生きているから、恋がいつしか愛になった。
昨日までの眩しい夏の日差しが嘘のように、打って変わって曇天の空だった。
風も北風に変わっているようで半袖のシャツが薄ら寒い。外での活動が少ない割にはひと夏でずいぶん日焼けしたが、男の割に細い腕が180cmの高い身長をさらに高く見せる。高崎志郎は国道沿いのバス停でバスを待っていた。五分も経たずにバスがやってくる。
なんだかなあ。今年の夏の初めにこのバス停で処女だという女に告られた。まさか。あの女、ずいぶん男遊びをしていることは誰でも知っている。
告られて付き合うとしても、それはそれで構わない。前に男がいたとしても、そういう事はあまり気にする志郎ではなかったが、そうは言っても夏が過ぎるとともに使い終わったティシュのように志郎がぽいと捨てられることは見え見えだった。顔もそれほど悪くはない女だったが、いかにも商売女と言った趣のなんだろね、あの厚化粧は。
申し訳ないがとその話を断ると、次の瞬間、思いっきりその女は持っていたバッグで顔の左側をバゴーンと殴られて、そしてやってきたバスに女はひとり乗り込んで、志郎はバス停に取り残されてしまった。
嫌な、夏の思い出が出来てしまったバス停だなあとぼんやり考えて、俺も少しはのんびりしすぎの性格をしているってもんかなと志郎は反省しつつ、そこへバスがやってきた。
志郎がバスに乗ると、「このバスはJR小糸駅前バスターミナル行きです……」とアナウンスが鳴る。終点まで乗るので志郎はアナウンスを聞いていない。白昼のほとんど乗客のいないバスに、志郎は前方の座席に座り込んだ。何気なしに窓の外を見ると、小学生時代からのクラスメイトの男女が二人連れで歩いている。あ、あの二人。うわさでは聞いていたが、なんだやっぱり付き合っていたのか。今度の同窓会では散々いじってやろう。
と、その時、後部座席の方から立ち上がる夏の制服姿の少女の影が視界の端に見えた。
まだ女子学生の制服のスカートが長くて、この夏服の季節にベストを着ている時代の話である。スマホもPCも無い時代、数十年程まえのことだったが。
志郎が振り返ると少女は小さな声を上げた。
「……なんだ志郎君じゃない?」
「あれ、弥生?」
ついこの間まで半年間ほど毎日のように見ていた顔だった。西條弥生、同じ病院に入院していた少女である。志郎は自分の座っている二人掛けの座席の窓側へ体をずらせて横に弥生を座らせた。病院の外で見る弥生に、不思議な気分になる。お互い刑務所から出てきて自由の身になったような、保護観察中の身ながらずいぶんとお互いのびのびとした気分でこうして出会ってバスに乗る、……それは例えが悪いか。
「元気だったか?」
「ううん、元気なわけないじゃん。ずっと苦しい。でも昔よりかはかなり楽かしらねえ」
「そうは言っても退院したんじゃないか。誕生日って過ぎたんだっけ?」
「まだ。十七歳だよ、高校三年生です」
そう応える弥生はだいぶやつれた顔をしていた。齢より老け込んだような、その弥生の面長の顔が大人じみて肌の若ささえ感じなければ、大学生と言っても通るような女性像を思わせる。背中まで垂れている栗毛の髪の長さは昔と変わらなかった。
「志郎君、眼鏡かけたんだね」
「病気以来ね、ホントはかけていたんだ。入院中はかけてなかったけれど。右目はほとんど見えない」
「そうなんだ……。あたしも薬を飲み始めたとたんから視力はずいぶん落ちちゃったな。でも黒板の文字は見えるからまだ眼鏡はかけたくない」
弥生の口にする言葉は元々大人びていたが、それでも確かに語調が成長している。時間の流れを感じないこともない。志郎君の視力っていま「いくつくらい?」と弥生が尋ねる。
「左0.8と右0.001」
「ああ、ホント右目って見えてないね」
弥生の視力はいくつだ?と志郎が尋ねかえすと、弥生は両目とも0.8と応えた。志郎君の左目と同じ。そう笑って弥生は背筋を伸ばした。
「桂子も、もしかしたら眼鏡しているんじゃないかな」志郎はぼんやり言った。
「桂子ちゃん?」
弥生の視線がハッとうつむき勝ちに揺れた。唇を閉じたまま弥生はしばらく考え込むように応えなかった。
「弥生?」
しばらくして志郎が声をかけると、ドキッとして弥生は志郎の顔を見つめた。
「なんかあったのか?」
「ううん、別に何もないよ」
「そういう言い方は何かあったんだな」
「ちょっと待って、気持ちの整理をつけないと」
「気持ちの整理? 桂子が子供を作ったとか?」
「……まさか。桂子ちゃんね」
「桂子がどうかしたのか?」
「桂子ちゃんは……死んじゃった」
志郎は驚いて弥生の方へ体の向きを変えて少し腰を浮かせた。そのとき消防署の横の外角ほぼ120度ほどもある大きな曲がり道をバスはスピードを変化させつつ曲がり、そのまま坂を上り始めた。
弥生を抱きしめるような姿勢で弥生の方へ倒れていった志郎は、その長身の身長をなかなか立て直せずに、弥生の両腕で押されるように座席へ座らせられた。
「なんだよ重いなあ、志郎君は」
苦しそうに弥生が両手を伸ばしたまま、ああ、筋肉痛になりそうといった。
「そうか?こんなヒョロヒョロな俺でも重いか?」
「桂子ちゃんのことは志郎君にも連絡しようと思たんだけど、ごめんね。勇気がなかったの」
「ちいちゃんは?」
「寿退職」
「さっちゃんは?」
「おなじく。三十手前だったから焦ってたみたい。二人ともドクター相手の結婚だから華やかに暮らしてるんじゃない? 何にも音沙汰のない奴らだけど」
そっか、誰も連絡してくれなかったのか。三十路前の看護師が二人も病院を退職していた。
「志郎君が退院してからすぐのことだよ。二か月もたたないうちかな。ちいちゃんたちが退職した直後に体調が急変したと思ったら、ころりと桂子ちゃんは逝っちまった」
「そんな時に、そんな風に?」
「志郎君だって、どうしてあたしたちのこと、お見舞いに来てくれなかったの? 退院して以来そのままぷっつん」
「親戚の家に住みこんでいたんだ。人手が足りないからすぐに来てくれって、飛行機に乗って島根のほうまで」
「親戚?」
バスは住宅街が主だった地域からビルだらけの街の中心部へ坂道を上っていき、と思ったら今度は急にバスが停車した。
志郎と弥生は同時に前の座席へひたいをぶつける。「相変わらず荒っぽいな、このバスは」と志郎は苦笑いをした。停留所で停まることをうっかり忘れたらしい。弥生はひたいを右手で押さえ、ほぼ目をつむったまま志郎の方へ向いた。
「それを帰ってきたの?」
「ああ、大学に復学したんだ。六月からは土日夏休みもなく毎日このバスに乗ってる」
「ふうん、会わなかったね」
突然弥生は「ここの停留所で降りよう」と志郎の手をつかんで席を立ちあがった。揺れるバスの狭い通路に転びそうになりながら弥生は大声で「降りまーすよー!」と叫びながら、自分の二倍はありそうな男の手を握りしめて離さず、長いスカートで長いジーンズの志郎を引っ張っていく。
弥生も志郎も定期券を見せ、バスを降りると排気ガスを思いきりまき散らしてバスはのっそりと走っていく。
