代行者
洗顔をしても、男の鬱屈とした感情は流れなかった。
目の前の鏡には、顔から水を滴らせた自分が映る。蛇口から出る水は、剃った髭と、洗顔料の泡を流している。
――大量の血痕が残されていました。この部屋に住む二十代の女性が行方不明となっており、警察は事件の可能性も含めて調査を進めています――。
リビングから聞こえるテレビの報道は、昨晩と内容が変わらない。もう聞く必要が無い、と思った男は、ネクタイを締める前にテレビを消した。
朝食は摂らず、コップ一杯の水を飲む。窓からコップに差し込む七月の日差し。マンションの室温は快適だが、外は暑そうだ。
現在の時刻は午前七時五十分。まもなく外へ出ないと会社に遅刻する。こんな調子の毎日を、社会に出た二十二才の時から五年間、続けている。
今日も退屈な一日が始まる。そう思った時、男は端正な顔を歪めた。
「代わってやろうか?」
男の背後から声がした。
男が振り向くと、鏡の中に映る自分と目が合った。男は無表情だが、鏡に映った彼は、さも楽しそうに笑っている。
同じ無表情である筈の鏡が。
「お前、行きたくないんだろう。だったら代わりに俺が、外に行ってきてやるよ」
鏡の彼はにやけた表情で、そう続けた。
男は、鏡が自分と違う表情をしている事に、さして驚かなかった。
「馬鹿か」男は鏡の中の自分を蔑んだ。「鏡が、どうやって会社に行くんだよ」
鏡の彼はますます口の端をあげた。
「鏡の中から出るのさ。俺は、特殊だからな」
「特殊?」
「お前の名前は、ほとんど左右対称だろう?」
男は自分の名前を、頭に浮かべた。……姓も名も、ほぼ左右対称の漢字で成り立っている。字体によっては、完璧な左右対称にもなる。
「鏡に映っても名前が変わらない。そういう奴の鏡像は、特殊になる。たまに鏡から出られるようになる。同格の力が備わるんだ」
鏡の彼は、すでに自分は一度は外に出た事があると、愉快そうに話した。
「まぁ、その時は俺も理屈がわかってなかったから、お前に話しかけずに鏡に戻ったけれどな。今も鏡から出られる状態だ。出勤ぐらいしてやるぜ?」
「……今は十三日の金曜日でも、真夜中でも無いだろう」
男が問うと、鏡の彼は頷いた。
「そうだな。今は十九日の木曜日、朝の八時前だ」
「どうして鏡のお前が出てこられるんだ?」
鏡の彼は瞬きをして、大げさに肩をすくめた。
「なんだ。俺が悪魔だと思っているのか? ……生憎だが、俺は悪魔じゃない。お前と同じ事が出来るだけの、ただのそう、代行者だ」
鏡の彼はせせら笑った。
「『合わせ鏡の悪魔』の話を出すとは。お前、随分と少女趣味だな」
「昔の女が、勝手に話しただけだ」
十三日の金曜日、夜中の零時に合わせ鏡をすると悪魔が現れる。それに怯えて夜中の零時十分前に、三面鏡を閉めた女が、男の過去にいた。
「悪魔でないなら話に乗ってもいいかな。鏡から出てみてくれないか?」
「わかった」
鏡の彼が手を伸ばしてきた。
鏡の中から指を出し、鏡の縁を掴む。次に頭、そして胴体、足を鏡から出し、虚像だった彼は実体を持った。
「ああ」と伸びをして「直の光だ」と、感慨深げに言った。
鏡の中は空になったのだろうかと気になり、男は鏡を覗いた。そこには無表情な自分が左右反対で映っていた。
「俺もちゃんと映るぜ」彼が男の横に並び、鏡ごしに笑顔で手を振った。
「お前はもう、鏡の世界には戻らないのか?」男が彼と目を合わさずに聞いた。
「戻るさ。ただ、今日はもうごめんだ」
鏡の彼は上機嫌で、ビジネスバッグを取りに行った。外に出るのが楽しみなようだ。
会社の場所を知っているのかと訪ねると、記憶も複写されているから全てわかる、と彼は言った。
男はとにかく会社を休みたい気分だったので、彼に今日の仕事を託した。
男は一日、自宅に閉じ籠った。無断欠勤を咎める連絡は、会社から来なかった。
