ピサ大司教官邸にて
第8話 ―早朝 リソルジメント通り、リドルフィ家―
部屋の窓のカーテンが執事であるセヴァスティアーノによって開かれ、外の朝日が差し込む。
アルフォンソは体にまとわりついていた毛布を取り払い、一呼吸おいてベットから上半身を起こす。
カーテンをすべて開き、束ねたセヴァスティアーノはアルフォンソのほうを向いた。
「おはようございます、旦那様」
「ああ・・・おはようセヴァスティアーノ」
朝食の席。ピサ・リドルフィ家の食卓の席は10年前からアルフォンソ一人だけだ。アルフォンソの父ガレアッツォと母アンジェラがハンガリーでオスマン帝国との激戦で死んで、家に残されたのはアルフォンソと執事セヴァスティアーノだけだったからだ。
アルフォンソはさらにアンナのことが気になっていた。コーヒーカップを持つ手が止まる。
そんな主人を見て、セヴァスティアーノが口を開いた。
「旦那様、アンナ嬢のことで少し気になる情報がございます。」
アルフォンソは思わずカップを揺らし、カップを乗せる皿にコーヒーを少しこぼす。
「なに!あ、いや‥‥。それで?」
「今から4日前になりますが、フォワ伯フィリップ様と大司教猊下がピサにご入城した際、観衆から飛び出た20歳前後の女の方が演説をしていたフォワ伯様に飛びつき、注目を集めておりました。」
アルフォンソはがっかりした。世に言いうフォワ伯ファンといわれる女性の、過激な一行動だと思ったからだ。
「それがアンナに何の関係があるんだ、セヴァスティアーノ。」
「わたくしが昨日町に買い出しに赴いたさい、アンナ嬢のご友人であるマッダレーナ嬢とルクレツィア嬢にお会いする機会があったのですが、お二人によるとフォワ伯に飛びついたその女の方はアンナ嬢であったということでした。」
アルフォンソには信じられなかった。アンナはそういう女の子ではない。昔からアンナがあこがれる男とは剣術やジョストで名をはせた男だったからだ。普通の、美男だからといって寄ってたかる女の子ではない。
疑心を募らせる主人を見てセヴァスティアーノは続けた。
「ですがご友人によればアンナ嬢と二言三言かわしたフォワ伯は顔を赤くしてすぐにその場を発ってしまわれたそうです。それからはご友人もアンナ嬢を町では見かけなくなったといっておりました。」
アルフォンソは心中で仮説を立ててみた。アンナが何かフォワ伯の誇りを傷つけるようなことをして、アンナが消えたのはそれに関係しているのではないか。
アルフォンソは席を立つとセヴァスティアーノに命じた。
「セヴァスティアーノ、アドリアーノを出してくれ。それと大学の講義は今日は休むとも伝えてくれ。」
セヴァスティアーノは一礼した。
「旦那様、わたくしもご一緒———」
セヴァスティアーノが言い終わる前に、アルフォンソは2階の自室に行ってしまった。
―数時間前、ピサ大司教官邸―
アンナは剣と剣がぶつかったときの気持ちのいいカンッという音を聞いたような気がした。閉じていたまぶたをゆっくりと開く。まぶたを開けたアンナの目に映ったのは白く薄い布地、そしてそれに透けて見える、天使たちが描かれた天井画である。
アンナは上半身を起こして左右を見回した。同じく薄い布地で外と隔たれている。アンナの目の前だけがカーテンのように左右に束ねられていた。
アンナが呆然としていると、ドアが開く音した。するとアンナの右側の布地が開かれ、30代ほどの美しい女がいた。昼間なのに胸元が開かれた派手な赤のドレスを着ている。
「あら、起きてたの。朝よ。」
女はアンナを確認すると回り込んでアンナの左側の布地も開いて束ねた。
女が窓を開けた。外はまだ日が昇っていないのか、薄暗い。
「あなた名前は?」
「アンナ・シルヴィ、です。」
「あたしはカテリーナ。よろしくね、アンナ。あなた昨日やってきた時のままの服だから、これに着替えて。」
アンナは下着だけになると、カテリーナの持っていた緑色のドレスを恐る恐る着た。
カテリーナは満足げに見ている。
「サイズは大丈夫ね。きれいよアンナ。」
アンナは少し顔を赤くした。近くにある鏡で見てみると、いつもの自分ではないように見えた。まるでおとぎ話に出てくるお姫様のような豪華な服装だ。
「脱いだ服はそのままでいいわ。あたしについてきて。」
そういうとカテリーナは部屋の外の出ていった。アンナはそれについていく。
カテリーナの後ろ姿を追いながら、アンナが歩いていると、またも剣と剣がぶつかり合う音が聞こえた。アンナは音のした左側の窓を覗く。窓の外はどうやらこの建物の中庭のようで、人が2人、戦っていた。