「病院へ行くんだろ?」志郎が息も荒く弥生に尋ねる。重すぎるほどにのしかかる初秋の鉛色の空の下で風が少し冷たい。
「電車に乗るのに、ここから歩いてたんじゃ、ちょっと体力が持たないんじゃないか?」
「歩きたかったの。二人で」そう言って一度志郎の手を離し、弥生はハンカチで丁寧に手を拭いて再び志郎の手を握る。志郎に感じる弥生の掌の柔らかさ。
「志郎、手が熱い」
「心が温かい人って、手は冷たいと昔の人は言ったもんだ」
「志郎ってそんな古い人だっけ?」
「ただのたとえ話だよ」
「じゃあ、手が温かい人はやっぱり……」
「心の冷たい人」
「なあんだ。色々思い悩んでいたけど、志郎君はやっぱり心の冷たいサイッテーで嫌な奴なんだ」
え? いや?と何故か志郎はうろたえた。反対に弥生ははしゃいで志郎の手を放し、ナップザックを背負ったその中の荷物の音を鳴らすほど飛び跳ねるように走り始めた。
弥生の脚はしばらく行かないうちに立ち止まってしまう。体中で息をするようにうつむきながら荒く動く姿が、そのまま命にかかわるようで、志郎は少し心配になった。志郎も走るのは病院の医師に厳しく止められている。ゆっくり早歩きで志郎は弥生のもとへ近づいた。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけない」
弥生は顔が真っ青になっていた「バカだな」と志郎が言うと「バカです」と弥生が応えて、そのまま弥生は地面にしゃがみこんだ。
志郎は弥生の隣にかがみこんで心配げに言った。
「やっぱりバスに乗ろう。駅前にロッテリアがあるからなんか飲んでいかないか?」
「えー?志郎君お金持ってるの?!」
あまりにも驚かれたので、唖然と志郎は「金、ないのか?」と尋ねた。弥生は「あたし病人だよ?」というものの、病人でもお金くらい持っている子は持っている。
「そっか、弥生はお金持ってないのか」
「早く元気になりたい。そしたらバイトが出来る」
志郎は親戚の家が工場を経営していたので、そこでずいぶんバイトをしていたけど、大学ではロボット工学を勉強しているからバイトなんかしてる間はなくなったと、弥生に説明する。
その志郎のその目が夢に向かってキラキラ光っているようで、弥生にはそんな志郎がまぶしく見えた。
「じゃあ、お金のある今のうちにおごってくれ! あたしも元気になったら稼ぐから、そしたら返してあげます。行こう!」そう言ってまた弥生は走り出し、そしてまたしゃがみこんでゼイゼイと言い出す。心配するよりもおかしくなって志郎は笑ってしまった。
空を自衛隊の大型へりが低空飛行で飛んでいる。志郎は空を少し見上げていた。自衛隊か。体が強ければ整備員として入隊したかもしれないのに。
* *
それから三週間。志郎と弥生は失ってしまった何かを取り戻そうとするように、たいした用事があるわけでもないのに四、五回ほど子糸駅で会っていた。ただ二人、会いたかった。
駅舎の天井は半透明のプラスティックのパネルがいくつもはめられていて、うっすら太陽の光が白く散乱している。その下は快速停車駅なのでラッシュ時は乗降客数が多く、ズラリと自動改札機が並んでいる。
弥生が時間より二十分も早く駅の改札で待っていると、背の高い男も約束の時間より十五分早く人込みを分け入って近づいてくる。
「よっ」と弥生が手を挙げてあいさつすると、志郎も無言で手を挙げて慣れた体裁で軽く笑った。
「志郎君って、いつでも必ず来てくれるんだね」
「約束はできる限り守る性格をしているらしい。約束をすっぽかした日の夜は相手の顔が夢にまで出て来て恐ろしい」
「ふーん。そういう思い方をする人っているのか」
弥生は志郎に近づいて、志郎のジャンパーのチャックを上げて、襟を正した。
「服装はちゃんと着こなさないとダメだよ」
「ごめん」
次の瞬間、弥生は後ずさって志郎から離れたかと思うと、改札をすり抜けて駅構内に入っていった。両手を志郎の方へまっすぐ差し出し、両手のひらを思いきり広げた。小首をかしげて、
「志郎! あたしを捕まえて!」
志郎は一瞬あぜんとした。あれは桂子のセリフだ。
「今日は何の用事だ?!」
「べっつに!帰りたかったらもう帰ってもいいよ!」
「じゃあ帰るぞ」
「あ、嘘だよ。せっかく来たのにつまらん人だな」
志郎も定期券で改札を通り、二人で6番線上り快速のプラットホームへ階段を下りて行った。
そしてプラットホームのベンチに二人、十五分ほど座っていた。この時間帯に上り快速に乗る乗客は皆無に近いほど少なくて、だから列車もそれほど本数は多くない。ホームにも人はまばらだった。
雨上がりの風景。線路が濡れて鈍く光って少し寒い感覚を覚えさせる。ホームの上に蛍光灯がまるでレールと一緒に走るように白く灯って、無機質に明るい。目の前の壁に看板が等間隔で張り付けられている。二人の前のえんじ色の看板には白い文字で「西村肛門科」と、でかでかと書かれている。弥生は瞬間に顔を赤らめてうつむいたが、そっと志郎の顔を見ると志郎も弥生を見ている。一瞬の間のあと、二人で声をあげて笑った。
「弥生にお小遣い上げるよ、三千円」
「え?三千円も? 月まで往復旅行ができるじゃない?そんなにもらっていいの?」
志郎はカバンのチャックを開けて、中のものをごそごそと改めていると思ったら、財布から三千円取り出して、それを無造作に弥生に手渡した。真券だった。
千円札を三枚受け取った弥生は、しみじみ真券のお札を見て「わざわざ銀行でもらってきたの?」と尋ねた。
志郎は千円札を二十枚も真券で持っていて、弥生は思わず「そんなにたくさん何に使うの?」と尋ねたが、志郎は「まあな」と受け流した。
「古い紙幣だと弥生に失礼だ。ついでに持ち金全部、千円札に変えてきた。暇つぶしにやってきた」
「いつだって、そこまで凝り性だよね?志郎君」
その時、目の前を特急が走っていく。轟音で二人、言葉が聞こえなくなった。列車が走り去った後に弥生はいたずらっぽく笑って「じゃあ、お金もらっとく。気が変わったと言われても、もう返さないぞ?」と財布の中へ三千円をしまった。志郎は急に情けなさそうな表情になった。
「やっぱり返して」
「そう来ると思ったから返す」
「いや返さなくていいよ」
「どっちなのよ、あたしにやるのがもったいないとか?」
志郎は長い胴を上げて鉄路の向こうを見た。
「返さなくていいよ、なんか楽しむのに使えよ」
「うん、ありがとう」
弥生はうつむいて自分の靴を見つめながら、その両足の靴をきちんと合わせて、リコーダーのような音のはきはきとした口調で、聞くとはなしに「志郎君は病気治ったの?」と聞いた。
「ああ、九年も患うなんて長かった。弥生はダメなのか?」
「一生治らない病気かもね。子供を作るのもムリかもしれない」
「そこまでは諦めるなよ、まだ遠い先のことだ」
「生きるのってしんどい」
生きている意味ってなんだろ? 弥生は靴下が下がっていたので、それを直した。
* *
生きている意味ってなんだろ?