午前八時過ぎからパソコンで今朝のニュースを流し見し、次に過去の陰惨な事件を読み漁った。
正午すぎ、水を飲もうと席を立った時に、外の景色を見た。よく晴れている。
眩しい夏の光を見ていると、自分の名前が頭に浮かんだ。
『一番に光り輝け』という親の想いが込められた、左右対称の名前。
光り輝くとは何に対してなのか? 少年時代にそう母親に聞くと『何にでもよ。いつでも輝いていてほしい』という答えが返ってきた。
光り輝く場所には、色濃い影がつきまとう。
いつでも輝いている所があるなら、そこにはいつでも暗い影がある。
外の夏の光と、遠い地面にある色濃い木影を見ながら、男は記憶を辿るのをやめた。
パソコンの前に戻り、鏡について調べてみる。
語源は『影・見』あるいは『輝・見』と知った。
鏡の彼は零時過ぎに帰ってきた。
「ただいま」
玄関の扉が閉まった所で、男は奥の部屋から彼を迎えた。
「残業帰りか?」
「『おかえり』くらい言おうぜ。せっかくお土産も買ってきたんだ」
鏡の彼はそう言うと、男にコンビニ袋を差し出した。
「どうせ今日ろくに食べてないだろ。生きたきゃ、ちゃんと食えよ」
「……どうも」男が袋を受け取って中を覗いた。冷めた焼肉が見えた。
「俺がよく買う弁当だ」
「ああ、俺はお前の分身だからな。好みを知ってる」彼は鏡へ向かった。
彼はまるで水面に手を入れるかのように、たやすく鏡に手を入れていく。鏡にすっぽり入ると、男に語りかけた。
「今日は外に出られて満足した。もしもお前が望むなら、明後日以降、俺に呼びかけてくれ。また代わってやるから」
男は一人残された部屋で、弁当を半分だけ食べた。
翌日は会社に出勤した。鏡の彼は通常通りの勤務を果たしたようで、特に不都合はなかった。
その次の日、男の方から鏡に語りかけた。再び会社に行くように頼むと、鏡の彼は「お安い御用だ」と、鏡から姿を現して出勤した。男はその日、なるべく人目につかない時間を見計らって、ホームセンターへ買い物に出かけた。
鏡の彼の帰りはまた深夜だったので、同じ姿の人間が二人いる事に気づいた者はいなかった。
鏡の彼が語りかけてこない日もあった。気分が乗らなくてただの鏡の振りをしているのか、ただの鏡に戻っているかは不明だったが、そういう日は男は自分で出勤した。
いくつか気になる点はあるものの、鏡の彼は笑顔で出勤し、時には食料などを買ってくる。男にとって役立つ都合の良い存在だったので、深く追求しなかった。
そういった日々が、しばらく続いた。
ある日の会社帰り。男は駅の改札口にいる女性に気づき、足を止めた。
胸元が見えるワンピースを着ているその女は、レースサンダルの踵を揃えて立ち、辺りを見回している。
男は素知らぬ振りで改札口を通り過ぎようとしたが、声をかけられた。
「あ、ねえ」女は男の名前を呼び捨てにし、腕を掴んだ。
馴れ馴れしいと、男は思った。
「……何でしょう」
「何でしょう? ひどいよ。私、一時間も待ったのに」
女はしおらしく俯いたが、その手は男を捕まえたままだ。
「どなたですか」男は顔色を変えずに言った。
「由真に決まってるじゃない。つまらない冗談はやめて」
男は女を忘れた訳ではない。よく覚えているからこそ、無視したかった。男にとって過去の女の一人だったから。
由真は十三日の金曜日の零時十分前に、三面鏡を閉める女だ。
「今からでも大丈夫だよ。ねえ、ご飯、食べに行こう?」
由真は笑顔で、男に体を寄せてくる。その態度に、男は違和感を覚えた。……二、三年会っていないのに、こんな風に接してくるのはおかしい。
思い当たる節はある。
「俺は今日、約束していた?」
「うん」由真は頷いた。「連絡、全然見てくれないし。仕方ないからここで待っていたの」
