対面
第9話
すでに朝日が部屋には差し込んできていた。
ジュリオは悪魔のような不敵な視線と笑みをたたえながら、アンナに話しかけた。
「さてアンナ・シルヴィ、お前のことについて聞こう。」
アンナは戸惑った。大司教を前にして、このように気軽に話していいのか。自分は庶民で相手は大司教。住む世界が違う。だが改めてみるとジュリオにはどこか自分たちと同じ世界に生きている男のような、そんな気もした。
アンナのそんな状況をまるですべて知っているかのようにジュリオは言った。
「案ずるな。今俺はピサ大司教としてではなく、一人のジョストを愛する男にすぎない。お前がここにいることを誰も知らないし、ゆえにお前が俺とここで話していることも世界ではおきていないことと同義だ。」
もともと大司教には不釣り合いなその歳と顔が、アンナに話す決心を与えた。大司教と思わなければ、十分大司教には見えないのだ。
アンナはすべてを話した。今までアルフォンソにしか話さなかったことをほかの男に話すのはなんだか不思議な感覚だった。
自分は昔からピサ大学のトーナメントを見るのが好きだったこと、将来の当面の目標はトーナメントに出ること、友人とよくピサ大学でひそかに練習をしていたこと、家族にこれが発覚し、厳しく叱責されたことなどである。
一通り話し終えるとアンナは質問したくなった。
「あの・・・・、なぜあたしをここまでして、もてなしてくれたんですか?」
「お前が気になったのだ。フィリップがピサに入城したとき、馬車の中から、フィリップの美形に誘われてきた群衆の中に偶然お前が目に留まった。」
ジュリオは今度はワインのグラスに白ワインを注いで、再び話し始めた。
「お前はフィリップに見とれるでもなく、俺の馬車の馬を気にしていたな。お前、あれが荷馬ではなく戦闘馬だと見抜いていたな?それにお前の顔にはどこか懐かしいものがあった。」
その時、部屋に馬の鳴き声が響き渡った。けたたましくヒッヒーンとうなる馬の声は部屋にいる全員を驚かせた。
音は部屋の外、中庭方面から聞こえた。ジュリオもワインを飲む手を止め、少年たちに見てこいと合図を送る。
―ピサ大司教官邸中庭―
アルフォンソは愛馬アドリアーノの手綱を無理に引き、甲高い鳴き声を響かせる。アンナに関することだからと、感情に任せて飛び出してきた自分に戸惑いを抱きつつも、もうここまで来たらやるしかない。
来る途中にガストーネ・デ・メディチの住まうサン・マッテオ宮により、フォワ伯フィリップはここピサ大司教官邸にいるというのはわかっていた。
アルフォンソが周りの様子を見ていると、どこからか少年が出てきた。黄と赤のチェス柄の服と円筒形のツバなし帽をかぶっている。
「おはようございます、シニョール。どうされましたか、このような朝早くに。」
アルフォンソは言葉を選んだ。まだアンナをさらったという確たる証拠もないし、何しろここはピサ大司教が住まう場所なのである。
「フォワ伯フィリップに話がある。君はフォワ伯の従僕だろう?」
「ええ。どのような御用でしょう?」
「それはフィリップ伯フィリップに直接話す。もういいか、君に話しても時間がとられるだけのようだ。」
アルフォンソは短気になっていた。少年との何気ない会話も、ぼけ老人と話すような、もどかしさとイライラを覚える。
アルフォンソは少年の横からそのまま大司教官邸に踏み込もうとした。しかし、少年は信じられない素早さでアルフォンソの前に立つ。
「ご用件がわからないまま、御通しすることはできません。」
アルフォンソは少年を憎らし気に憎んだ。少年はアルフォンソには目もくれず、一切表情を変えずに従僕らしく少しばかりうつむいている。
二人が対立し、硬直した中庭に、笑顔のフォワ伯フィリップが入ってきた。
「おやおや、こんな朝から、しかも男の客人とは珍しい。」
「私はリドルフィ家のアルフォンソと申します。ここピサで勉学に励んでいるものです。フォワ伯フィリップ・ド・グライー様とお見受けしますが。」
「いかにも、私がフォワ伯です。」
「フォワ伯、失礼ですがこちらにアンナ・シルヴィという娘はいませんか。」
フィリップはさわやかな笑顔のまま答える。
「アンナ・シルヴィ。いや、ここにはいませんね。ご友人ですか?」
アルフォンソは沈黙した。だんだんと自分のやっていることが馬鹿らしくなってきた。一人で踊っていたのを他人に見られてしまったときのような、すさまじい恥ずかしさが沸き上がり、アルフォンソの顔を赤くした。
その時、建物の扉を開けて、中庭に、洗ったと思われる服を抱えた女性が入ってきた。昼間だというのに胸元が大きく開かれた派手な赤いドレスを着ている。
女性の持っている服を目にしたアルフォンソは目を見張った。
一般女性が一番外側に着るスカート、ペティコートというものがあるのだが、女性の持つその服の中に、アンナが気に入っていたペティコートがあったのだ。
4か月前、父アントニオが家庭裁判に勝訴したことを記念に、わざわざ作らせたものだと自慢するアンナのことを、アルフォンソはよく覚えていた。
「アル!」
アルフォンソの聞き覚えのある声が中庭に響いた。視線を戻すとそこには緑のドレスを着たアンナがいた。
「アンナ!」
フィリップは名前を言うことしかできなかった。今まで見慣れてきたアンナではなかった。アルフォンソが時たま招かれていく、貴族の舞踏会にいる女性のような服装だ。貴族の婦人にも全く劣らない、いや、それ以上の美しさだ。貴族の婦人のような野心と嫉妬に満ちた、たとえは悪いがアルフォンソの許嫁クラリーチェにはない、無邪気で素朴な美しさがそこにはあった。
アンナの前にはアルフォンソがいた。アンナにはついぞ見せたことのない、険しい表情だ。いったいなぜここにいるのだろう、アンナはそう思った。
「アン、出てきちゃだめだよ!ジュリオ早く・・・・」
「アンナから離れろこの誘拐犯!」
「え、いやこれには訳が・・・・・」
アルフォンソは確信した。アンナがこんな男に特別な感情を抱くはずがない。だとすれば今この状況になっているのは、アンナがこのフォワ伯に強制的に連れてこられている、ということになるのだ。
「アンナ!今助ける」
そういうとアルフォンソはアドリアーノの鞍につけていた剣を抜いた。アルフォンソは正気ではなかった。アンナへの思い、それがアルフォンソを熱くしていた。それを見てフィリップの従僕、ガスコーニュ出身だという少年の一人が腰から短剣を抜いた。
アルフォンソの突然の行為にアンナは驚く。
「アルやめて、違うのよ!」
アルフォンソにアンナの声は届かない。戦闘となろうとしたとき、ジュリオ・チェザリーニがやっと中庭に出てきた。わざと展開を楽しむかのように遅く来たようだ。
「この官邸で剣を抜くとは、おそらくお前が史上初だ。」
アルフォンソの鋭い視線がジュリオに向けられる。
「フィリップに罪はない。すべては私が意図してやったことだ。かかってくるがいい。アンナを渡す気はない。ほしくばその剣でとりに来るがいい。」