桂子が元気だったころ、看護師のちいちゃんの車で海へ行った。ちいちゃんは昨日が日勤で、今日は夜勤が入っている。そんなときに子供三人を車に乗せて遊びに行くなんて、さすがに看護師、体力がみなぎっている。
子ども三人とも外泊許可が下りるほど体調がよく、しかしそのことは家には知らせず、ひそやかに看護師の車で海水浴へ行くと計画していた。
「ねえ、ちいちゃん?」
「なに?」
「この車って、救急車?」
道路が夏の太陽のまぶしさにホワイトアウトすると、海岸沿いの道をサングラスをかけて、ちいちゃんは軽いハンドルさばきで車を運転していた。
赤い軽自動車に乗っていたが、幼い桂子には車のことが分からない。車を見ると何でも救急車なのかなと思えるほど、桂子の家には車はないし、病弱の桂子がいつも乗る車と言えば救急車ばかりである。
「ちいちゃん、サイレン鳴らして」
桂子がそう頼んだ。
普通だったらそんなものこの車についているわけないでしょ?と一蹴される。しかし次の瞬間、突然に大音響でウーウ―!とサイレンが鳴る。思わずみんなびっくりする。対向車線の車も、思わずハンドルを回してちいちゃんの車を避けている。
「……なにこれ」耳をふさいだ弥生が笑いながら、あたりを見回している。
「マジでこんなもんつけてるの?」志郎も顔がひきつった笑い顔になっている。
「いざという時はね、病院に駆けつけられるように重装備してんのよ」
「バカなこと言うなよちいちゃん、いかに看護師の車だって言ってもサイレン鳴らして緊急自動車にすることができるなんて道路交通法で聞いたことないよ?」
「当たり前でしょ? 冗談でつけてんのよ」
これ、回転灯も装備してるのよと、ちいちゃんは座席の下から着脱可能な回転灯を取り出した。
「おい! それじゃ救急車じゃなくて覆面パトカーだよ!」
志郎が大声でちいちゃん図に乗り過ぎだ!と叫んだ。
海について、桂子はてるてる坊主にタオルをかぶってスクール水着に着替えた。
「弥生ちゃんも水着に着替えなよ」
「あたし、やっぱり恥ずかしい」志郎の前で水着を着るなんて。本当は青いワンピースの水着を嬉々として買いに行った弥生なのに、いざ男子の前となるとこんなにも恥ずかしいものか。
志郎は海に入るとしては、それほど体の調子がいいとは言えなかったので、浜辺で座っていた。桂子一人だけが水着に着替えた。
「あたし一人だけが海に入るの?それじゃあつまんないよ」
ちいちゃんも海入らないの?と桂子が聞くと、あたしは一応医療スタッフだからとちいちゃんは答えた。
「あんたたち三人が体調崩したら、それを助けなければいけない立場」
「なあんだ、つまんないつまんない」
そう言い残して桂子は一人で波うち際へ駆けて行った。
浜辺には夏だと言うのに海水浴客は誰も来ていない。一面に砂浜が横たわって太陽の光を浴びている。そこへ小さな少女が一人、波打ち際に向かって駆け出していく。
桂子はためらわずに海の中まで走りこんでしまった。バシャバシャと波が立つ。冷たーい!と大声を上げる桂子。
元気だなと、内心ちいちゃんはほっとするものを感じていた。緊張していた全身が知らずに緩む。
「このまま、元気になって退院すれば、まだ何もかもを取り戻せる子供なのに」
ちいちゃんは少し目に涙を浮かべて、桂子を見つめていた。
押し寄せる波と戯れる桂子、その桂子のシルエット。黒い海、それに対して眩しい白い太陽。
行く波、桂子が追いかける。すると満ちて来る波、桂子が逃げてくる。一人ではしゃぐ桂子。誰だって、こんな風に元気だったらいいのに。病院に集まっているのは訳ありの子供たち。
ふと弥生がちいちゃんの思考を遮った。
「あたしなんで生きてるんだろ?」
苦しみをいつも抱えている弥生は不満をひとつ漏らす。するとちいちゃんが言う。
「人は一人一人、それぞれ意味を与えられて産まれてきたの。たとえ病気の身だとしても、その意味を考え続けなければいけない」
「しんどーい」
ちいちゃんは元気だからそういうことが平気で言えるんだよ。弥生はそばに咲いていたハマヒルガオの花を摘んで、鼻に近づけて匂いを嗅いだ。
「そうかもね。あたしも病気になって苦しんだら多分、同じように生きてることに嘆くね」
ちいちゃんは何十人もの苦しむ患者を診ている。みんな同じように苦しんでいる。あたしっていう存在は何だろうと、自分の看護師という職業について、いつも考え続けてきた。
「桂子ちゃんは手術受けたんですか?」
外科にいる桂子のことだからと、弥生は付け足した。
「そりゃもうたくさん、いったい何度手術したかな。大人になったら桂子ちゃんはあんな無邪気に笑ってもいられなくなるよ。お腹が傷跡だらけの女なんて、結婚するにしても相手の男が嫌でしょ」
弥生ちゃんも志郎君も内科治療だからね。体にメスを入れる必要がないからいいね。ちいちゃんはそう言いつつ、桂子の姿をいつまでも見続けていた。
砂浜にコーラの瓶が半分埋まった形で口を出していた。
* *
大学の研究棟の三階では学生たちが煮詰まっていた。
「……何で動かないんだ?」
「つないでるケーブル、間違ってないか?」
ケーブルは全部つながっている。どこかジェネレーター関係で不備があるように思うんだけどなあ。
「バッテリーはつながってるんだな?」
「つながってる」
「コンデンサーあたりは?」
「ここらも問題ないけれど」
「このマシン、相当に完璧だと思いはするんだけどなあ」
「俺たちもそう思うが、えーと。……あれえ?」