男は自身の携帯電話を取り出した。普段から携帯の通知音を鳴らさないように設定しているので、連絡に気づく事はない。
以前にブロックした筈の由真のアドレスから、未読の連絡が十三件、入っていた。遡れば、今日の十九時前から彼女が駅で待っていた事が伺える。
「……本当だ」
「ね。私、ちゃんと言われた通りにしたよ。昨日も連絡したかったけれど、駄目だって言われたから、約束の今日まで待ったの」
男の携帯には今日以前のやりとりは記録されていない。
「携帯、少し借して」
そう言って、男は由真の携帯を手にした。画面には自分の知らないやりとりが、七月中旬から九月末日である今日まで、続いている。食事に行く店の予約まで、自分から買って出ている……。
男は由真の携帯電話から、由真に視線を移した。自分より四つ年下の二十三歳。誰もが振り向く美人ではないものの、連れて歩くにはまずまずの顔立ち。胸元が見えるワンピース。
思考は幼稚だと見下していたが、由真の容姿は嫌いではなかった。
「……由真」
男は柔らかい口調で彼女の名前を呼び、携帯を返した。
「よく見て。約束は明日だよ」
明日は鏡の彼が出てくる予定の日だった。
由真は携帯電話のやりとりを見返して、目を丸くした。
「やだ。私、馬鹿やっちゃった。ごめんね」
由真は声を震わせて、何度も男に謝った。
「嫌いにならないでね……。今日はもう、帰るから」
男は、帰ろうとする由真を引き留めた。
「これから店に連絡して、予約が変更できるか聞く」
携帯電話を片手で操作しながら、もう片方の手で由真の手を取り、指を絡める。
「無理だったら、他の店に行けばいいよな?」
男が優しく笑って見せると、由真は子供のような笑顔を見せた。
男が由真と出会った翌日の、早朝。
男が洗面台の鏡を覗くと、鏡の彼はすぐに鏡面から出てきた。男は彼に語りかけずに、リビングへと戻る。
鏡の彼は着ているシャツの匂いを嗅ぎながら、リビングに入ってきた。
「風呂に入っていないな。綺麗好きなお前にしては珍しい」
彼はリビングのソファーにいる男に近づき、立ったまま男の目元を覗き込んだ。
「寝ていない時の目だ。一体どうしたんだ?」
男はソファーに腰をおろしたまま、目を細めた。
「どうしただと? ……お前は俺の記憶も、複写しているんじゃなかったのか」
「女と過ごした次の朝だ。もう少し、明るくてもいいだろう」
「………」
由真と過ごしたのは、鏡の彼がしてきた事をよく確認する目的もあった。
「お前はどうして、由真と、連絡をとった?」
「一番、制しやすい。最中に首を絞めても、ついてくる女は貴重だ」
昨晩、男も由真の事をたやすく感じた。だが再び繋いだ関係を切るのは、たやすくない。
「面倒な事をしやがって」
「面倒? 良い思いをしてきた癖に、そんな事を言うか?」鏡の彼はいつものようにせせら笑った。
「大体、出勤、出勤、買い出しと……俺に、面倒だと思っている事ばかり押しつけてきたよな? 俺はお前と同格だ。同じだ。俺だって面倒だと思う事を、代行してやったんだぞ」
少しだけ声を荒げた。「捨てた女を拾っただけで、眠れなくなるほど怒らなくてもいいだろう」
男は何も言わなかった。
彼は真顔で男を見下ろし、大げさに肩をすくめた。
「まぁ。ここらが潮時かもな」
鏡の彼は壁時計で時刻を確認して、ネクタイを緩めた。
「シャワーを浴びてから仕事に出る」
鏡の彼はネクタイを外した後で、スーツのジャケットを脱いだ。ベルトも外した。
男はいつも自分がする動作を黙って見ていた。
ベルトが濡れるのが嫌いだから、リビングで外すのだ。これ以上は脱衣場で脱ぐ。
予想通り、鏡の彼はベルトをソファーにかけた後、脱衣場へと歩いていった。男は静かに後に続いた。
裸になった彼が浴室に入るや否や、男は彼の後頭部を殴り、背中を蹴った。彼はうめき、浴室に倒れ込んだ。男はこれから出る音を誤魔化す為に、シャワーの栓を全開にした。生ぬるい水が浴室の床を濡らしていく。
