転機
第3話
―ピサ大聖堂広場―
大聖堂広場はいつでも人が集まる場所だ。ピサの中でも特に外国人が見たがるものが大聖堂広場にはあるからだ。ピサの斜塔である。
高さは地上55.86m、階段は296段あり、重量は14,453t、5.5度傾いているといわれいる。世界中から集まる、特に欧州からの観光客はこの塔を見て喜ぶ。実際には大聖堂内も豪華なのだが、ピサといえば斜塔といわれるくらいだ、大聖堂はピサ市民、斜塔は外国人と、別れてしまっている。
今のアンナには斜塔はただの気分を落ち込ませるものとしか映らない。祖父フランチェスコに蟄居を命じられたからである。祖父の命令となれば父アントニオや母アリーチェも逆らえない。家をここまで大きくしたのは祖父フランチェスコだったからである。
昔からアンナは斜塔が好きではなかった。傾いているだけで大聖堂よりも注目を集めている斜塔の姿勢が気に入らなかったのだ。まるで世界を動かしているのは男だけと思い込んでいる世間のような、そんな感じがしたのだ。
その大聖堂広場も今日は外国人だけではなくピサ市民も多く来ている。特に女性が多い。アンナも家族の許可を得て近所の女友達に混ざって大聖堂広場に来ていた。
なぜかというと、今日は有名人がピサに入城するからである。ジュリオ・チェザリーニとフィリップ・ド・グライーである。
ジュリオ・チェザリーニはピサ大司教であり、枢機卿だ。フィリップ・ド・グライーはフォワ伯である。
どちらも31歳という若さであり、どちらも相当な美男として知られていた。フィリップ・ド・グライーは父でありグライー家当主ヌムール公爵シャルルの意向でイタリアをめぐっているのだ。ジュリオ・チェザリーニはピサ大司教に任命さればかりだ。ピサには幾度か来ているようだが、ここ20年は来ていない。
「アンナ!ねえアンナ!聞いてる?」
アンナのクルミのようになった脳みそを友人のルクレツィアがたたき起こした。
アンナは全く聞いていなかったのでルクレツィアのほうを向くことしかできない。
「聞いてなかったの?あなた最近変よ、ぼーっとしちゃって。どちらが好みかって聞いたの。」
「どちらが好みって何のこと・・・・?」
ルクレツィアはあきれて黙ってしまった。代わりに同じく友人のマッダレーナが答えた。
「今日のお二人よ、アンナ。ジュリオ猊下とフィリップ閣下、どちらがお好き?」
アンナは考えた。だけど見たこともないのにどうやって好みを知れというのだろう。
「姿も見たことないのにどちらが好きなんて、わからないわよ。」
ルクレツィアはもっともなことを言われてひるんだが、言った。
「見たことないって・・・・。アンナ、新聞を読んだでしょう?ピサの独身の女の子たちの思い浮かべる男性といえば、あのお二人以外にはなくてよ。」
アンナは思い浮かべてみた。あこがれた男性は多い。今は神聖ローマ帝国で軍人をしているハインリヒ・ヴィテルスバッハ、伝説の馬上槍試合選手フランソワ・ドーヴェルニュなどなど、どれもトーナメントで彼女が幼いころ有名になった男たちだ。。だけどどれも彼女には遠い人物だった。その中で唯一、これだと思う男の顔が浮かんだ気がしたが、一瞬だけで思い出せなかった。
アンナが考えに耽っていたその時、城門の扉が重みのある音をあげながらゆっくりと開いた。ピサの市長をはじめとした市庁舎の人々ががせわしなく歩き回る。ルクレツィアはよく見ようと背伸びをする。普段控えめなマッダレーナも今日は興味の目を城門に向けている。
しばらくして、馬に乗った若者の一団が入ってきた。従僕だ。全員同じ衣装を着て同じ髪型と色なのでまるで兄弟のように見える。そのあとに4頭立ての黒い馬車が入ってきた。にわかにその場がざわつく。
馬車は城門から少し行った場所で停止した。扉が従僕の一人の手によって開けられる。中からは男が出てきた。瞬間、女性たちの甲高い歓声が響く。
男はゆっくりと優雅に馬車の階段を降り、顔をあげ、日の光に目を細めながらも歓声を上げる民衆を見回し手を振る。
生糸のような金髪に青い目、まさに例えるなら人形のような完璧な顔である。
従僕たちがファンファーレを吹いて、声をそろえていった。フランス語である。