大学の研究室で志郎はむさくるしい男たちの仲間とロボットの組み立てをやっていた。大学三年生からは早くも就職活動が始まる、だからいま、二年生の時が最後に盛り上がるロボットコンテストである。
「これ、基盤をよく見て見ろよ。設計図では縦二本だろ? だけど実際には横二本に配線してある」
志郎は虫眼鏡を持ちだして、細かい配線がしてある基盤をよく見ていた。
「それじゃ、根本的に動くわけないじゃないか。電気通じてないんだから」
「なんだよ~マジですか~」
黒メガネの二浪で入ってきた男が嘆く。振出からやり直しじゃないですか。彼は同い年の大学四年生の先輩にも、律義に敬語を使う男である。
今日も徹夜だ。朝日が目に染みる。
ほかにも異常な個所はないか? 全部まとめて改良しよう。志郎がそう言うと「俺たちはお前のように全体がつかめるほど天才じゃないんだよ。一か所ずつ不良なところを見つけて対処することしか能がないんだよ」と返ってくる。
「それじゃ、いつまでたってもこのロボット完成しないぞ?」
「今さらロボットも飽きたよ。俺大学卒業したら証券マンになる」
「俺は銀行員」
「俺八百屋」抜けている奴がたいてい一人はいる。
その時、他のチームのロボットがグワシャグワシャと音を鳴らせて近寄ってきた。
「ダイナミック・アタック!」
そのロボットに思いきり殴られて、志郎たちのロボット「MR-7」がばったんと倒れる。
「何やってるんだよ、フレームが歪むじゃないか!」
「BBCー999」は強かった。ははは。と、そのチームのメンバーがみんな笑う。
「戦意喪失だ、今日は帰る」
「俺も」
「俺トマトの残りでトマトジュース作って飲む」
お前、機械工学より園芸の方が良かったんじゃないか?
夜の九時まで志郎は帰らない。玄関先でジーンズのスカートにクリーム色のジャンパーを着た少女がボンヤリ座り込んでいる。誰?
座り込んでいた弥生は立ち上がって「こんばんは」と力なく笑った。思わず「あ?何やってるの?」と志郎は怪訝に声をあげた。
「帰ってこないんだもん。二時間も待っちゃった」
なんで玄関前で待つんだよ? 家の中入ればいいじゃんか。志郎がそう言うと、インターホンで聴いたら志郎君は家にいないって。
「家にいないからって、なにも外で待つことないじゃんか、家の中で待ってろよ」
それもそうだなと弥生は首をひねって考える。
「オジサンもオバサンもあたしのこと覚えているかな?」
「そりゃ覚えているよ。よく弥生の話はしている。うちの両親には気に入られてるようだ」
「あ、そうなんだあ?」
あの、それよりもと、弥生はチケットを取り出して、小声で言った。
志郎君、こんど映画、観に行きませんか?
「それよりドライブしませんか?西條弥生さま。いつまで夜遊びしてんだよ、車で送ってやるからさっさと帰れよ」
「やった!バスで帰るのはすっごい疲れる。ドッライブだー!」
「お前平和な奴だな」
弥生、足元に散らばっているクズはなんだ? 志郎は不思議そうに弥生の座っていたあたりを見回す。
「猫ちゃんがよくいるって聞いたから、餌飼って持ってきたの。だけど、どの猫ちゃんも食べてくれないんだよ?」
「警戒してるんだろ?」
せっかく缶詰持ってきたのに、意味なかったな。お金出したのにもったいなかった。
「うちの猫じゃないぞ、野良猫だぞ。そんな贅沢してどうするんだよ」
「家猫と野良猫を差別するの? ラベルが変わってさらにおいしくなりましたって、ホントにおいしくなったんだよ?」
「食べたのか?」
「志郎君も食べてみる?」
志郎は弥生の持っている缶詰の肉を少しつまんで唇へもっていってみた。
「うん」
また志郎は缶詰の肉を少しつまんで唇へもっていってみた。
「うん」
そしてまた、缶詰の肉を少しつまんで唇へもっていってみた。
「うん」
「志郎君、マジで食べてるんじゃないよ?」
「冗談だよ、弥生は食べたのか?」
「ちょっと舐めたらね、さわーっと、ああ確かにラベルが変わったんたんだなあって」
「ばか」
「嘘だよ」
まあしょうがない、帰るか。と、弥生は荷物を片付け始めた。
「そのままにして帰るなよ、そのエサ掃除してくれないか?」
「あたしが掃除するの?」
「当たり前だ、掃除は散らかした本人がやれよ」
ああ面倒くさいと弥生が言うから、お前も刹那的で無神経な奴だなと志郎はバカにした。しかし志郎も一緒になって、弥生と二人で猫の餌を掃除した。
「ラベルが変わってさらにおいしくなりましたって書いてあるのにな。あたしがホントに残りを食べようかな……。別に毒っていう訳でもないし……」
グワオーと怪人が吠える。画面いっぱいにその怪人は口を開け、何故か口の中から青い炎が噴き出る。
自分で誘っておいた映画なのに弥生は顔が真っ青になっていた。ずいぶん怖い映画だ。音響が激しく、怪人の声がキリキリと観客の心に穴をあけそうだ。弥生が思わず両手で志郎の腕をつかむ。さすがの志郎もぎょっとしているのが分かる。
日曜日の映画館は満席だった。みんな白けた様子で、次の日の新聞にはかなりの酷評が載るほどの浅はかな映画だった。映画のストーリーはどうでもよく、とにかく人が殺され、人が死に。
とうとう弥生は途中からうつむいてしまった。
実のところこの怖さで、問答無用で志郎の腕に両手でつかめると考えた弥生がこの映画を選んだのだが、腕をつかむにはあまりにも怖すぎた。ラスト近くなると、弥生は泣き出した、「もう帰るか?」と志郎に言われるが、「エンゲル係数が……」と弥生はあくまでも志郎の腕にしがみついていた。
映画が終わって、帰りにパスタの店で夕ご飯を食べた。二人とも黙ったままで、ラーメンのようにパスタをずるずる音を立てながら食べていた。白い皿をフォークの音でちゃりちゃり鳴らせる。