「俺はたまに羽目を外すと、その後の人生がうまくいくんだ」
男の手には、リビングから持ってきたベルトがあった。
「……話し合おうぜ」
鏡の彼は両手を上げて、降参の姿勢をとった。
そして男が近づいた途端に、上げていた両手を前に出し、男を全力で突き飛ばした。男の頭が浴室の鏡に当たり、大きなひびが入った。
鏡の彼はその隙に、浴室の戸を引いて開けた。急いで外へ逃げようとしたが、それは後ろからの力で拒まれた。
男は流血しながらも、彼の首にベルトを回す事に成功した。
「ほら、中学の頃も階段からさ」背後からベルトを強く引き、無理矢理、彼を浴室の奥へやる。
言葉は途中、うめき声と水音でかき消される。「……今度は、工作の必要がないな」
男の中で昨晩聞いた由真の苦しげな声と、今聞こえるうめき声が重なった。
昨晩と違って手加減の必要はない。男はもう一周、彼の首にベルトを回すと、力の限り絞めた。
あがく声も、すぐに出せなくなる。彼は残った力で、ベルトを握る男の手を爪で引っ掻く。彼の爪には男の皮膚と産毛が溜まり、男の手には赤い傷跡が、未練がましく残る。
水音。浴槽に足が当たる音。水音。
笑い声。水音。水音。
鏡の彼が完全に動かなくなったのを見て、男はシャワーの栓を閉めた。
首に絞めたベルトを緩めても、息を吹き返す事は無い。
その体を見下ろして『なんて不快な顔をしているのだろう』と、男は思った。
だらしなく舌を出した表情も気に入らないが、とにかく顔立ちが気に入らない。
度々容姿を褒められて生きてきたが、鏡を見て気分が晴れた事は無い。
繰り返しの日々の象徴。利用はしたが目障りな顔だ。
男はあらかじめ七月に用意した鋸を持ってきて、不快な箇所を切り刻んだ。
会社に欠勤の連絡を入れた後で、男は顔が無くなった彼を持ち上げ、鏡面に付けた。
浴室の割れた鏡に、彼の体は抵抗なく入って消える。男の読み通りだった。
血の匂いが充満した浴室。一人残された男の全身は、返り血で汚れていた。
……汚れたスーツを処理すれば、自分の行為は表に出ないだろう。そもそも、存在すべきでない者をこの世から消しただけだ。
これから血を洗い流そう。今日中に、浴室も綺麗に掃除しよう。そうして明日からは……。
「本当に未来を望んでいるのか?」
自分と同じ声がした。
背後の鏡の中からだった。ひび割れた浴室の鏡には、血だらけの自分が何人も映っている。
「影が消えたら光も消えなくちゃ、おかしくないか?」
鏡の中にいる血だらけの自分達が、こちらを見てくる。
「それとも嫉妬を理由にしようか。俺は一人でいいよな?」
鏡から大勢の手が這い出てくる。ベルトを持った手、鋸を持った手もあった。
「まぁ遠慮するなよ。俺達は、お前と同じだからな」
男の体は何本もの手に掴まれ、鏡の中に引きずり込まれた。
何度も見聞きしたニュースが男の頭をかすめる。
――大量の血痕が残されていました。この部屋に住む二十代の女性が行方不明となっており、警察は事件の可能性も含めて調査をすすめています――。
行方不明の女性の名前は、インターネットには出ていた。左右対称だった。
鏡の中は暗い世界だった。元と同じなのは浴室くらいで、脱衣所は入口の方しか存在しない。少し向こうに洗面所の鏡が浮かんでいて、扇状にわずかな景色が広がっている。鏡の外から光が届く所にだけ、景色が広がる世界だった。
そして浴室とそれに続く暗闇には、血だらけの自分が何人も待ち構えていた。顔が無くなった彼ですら、起き上がってこちらに歩いてきている。
男は身震いをした。
これから訪れる危機よりも、まだまだ人を殺せるという喜びを感じた事によって。
やっと気づいた。俺は未来よりも破壊が大事だ。
本当の自分を知った時、男は鏡の彼と同じように笑った。