ジュリオ・チェザリーニとアンナをこの建物まで連れてきた少年である。2人とも白いシャツに膝丈のショートパンツ、膝より下には白いタイツと靴を履いている。
「アンナ、こっちよ。」
カテリーナに呼ばれたアンナは後ろ髪を引かれるように、窓から視線を外した。
カテリーナがドアの前で止まる。
「あたしはここからはいけないわ。また後で会いましょう。」
アンナは恐る恐るカテリーナによって開けられたドアをくぐり、部屋に入った。
部屋は広々とした空間で、漆喰で壁と天井は塗られていた。床はタイルで、料理ののった大きな長方形の食卓が置いてある。席は三つ用意されており、一つにはフォワ伯フィリップが座って、何かを飲んでいた。
フォワ伯フィリップはアンナを見止めると実にさわやかな笑顔であいさつした。
「ボンジュール、アン。よく眠れたかい?」
アンナは何も言えなかった。フィリップのその非の打ちどころのない美形の顔とフォワ伯にして次期ヌムール公という、よくわからないが立派な肩書を持つ大物相手に緊張していたためである。
フィリップはアンナが自分に緊張しているのを理解しているため、アンナの心をほぐすのを優先した。
「きれいだよ、アン。もうすぐでジュールも来るから座って待っていよう。」
アンナはフィリップに勧められるまま、椅子に座る。フィリップが食卓の上に置いてある鈴を鳴らすとカップとポットをお盆に乗せて持つ少年が来て、アンナの前でコーヒーを注いだ。
アンナはなかなかコーヒーに手が付けられない。部屋の四隅とドアに立つ、黄と赤のチャック柄の服に円筒形のツバなし帽をかぶった少年たちが気になっていたのだ。彼らはアンナをここまで連れてきた少年たちだ。
確かに全員同じ衣装、同じ髪型、同じ身長なので可愛いのだが、どこか人間離れしていた。顔の表情は少し笑っているもの以外に絶対に変えない。行動も、すべてはフィリップのいうことしか利かない。まるで操り人形のようで不気味さも覚える。しかしそんな彼らがどこかアンナには哀れに見えた。
それに気づいたのか、フィリップは手をたたく。すると少年たちは部屋の外に出ていき、ドアを閉じた。フィリップは苦笑いをしていった。
「すまないね。両親が妻と結婚する際に私に送ってくれた子たちなんだ。」
アンナはフィリップが結婚していたことを初めて知った。親近感がフィリップにわき、口が開いた。
「なぜこの少年たちなのですか?」
「うん・・・・。私の警護をしてくれている。彼らは皆、フランスでは最強といわれる兵士を出しているガスコーニュ地方の生まれなんだ。ピサのトーナメントやパリ大学のジョストでも歩兵部門で優勝者を出している。」
「え!そうなんですか?」
アンナが目を輝かせたのをみて、フィリップは得意げに言った。
「アレクサンドル・デュマ・ペールの‘‘三銃士‘‘にも出てくるトレヴィル隊長はガスコーニュのトレヴィル伯爵ジャン・アルマン・ド・ペイレが元になっている。ガスコーニュ地方は歴史的に様々な勢力に支配されてきたし、なんといってもフランスとイングランドの百年戦争の火種になった土地だ。屈強な兵士が生まれるのも自然というわけだ。」
「でもなんで少年なんですか?」
「奴らの本当の目的が、フィリップの浮気を抑制するためだからだ。」
フィリップが気まずそうに口をつぐんでうつむくと、ドアを蹴り飛ばすようにピサ大司教ジュリオ・チェザリーニが入ってきた。アンナが先ほど窓越しに見たときの服装のまま、椅子にどさっと座った。
「フィリップは御覧のように美男だから、女が寄ってくる。それによる浮気を抑制するために、奴の父親ヌムール公シャルルがあの少年たちを監視役としてつけた。」
フィリップはジュリオの汗臭そうな服装を見て、蟲でも見るかのように言った。
「おい、ジュールはしたないぞ。仮にもピサ大司教なんだから、もう少し節度をわきまえろ。」
ジュリオは何を言っているのかわからないというような顔をして続ける。
「あの少年たちは皆孤児だ。戦争で親が死んでいる。ガスコーニュ人の宿命でもあるが、ヌムール公家は代々その孤児たちを引き取り、衛兵として育ててきた。少年なのは主人のいうことを何でも聞きやすい、スパイとして使いやすいからだ。育つとヌムールの番犬として、フランス王家にも献上される。」
「おいジュール、余計なこと言うなよ。」
ジュリオはコーヒーを自分でカップに注いで一気に飲み干した。
そして一息つくと、アンナに視線を向けた。
「さてアンナ・シルヴィ、お前のことについて聞こう。」