暗い店の落ち着いた雰囲気の中で、店内の照明がみんなろうそくのように心細げに揺れた明かりだった。テーブルの真ん中では、グラスに入った本物の赤いローソクの小さな火が心細げに揺れている。
赤いワンピースの弥生はこの店に溶け込むように似合っていて、何も映画を見なくても、初めからこの店に入って食事をしていれば今日のデートは大成功でよかったのかもと。
「弥生」
「ええ?」
「今夜眠れるか?」
「ちょっと無理かも。今でも怖い」
R18指定なのに、考えてみればよく弥生を映画館に入れてくれたな。志郎がそう言うと、あたし老け顔なのかなあ?と弥生は悩み込む。
志郎はコーヒーを飲みながら、老け顔ってわけじゃないよ、まだまだ高校生の顔だ。とにかく客を入れたかったから、映画館は誰もかれもを詰め込んだんだろ? そう言う。
「映画だったら何を観てもいいってもんじゃないだろ」と感想を述べる。入院していた頃はまじめ一直に、詰問するように怒っていたこともある志郎だったが、性格がいくらか丸くなってる。
しかし弥生も「自分だって確認もしないで一緒に映画館入ったんだから、人のことは言えないでしょ?」と言い返す。言い返しながらも弥生の心に温かい感覚を感じる。わざわざ弥生の誘いに乗ってくれるような男の人なんて、いるものじゃない。
まあいいやと志郎は、「今度は楽しい映画観よう」と笑うと、弥生も「また一緒に観に行ってくれるの?」と嬉しそうに笑った。
時計を見ると午後の八時、これからがあたしたちの時間だと、弥生はなんだか胸がなんだかワクワクと躍り始めてきた。
パスタを食べながら話をしていたら、そのあとなんだか訳の分からない天中殺の話題で盛り上がって、「あたし、今天中殺のど真ん中なんだ、だけど、こういう楽しい日もあることにはあるんだね」と話すと、「天中殺の間って、過ごしようによっては、幸せに過ごせるらしいよ」と志郎が笑うから、ああ、この人って、なんでもポジティブに考えてくれる、素敵な人なんだなあと、弥生は志郎に酔っていた。
志郎の車で弥生の住むマンションについたのは夜の十時を過ぎていた。眠気を感じている弥生はわがままになっていた。
「弥生、ついたぞ」
弥生は顔を背けて「車から降りろっていうの?」
「降りなければ家には入れない」
「降りたからと言って家に帰ることの出来る保証はない」
「目の前じゃないか、何の保証だ?」
もし雷が落ちてきたらどうするの? 地震が起きたらどうすの? 家が火事になったら車に乗っていた方が助かるじゃない。一寸先は闇。
「どういう屁理屈を言ってるんだ? お前?」
弥生は志郎の車に乗ったままで「帰りたくない」と呟く。
志郎が弥生の親に事情を説明してくる。アラー志郎君久しぶり、元気だった?少し上がりなさいよ、やよいは? あらそうなの?駐車場? 困った子ね、車の中で一晩?そんなわがまま言わせてたらダメじゃない、あの子体が弱いんだから。ホントに困った子ね、志郎君にもご迷惑おかけします、車から放り出して家に帰してください、あらそう?それならそれでもいいけれど、でも、志郎君だったら安心だけど、そうねえ……、そうねえ……。仕方ないわねえ、ほんとに困った子ねえ。
「今日一晩だけは車の中で寝ていてもいいってさ。俺も信頼されたもんだ」と、志郎は車のドアを開いて弥生を覗き込んだ。
「ただし一晩だけだぞ。ほら、毛布借りてきた。風邪ひかないように」
「ああ、やった……」
話したいことが、実は一晩では話しきれないほどたくさんあるんだ、というほどに毛布をかぶった弥生は志郎がいなかった時のことを面白おかしく話した。それが志郎には泣きたくなるほど切なかったとしか聞こえなかった。
弥生もずいぶん我慢していたんだな。病気が辛かったんだ。たとえ誰かがそばにいても、だからって病気の苦しみが和らぐわけでもない。それでも淋しさは病気の辛さを何倍にも強くする。
淋しくて、辛い。
いつの間にか弥生は眠りについていた。
クリスマス・イブのキャンドルサービス。ガールスカウトに入っていた弥生は青い服を着て、青い帽子をかぶる。ろうそくをもって少女たちが一列に歌いながらゆっくり病室へ入っていく。
ベッドの上に座り込んだ桂子の瞳が不思議な色に輝く。
「きれい……」
どちらからともなしに、そんな風に思ったあの夜だった。
桂子にとってはろうそくを持った弥生がキラキラときれい。弥生にとってはそれを見つめる桂子の大きな瞳がきれい。
女の子っていいな。
弥生は桂子に、すれ違いざま微笑みかけた。桂子の呼吸が一瞬止まった。桂子の両手がゆっくりと弥生を捕まえようと前に伸ばされてくる。
逃げるように笑う弥生、桂子ちゃん、かわいいよ。弥生ちゃん、かわいいよ。やだよ、失いたくないよ。何を失うの?
いのち。
志郎は何も言わずに眠り込んだ弥生の隣で、夜の駐車場の風景を見つめていた。
弥生の寝息が穏やかに、俺はこの子のそばにいて、確かにこの子を守ってやらなければならないのかもと思う。
そのまま志郎も眠りにつくと、弥生は早朝に目が覚めて、深く眠っている志郎の横顔を見つめた。男の人が隣で眠っている。この志郎の寝顔をよく見ていると、なんだか弥生は嬉しくなって、頬に笑みがこぼれてくる。
おい、朝だぞ。
時計を見るとまだ午前五時半。外は明るくなってきたものの、起こしたところで起きる志郎ではない。志郎の鼻をつまんでみる。やめろやよいと、眠っている志郎なのにはっきり言ったのでびっくりした。
ああ、この人はあたしが好きなのかなあ?
