スカウト
第5話
一方アンナは相変わらず蟄居だった。とはいっても仕事はさせられるので何もしないわけではない。料理や刺しゅうをしたりするし、近くの教会にも通う。
オリーヴ油の入ったテラコッタ製の壺を馬車から降ろす祖父フランチェスコを手伝っていたアンナは、3日前のことを思い出していた。だんだんと手が止まる。
(私は女性がトーナメントに参加しても一向にかまわないとさえ思う・・・・)
フォワ伯フィリップの言った言葉はアンナの脳内で何千回となく繰り返し繰り返し反響していた。それにアンナに名を聞いたあの謎の人物も気になった。
「こら、アンナ。手が止まってるおるぞ。」
アンナが気づくとフランチェスコの渋顔がアンナを見ていた。アンナは再び作業を始めた。
家に帰ると父アントニオもちょうど帰宅するところだった。
「今日仕事で大聖堂広場に行ったんだがどうやら妙な噂が広まっていた。オスマン帝国が再び軍備を固めているそうだ。戦争が始まるかもしれない・・・・・」
夕食での父アントニオの世間話がアンナは好きだった。昔から父アントニオは仕事で耳にしたり海外出張で目にしたものをよく家に帰って話すのだ。
「ハンガリーの最前線ではオスマンの斥候兵が見え始めたというし、もしそうなったらコンスタンティノポリスへの出張が台無しになるかもな。」
オスマン帝国は数百年前からイスラーム最大の勢力としてその猛攻を欧州に仕掛けていた。ハンガリーという国がオスマン帝国をかろうじて防いでいたのだが、戦争を重ねるごとに弱ってきていた。
食事の席ではほとんどアントニオがしゃべり続ける。外の事情を知るいい機会なのか、フランチェスコも黙って食えといいつつ話に耳を傾けているようだ。だがフランチェスコが絶対に話すのを許さないものがあった。
「そうだアンナ、3日前お前の好きな元ジョスト大会一位の・・・・」
これである。ジョストの話だけはフランチェスコが許さなかった。フランチェスコは鋭い声でアントニオを黙らせた。
「アントニオ、アンナにその話をするな。いいからお前は仕事のことだけを考えろ。」
「・・・・・」
再び沈黙の食卓になった。木製の食器の音が響く。
‘‘コンコン‘‘
突然沈黙を破って家の玄関のドアがたたかれた。もうすでに7時を告げる教会の鐘が鳴っていた。こんな時間に客人とは珍しい。アンナの母ジョバンナが食事をやめる。
「こんな時間に何かしら。あなた?」
アントニオは理由がわからず戸惑っている。
「なんだろう、取引先か?それとも弁護士組合の仲間かな?」
フランチェスコは食事を続ける。ジョバンナが席を立って確かめに行った。
アンナとアントニオがジョバンナを目で追う。
ジョバンナはドアを開けるのをためらっていたが再びドアをたたく音が響いたので思い切って扉を開けた。
アンナたちからは何を話しているかわからなかったが、ジョバンナは扉を開けたまま食卓に戻ってきて言った。
「アンナ、あなたに用があるそうよ。」
これにはさすがのフランチェスコも食事の手を止める。アンナはアントニオと一緒に玄関に向かった。ジョバンナが不安げに様子をうかがう。
「アンナ、少し下がっていなさい。お父さんが先に話をしてみるよ。」
アントニオはそういうと空いたままのドアの外を覗いてみた。見るとそこには12歳ほどの金髪の少年が派手な服に身を包んで立っていた。
アントニオが戸惑って話せていないと、その少年のほうから、まだ声変りを終えていない高い声で、まるで台紙を読むように話し始めた。
「この家の家長殿ですか?この家に住んでいるはずのアンナ・シルヴィという娘に用があります。お会いできますか?」
「・・・・え、ああ確かにアンナはいます。私の娘です。ですがアンナにどのような御用でしょうか。」
「数日ほどアンナ様を借り受けます。それ以外は私はご主人様から聞いておりません。」
「いやぁ・・・・そう簡単に言われましても。」
「アンナ様のお姿をお見せしてもらえませんか?」
アントニオは後ろにいたアンナを隣に来させた。少年は顔を明るくし、嬉しそうに言った。
「まさしくこの方です。アンナ様、私たちのご主人様があなたを呼んでおられます。滞在時の必要品はすべてこちらでご用意するので今すぐ出発いたしましょう。」
そういうと少年は合図を出した。少年の後ろにとめてあった1頭立ての馬車から5人くらい、全く少年と同じ顔と姿の男の子たちが出てきた。
突然の展開にアンナとアントニオは焦る。少年たちはアンナのスカートや袖を引っ張って玄関から外にアンナを連れだした。
「やめて、引っ張らないで。父さん!」
アントニオはアンナのほうへ向かおうと外へ出ようとしたが最初に話していた少年が行く手を阻む。
「家長殿、これはアンナ様を借り受ける際の代金です。どうぞお受け取りください。」
アントニオの手にはいつの間にか何かが握られていた。3枚のグロッソドゥカート金貨である。アントニオが顔をあげたときはすでにアンナは馬車に収容という言い方に似合う形で乗っていた。ことの異様さに気付いたフランチェスコとジョバンナも玄関にやってくる。
最初に話しかけた少年は軽い身のこなしで馬車の運転席に飛び乗ると、馬に鞭入れ去って行ってしまった。