「Comte de foix et le prochain duc de Nemours, Mr.Philippe de Grailly! (フォワ伯にして次期ヌムール公、フィリップ・ド・グライー様!)」
女性たちはもう、叫び声に近い歓声を上げ、フィリップの顔を見ようと飛び跳ねたりハンカチや花を投げる。ルクレツィアもフィリップサマァァァァ!!と叫び声を上げ続けているため、声がガラガラだ。
フィリップ伯はしばらく笑顔で手を振っていたが歓声を静め、話し始めた。イタリア語であるから民衆にもわかる。
「親愛なるピサ市民、私はフォワ伯フィリップ、この素晴らしく美しい国をめぐっているものだ。この時期はここピサにおいてトーナメントが開催されると聞いてこうして赴いた次第だ。もちろん、美しい諸君を見に来たのもあるが・・・・」
女性たちはお互いの顔を見つめ合いながらまたも歓声を上げる。フィリップ公はそれをまた静め、話し始める。
アンナには女性たちの歓声も、フィリップ公の顔や演説も耳に入らなかった。ただフィリップ公の出てきた馬車の馬4頭に少し関心を持った。どれも良馬である。だが馬車用の馬ではなく、馬上槍試合に使うジョスト専用の馬なのだ。
アンナは馬に見とれると同時になぜジョスト専用の馬を馬車にしているのか考えていたが、フィリップ公の言った言葉がアンナに稲妻を落としたような衝撃を与えた。
「私は女性を尊敬している。ロンドンでは女性運動が盛んだそうだ。ジョストに女が参加したとしても、私は一向にかまわないとさえ思う。」
アンナの体は自然と動いていた。今まで曇っていたピサの曇り空も一気に晴れたように感じた。いきなりの劇反応にルクレツィアやマッダレーナが動揺する。
「アンナ?」
「どうしたのアンナ?」
アンナはそれに答えることなくただただ民衆をかき分けフィリップ公の馬車めがけて走った。民衆の壁は厚かったがアンナはあきらめず進んだ。そして民衆と馬車の間にある空白地帯に飛び出た。いきなりの空白地帯にアンナはその場にこける。フィリップ公はアンナに気付いたようだったが、構わず話そうとする。
「私はピサ大学に一時在籍する。イタリアの進んだ人文教育を・・・・・」
アンナは息も整えず、フィリップ公の声を遮るように大声で叫んだ。
「すみませ―――――ん!」
余りの大声と唐突な声にフィリップ公は口をつぐむ。観衆も何事かと視線を向ける。
アンナは息切れを興しながらも続けた。
「女性が・・・・・ジョスト・・・!」
固まっていた従僕の一団が腰に手をやりアンナに近づこうとしたがフィリップ公はそれをやめさせ、口を開いた。
「気持ちはうれしいが、戻りなさい若き乙女よ。私は君だけのものではなく、すべての女性の・・・・・」
「ジョストには・・・・、ジョストには女性も参加していいんですか?」
「え?」
フィリップは驚いた。てっきり自分のファンだと思っていた、まだ20歳にいっているかというほどの若い女性がジョストに参加できるかという。今までイタリアをめぐっていてファンや暴徒化した観衆を幾度となく退けてきたフィリップも、こんなケースは経験したことがなかった。
しばらく民衆のどよめきと自然音しか聞こえなかった。
アンナもハァ、ハァ、と息を切らしてしゃべることができなかったが、馬車の奥から男の声がアンナを呼んだ。
「女、名をなんという?」
アンナは息を整えそれに答えた。本当にトーナメントに出られるかもしれないと、そのことしかアンナの頭にはなかった。
「アンナ、アンナ・シルヴィです。」
奥にいる男は少し間を置いた後、
「アンナ・シルヴィ、か。覚えておこう。行こうフィリップ。どうせ今回も原稿用紙を用意し何回も練習して覚えただけの演説なのだろう。それにどうやらもうお前の演説は台無しだ。」
フィリップ公は顔を赤らめフランス語で言った。
「H`e, Ne dis pas Jules.(おい、ジュール言うな。)」
そういうとフィリップ公は馬車に引っ込んだ。従僕が素早くドアを閉め、馬の手綱を握ると、あっという間に去って行ってしまった。
残されたのは状況が読み込めていない女性たちと、アンナだけであった。女性たちの投げたハンカチや花が、風に揺られ地面を転がり、この白けた場をそれらしく仕上げていた。