午前七時になって、志郎が目を覚ますとフロントガラスにメモ用紙が貼ってある。弥生は学校へ登校していた後だった。
「おはよう!頬にキスしておいた、って嘘だよー!」
* *
新沼駅でいつものように弥生と待ち合わせをしていた。弥生の病院の帰りである。志郎は弥生に帽子をポンとかぶせた。
「あ、前が見えない。誘拐するつもり?」
「プレゼント。帽子買ってきた。似合うかなあ?」
「帽子? あ、うれしい。どんな帽子だろう!」
弥生は帽子を脱いで両手でつかんだ。あ、素敵、いい帽子だな。どうもありがとう。これ、制服着ていても似合うね。かぶっておこう。うれしい。すっごくうれしい。ほんとにどうもありがとう。
志郎は何気なしに聞いてみた。
「勉強、大丈夫なのか?」
「やるだけのことはやっている。たいした成績も取ってないけど」
弥生の行っている高校は進学校ではない。大学受験のために勉強するということはしていない。
「今日はこんな遅い時間に何の用だ?」志郎が尋ねると、「遅い時間を狙った」と弥生が笑う。
弥生が今夜は志郎の家で「ご飯作ってあげる」という。
特急列車が轟音をたてて走りすぎる。その二十秒間に弥生は「志郎君だーい好き!」と叫んだが志郎には聞こえない。
「弥生、ご飯何作る?」志郎は大学で神経使い過ぎて、あまり食欲がない。疲れた顔をしていた。
「これから考えるよ、志郎君。とりあえず電車に乗ろう!」
そういって二人そのまま入線した電車に乗って、小糸駅までは笑顔で黙り込んでいた弥生。その顔を見ていた志郎。小糸駅で電車を降りて弥生は志郎とスーパーへ食材を買いに行った。新婚夫婦のように幸せそうな弥生。ふとさっきからの弥生の表情が何だか気になる志郎。
こんな弥生、見たことなかった。
「あ、今晩カレーね。弥生ちゃんのお母さんから電話をいただいたよ」と、志郎の母親が笑う。
あたしが全部作ります。どうぞ見ていてくださいと弥生が言うと、俺テレビ観ると志郎が応接間へ行ってしまう。
「志郎。照れてんじゃないよ。未来のお嫁さんだよ」志郎の母が言うと、「勝手に決めるなよ」と志郎がだらしなく寝そべる。
「弥生ちゃん、お兄ちゃんのお嫁さんになるの? お兄ちゃんは牛乳が嫌いだから絶対老後に骨粗しょう症になるよ」
「コツソショウショウ?」
「亜美、余計なこと言うな」志郎が起き上がって起こる。
「厄介な人と結婚するとのちのち苦労するのは目に見えてるから、お兄ちゃんだけはやめといたほうがいいよ」
「……。」
弥生はこの志郎の妹、亜美だけは好きになれない。弥生の顔から笑みがサッと消えて冷めた目で亜美を見つめた、弥生は何も答えなかった。
「アッ!」
ジャガイモの皮むきに失敗する弥生。「大丈夫? 手伝ってあげようか」志郎の母が心配する。
「いえ大丈夫です。ここが最も難関で、ここでよく出る難単語。偏差値倍増計画であります。ここを乗り越えたらあとは上手く行きますから」
「ジャガイモむくのにはピューラー使えばいいのに」
「使いません、料理人は包丁で皮をむくのが筋です」
「あら弥生ちゃん、料理人になるの?」
「なりません、あんなきつい仕事、あたしには出来ません」
笑い声がどっと鳴る。その中で一人まじめに弥生は「これも花嫁修業の一環です」と力を込める。
何とか野菜の皮をむいて食べやすい大きさに切ると、鍋に野菜と肉を入れて油が回るまで炒める。そして水を入れて、野菜が柔らかくなるまで煮て、煮えあがったらルーを入れておしまい。
「手際がいいのね」
母さん、いちいち弥生を監視するなよと志郎が言うが、弥生は「オバサン味見してみて」と小皿にカレーを入れる。
「あ、おいしい。オバサンと同じもの使っているのに弥生ちゃん、どうやったらこんな味出せるの?」
「さあ、作ってみると、いつもこんな味になります」
そのころ、弥生の両親は夫婦げんかをしていたという。
「なんだこの数値は?」
トントンとテーブルを叩きながら弥生の父は母に詰問していた。母は黙っていた。父は弥生の血液検査の結果を見て、その数値のあまりにもの悪さに、苛立たしさを隠しきれなった。
「どうしてお前はあんなに病弱な子を産んだんだ?」
「……そういう事を言うの? どんな子でもあたしたちの子だって弥生が生まれた時に言ったじゃない」
ウイスキーの水割りを飲みながら、父は「まさか、ここまで大変な子だとは思わなかったよ! いくら弥生に金かけりゃ済むと思ってんだよ!」
「そんな、飼い猫と同じような考え方で、あなたは弥生を見ていたの?」
「さすがに音を上げるよ、弥生は施設に預けたらどうだ?」
少なくとも弥生の前ではそういうことは言わないで。弥生がどれだけ傷つくか分かってるの?
資産家の家ではない。稼げない一般企業に勤める俺だ。それをあんな石潰し。
「お金の算段しかできないの? 小さいときは猫かわいがりしていたくせに」
遊園地に遊びに行くことも出来ない。初詣も行けない。プールへ行くこともできない。
「あれのどこが可愛いんだ?」
「弥生はペットじゃないのよ?」
「つまらん、とにかくつまらん」
「病気の子に対してつまらないとか面白いとか、そんな言い方やめてって言ってるの」
弥生は食事のあと志郎と二人きりで夜空の下へ出て、白いスカートで振り返った。
「今夜はバスで帰ります」
「疲れているだろ、無理しなくてもいいぞ」
「歩きたいの。歩くの大好き。あたしは元気だぞーっ!って」
帰り、志郎はバス停まで弥生を送った。夜の空を見上げる弥生。水銀灯で明るいこの道でも、星のない空に、流れ星が流れている。弥生は小さく「あ……」と口を開いて、笑った。
「志郎君が三回もお代わりしてくれるとは、よっぽどおいしかったんだね。嬉しい」
「今日はいつもに増して腹が減っていたんだよ」
「あ、顔が赤くなってる」
弥生が志郎の顔を指さして笑う。
「弥生ももっと食べた方がいいんじゃないのか? いつもあのくらいか?」
「……うん」
「食べないと病気に打ち勝てないぞ、大分痩せてるし」
「そうだね」
もう少し食べるようにします。と弥生が夜空を見上げた。
また夜空に白い星が流れた。
「今夜は流れ星がいっぱい……」
「何とか流星群の夜だって」
そのあとは二人とも黙り込んであるいた。バス停に辿り着いても、何も話さなかった。弥生が何も言わなくなったから、志郎もそれ以上のことをしゃべらずにいた。
バスが来ると弥生は振り向きもせずバスに乗り込んでいった。本当は知っていた、自分の家で親が何を話していたかってことを。泣きそうになるのを我慢して、今夜は楽しかったな。一番後部の座席に座ると、途端にどっと涙があふれてきた。振り向くと志郎が心配そうに見ている。弥生は思い切り手を振った。
* *
志郎は大学へ通う道すがら、新沼駅までの駅前通りの店をウインドショッピングをしていた。今夜は泊まり込みでロボットの組み立てをするつもりで仲間たちと研究棟の三階に集まる約束になっていた。ふと、ヨーカ堂へ入り込んだ。
弥生と再会してからの三か月、時間が空けばヨーカ堂へ入り、ついつい店という店の、少女物の小物や衣服のディスプレイを見ている自分に気づいた。青いガラス玉がいっぱいに飾られている店で立ち止まり、ぼんやり考え事をしながら突っ立っていると、小学生の女子二人がくすくす笑いながら志郎の横を通り過ぎていく。布製のカバンをわざと志郎の腰にトン、と軽くぶつけて、小学生たちは洋服売り場の方へ通路を走っていく。
――桂子。
? 何故、いま桂子を思い出す?
