の輝きが、おもむろに失われていく。その様を男は黙って見届けたのだった。
「物語の内容の異常さと、構成の複雑さに関してはかなりの労作だと思う」「家族の異形の姿を薄気味悪く描いているが、美しさも感じられ最後まで読まされた」「私小説風に男の内面をえぐりだす、小説らしい小説」
以上がこの小説の評価でした。
長年趣味として書いてきた小説を当時通っていた大学の文芸賞に応募しました。結果は落選でしたが、私にとってはとても価値ある経験となりました。
実はこれまでも某サイトで小説投稿はしていましたが、二次創作の範囲を越えることはない作品ばかりでした。そのため、自分の小説は一般的には何の価値もない、ずっと二次創作を書いていくだけのオタク趣味だと思っていました。
が、上記のような評価に、私の小説には読んでもらえる力があるのかもしれないと自信を持つことができました。
またこの物語を見つめ直し、加筆修正しながら形にして、今度はもっと色々な人に読んでもらえるようにしていく工程が楽しくて仕方なかったです。
ここまで読了ありがとうございました。