志郎は不思議な感覚にとらわれた。振り返ると下りのエスカレーターまでの通路が志郎の頭の中に組み立てられた。いかんな、ロボット工学の人間はいちいち、帰り道まで頭の中で組み立てていくもんなんだな。志郎はいそいそとその通路をたどり、下りエスカレーターまで歩いて乗った。エスカレーターのモーター音が頭までの全身に響くと、このモータは何ヘルツだと分かってしまう。職業病だ。志郎は一階まで下りていく。
「しろーう!」
病院の屋上から桂子が叫んでいる。志郎は入院したての弥生と中庭の木陰で話をしていた。
「お友達ですか?」
あの頃、まだ敬語を使っていた高校一年生の弥生。ああ、あれ延原っていうんだ、と、桂子のことを志郎は延原と呼んでいた。
「延原さん、高崎さんことを探しているみたいだから、行ってあげたら」
「探しているんじゃないんだ、いつもああやって叫んで回っている。」
女の子同士だから、いい友達になってくれたらいいんだけど。志郎は桂子ちゃんのことを、そんな風にあたしに頼み込んでいたっけ。
志郎が桂子のことを思い出しているとき、弥生も同じように学校の教室でその時の風景を思い出していた。
志郎、桂子、弥生の三人で病院の屋上へ上がった。
「きれいな空!」
桂子が仰いだ空は、雲一つない快晴の空だった。怖いほどに吸い込まれそうなほどの、青。
志郎は桂子のことなんて何一つ分かっていなかった。そりゃそうだ、まだ小学四年生、分かると言うには、あまりにも幼すぎる。
いやそんなことじゃない。年なんて関係ない、桂子って何だったんだろう。
まさか死ぬとは思わなかった。
失うもの……?
桂子を失ったのか。忘却の彼方へ桂子が消えていく。
「天国のような、雲ひとつない空。」
あのとき弥生がそう言って笑った。
思わず志郎は弥生に、学食の公衆電話から弥生へ電話を掛けた。
「おい弥生、時間あるか?」
「あ、なーに? 大丈夫だよ」
「いまどうしてる?」
「うん、何をしているわけでもないけれど」
誰かが緑色の公衆電話機にコーヒーをこぼしている。ティッシュで電話機を拭きながら、弥生の声を耳元でささやかれているように受話器で聴いていた。
弥生の鼓動の高鳴りが聞こえてきそうなほど、弥生の声が上ずっている。弥生ちゃんは俺のことが好きなんだな。そんなこと分かりすぎるほど、分かってしまう。
「いま、大学なんだ」
「あ、そうなんだ、こんな時間まで頑張ってるね」
「ここまで頑張れば、将来いい技術者になれるかな」
「いきなりそういうこと聞かれても。あたしには分からない」
弥生は正直なところがいい性格なのか、損をしやすい性格なのか、志郎にはなんだか笑えてしまった。
そういえば、弥生の裸って見たことないし、想像したこともないな。脈絡もなくそんな考えが頭に浮かんできた。公衆電話のテレホンカードの赤い数字が減っていく。いま、弥生と時間を共有しているんだと、大学の学食の喧騒が聞こえなくなるほど、なんだ俺も弥生のことが好きなんじゃないかと志郎の顔が赤らんで、右手で持っていた受話器を左手に持ち替え、体の向きもそれにあわせて食堂の入口方面に向き直した。
明日、来い。
志郎はささやくくらいの声でそう言っていた。次の瞬間、弥生はハッとして、「志郎君どこ行くの?」と尋ねた。
「床屋へ行く、髪が伸びすぎた」
「あたし切ってあげようか?」
「弥生に切らせるとどうなるか分からない」
「じゃあ、一緒に床屋へついていく」
「いやそこまでは、やめろよ、恥ずかしい」
「いく。志郎君についていく。どこまでも、何があろうとも」
「勝手にしろよ」
「怒った……?」
「怒らないけど」
「あたしも少し、髪切ってもらおうかな。伸びすぎて収拾つかなくなった」
「勝手にしろよ」
「怒った……?」
「怒らないけど」
床屋へ入ると「あら志郎君!」と店長のおばさんが威勢よく声をかけてくる。
志郎は床屋の店長のオバサンに、弥生を「ここに突っ立っておかせていいですか?」と尋ねる。
「いや、病人だから椅子に座らせて欲しいんだけど」
「なんだ、彼女なんか出来ないって言ってたくせに、ちゃんといるじゃないの」
「いや、彼女と言う訳じゃ……。」
「今日はおめでたい日だから割引料金で切ってあげるわ」
「それよりこいつの無駄な毛をそろえてやって」
いつもオバサンは志郎君に、今度来るときは彼女を作って連れてきなさいって言っていたのに、「そんなもの絶対に出来ないよ」ってね。
「無理なことを強いるんだったら、もうこの床屋には来ないぞ」っていうんだけど、なによ、いい娘さんじゃないの。
「はあ、恐縮です」
弥生は志郎の後ろでほかの若い店員に髪を切られている。
作れないんじゃなくて、作る気がないんじゃないの? って笑い飛ばしたら本気になって怒っちゃって「じゃあ彼女の作り方を教えろよ?」ってね。そんなの自然に出来るものじゃない。
「どうしても出来ないんだよ」って、志郎君は本気で悩んでるのよ、笑い話じゃない。
「それがなによ、今日は突然こんな綺麗なお嬢さんを連れて来ちゃって」
「あんまりオバサンがしつこいから適当に連れてきただけだ。勝手に彼女にするな」
志郎は不機嫌になってほとんど黙っている。
* *
病院での医者たちのカンファレンス。撮ったばかりのCTの画像を見ながら、「これはねえ……」とみんな黙り込む。
医局長が「さて、どう判断しますかね」と医者たちに声をかけた。
「西條さんにはもう、告知したほうが」
担当医がそう言うと、医者たちはしばらく何も言えず考え込んだ。それほどひどいと言える病気の患部だった。
「……しかし必ずしも、そうと決まったわけではないですよ?」
「しかし、万がいつのことを考えると、心構えだけはしていただかないと」
「新し治療法ができているとしても?」
若い医者が出しゃばり気味に大きな声でそういう。
「あの薬も治験を終えたし、使えば弥生ちゃんの命も今までのように救えないものとは限らないんじゃないですか?」
「あの薬、一種類で劇的な効果を求める? たった一種類の薬?それがどれほどの頼りになるの?」
最後の時という覚悟を持って、残りの時間を有意義に暮らしていただきたい。私だったらそういう。
「あきらめちゃだめですよ、患者がここまで頑張っているのに、医者があきらめちゃったら、何が救いになるんですか?」
「永村先生、血液検査の結果をもう一度見て。あなた薬くすりというけどね、少し手遅れだったんじゃないの?」
「弥生ちゃんは生きてるんですよ?」
「それがなにか?」
ここまで大きくなった病巣部。完全に消せるとしても何年かかると思う?
実は相談があって。と床屋からの帰り道でうつむきながら弥生は歩く。志郎は弥生の歩幅に合わせてゆっくり歩く。
高校、もう行けなくいけなくなっちゃったんだ。
「どうして?」
「ドクターストップ。これ以上の普通の生活は、やっぱり無理があるって」
出来れば残りは高校中退で、って。体力温存のために。
コーヒー飲みたいと、弥生は自動販売機の缶コーヒーを買った。
「あったかい……」
もう死にたい。生きていくことがしんどい。
「そんなこと、こんな若いうちから考えるなよ」
「でもあたし、これからずっとただ、年取って死んでいくだけの一生なんだよ」
誰だって長いこと病気をしていたら、死ぬことについて身近に考えちゃうものだよ。頑張れとは言わないけど、強く生きていくようにしろよ。
「失うものばかりと知って、あたしにこれから強く生きて行けと言うの?」
赤い郵便のバイクが二人を追い越していく。
「中卒の肩書しかないあたしは、一体どんな暮らしをしていくもんなんだろう? ずいぶん苦労するんだろうなあ……」
それ以前に、あたしにはこれから生きていく保証がないから、別にどんな形になってもかまわないのかもしれない。
「ごめん、本当は病院で言われたの。そろそろ余命ということも考えてほしいって」
「余命?」
「あたし、死ぬかもしれない」
なんであたしに限って死ぬんだよ、そんな約束で生まれてきた覚え、あたしにはないぞ?
「野垂れ死んでいくのが、結局はあたしの行く末か。いきなりこの道路にばったんと倒れて、そのままあたしは息絶えていたりして」
「香典はずんでやるよ」
「いらないよ、あたしが死んだら香典なんて誰が使うの? あたしには使えないじゃない」
「じゃあ、今からロッテリアへ行こう」
「それ乗った」
* *
十月の初め。そろそろストーブが欲しくなってきた。寒さに手の先が冷たい。日曜日の夜、夕食前にキャドで電子回路の設計をしていた。
この季節に台風が来ている。もうすぐこの地へ上陸すると言う。そんなときに家の電話が鳴った。
「西條です」
「なんだ西條?」
「お別れを言います。今までありがとうございました」
「どういう意味だ? 俺が嫌いになったのか?」
「そういう言い方……。あたしにも彼氏がいたわけか。嬉しい」
いや、そういう風に直結するなよと志郎が口ごもると、弥生は明るい声で言った。
「志郎君はいいよね。いつまでも生き続けていられるんだから」
「今どこにいるんだ?」
「死にたくは、ないさ」
「雨の音が聞こえるぞ?」
「淋しい。こんなところに取り残されて。しょせんあたしは、一人だ」
あたしを一人にさせないでよ、淋しい人だな。
「……どこにどこにいるんだ?弥生」
「桂子ちゃんの墓地にいるの」
しばらく志郎はだまった。気を取り直して志郎は尋ねた。
「バスは?」
「もうない。嵐で全部止まっちゃった」
迎えに来てくれたら、嬉しいかな。弥生はおどけたように電話の向こうで言う。
「行くもいかないも、そうしなければ弥生、お前どうするとも出来ないだろ?」
車で迎えに行く志郎。風が強くて、車が時折道を横滑りする。
「何もこんな時に」志郎はハンドルで立ちなおせながら、車をゆっくりしたスピードに落として走らせた。
「弥生、……おい弥生」
車が現地へ到着すると、栗毛の弥生が電話ボックスの中で、立ちん坊に志郎が来るのを待っていた。
「出てこい、帰るぞ」
電話ボックスのそとで、志郎は弥生に車へ乗るように促した。大粒の雨で志郎は途端に体が濡れてくる。
しかし電話ボックスの中から弥生は出てこない。電話ボックスのドアを弥生はゆっくりと開いた。雨に濡れた志郎が電話ボックスに入る。
「志郎君、ずいぶん濡れちゃった。風邪をひくから服を脱いで?」
「こんなところで脱げるわけないだろ」
「じゃあ、こんな狭い電話ボックスに男と女が二人きりになったら?」
弥生は電話ボックスのドアを閉めて、志郎を中に閉じ込めた。
志郎を見上げて、そんな弥生がずいぶん小さな女の子なんだなと、志郎は今さらながら気づく。
弥生は志郎を見上げてしばらく黙り込んだ。
「志郎君」
「なんだ」
「何でもない」
「困ったやつだ」
「その通り、困らせることが目的だったのです」
そんなことに付き合ってる暇はない、帰るぞ。と志郎が言うと、弥生は志郎の左腕をそっとつかんだ。
「空がきれいに晴れていれば、あたしは死んでしまいます。死にたくなんかない、だからいつまでも、雨に降られていて欲しい」
いつでも、いつのときも天国までの階段を上り続けている人の気持ちなんて、志郎君には分からないよ。
「空が厚い雲に覆われていさえすれば……。こうして嵐の日が続いていれば、あたしは空へ、天国への階段は上らずに済んで、いつまでもこうして地上にとどまって、生き続けていられるんだ。桂子ちゃんの死んだ日もよく晴れた青い空だった」
志郎君には、志郎君には分からないよ……。
「そんなこと、俺が分からない訳ないだろと……」
分かるなんて、そんな思い上がったことを、俺が言えるわけがないだろ。でも弥生のことは、どれだけ心配しているか、それは弥生だって俺の気持ちは分からないだろ。
弥生は答える代わりに、すがるように志郎の目を見上げた。
「……口づけさえも、出来ないあなた」
「え?」
弥生は志郎のほほに、いきなりハートマークのシールをぺたんと張り付けた。
そして弥生がかかとを上げて両手を志郎のからだに回し、志郎の胸に弥生は顔をうずめた。
「志郎のバカ!」
「泣くな!弥生!」
嵐の雨が狂ったように強くなってきた。その雨音が怖いくらいだった。外の景色が暗くなり、電話ボックスに明かりが灯った。
「大丈夫。弥生、お前が死ぬことなんてない。生きていこう、生きる事だけ考えよう!」
弥生の手を振りほどいて、志郎の胸から離れた弥生のその両手首をつかんだ志郎はグズグズの泣き顔の弥生を見つめて「分かったからもう帰ろう」と静かに言った。すると、するっとしゃがみこんだ弥生はひと呼吸おいて呟くように言った。
「結婚して、下さい。もうすぐ三月で18歳なの」
泣きはらした上目遣いで弥生は志郎を見上げた。志郎は弥生を見下して何も答えなかった。そして、しばらくして志郎は「俺と結婚してくれるのか?」と尋ね返していた。
「……愛してる」
「……俺もだ」
あたりはすっかり暗くなっていた。雨は強いままだった。淋し気な公園墓地に電話ボックスだけが点のように白く灯る。夜の七時過ぎを回っていた。