表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ホラー

代行者

作者: 繭美

 洗顔をしても、男の鬱屈とした感情は流れなかった。

 目の前の鏡には、顔から水を滴らせた自分が映る。蛇口から出る水は、剃った髭と、洗顔料の泡を流している。


 ――大量の血痕が残されていました。この部屋に住む二十代の女性が行方不明となっており、警察は事件の可能性も含めて調査を進めています――。


 リビングから聞こえるテレビの報道は、昨晩と内容が変わらない。もう聞く必要が無い、と思った男は、ネクタイを締める前にテレビを消した。

 朝食は摂らず、コップ一杯の水を飲む。窓からコップに差し込む七月の日差し。マンションの室温は快適だが、外は暑そうだ。

 現在の時刻は午前七時五十分。まもなく外へ出ないと会社に遅刻する。こんな調子の毎日を、社会に出た二十二才の時から五年間、続けている。

 今日も退屈な一日が始まる。そう思った時、男は端正な顔を歪めた。


「代わってやろうか?」

 男の背後から声がした。

 男が振り向くと、鏡の中に映る自分と目が合った。男は無表情だが、鏡に映った彼は、さも楽しそうに笑っている。

 同じ無表情である筈の鏡が。

「お前、行きたくないんだろう。だったら代わりに俺が、外に行ってきてやるよ」

 鏡の彼はにやけた表情で、そう続けた。

 男は、鏡が自分と違う表情をしている事に、さして驚かなかった。

「馬鹿か」男は鏡の中の自分を蔑んだ。「鏡が、どうやって会社に行くんだよ」

 鏡の彼はますます口の端をあげた。

「鏡の中から出るのさ。俺は、特殊だからな」

「特殊?」

「お前の名前は、ほとんど左右対称だろう?」

 男は自分の名前を、頭に浮かべた。……姓も名も、ほぼ左右対称の漢字で成り立っている。字体によっては、完璧な左右対称にもなる。

「鏡に映っても名前が変わらない。そういう奴の鏡像は、特殊になる。たまに鏡から出られるようになる。同格の力が備わるんだ」

 鏡の彼は、すでに自分は一度は外に出た事があると、愉快そうに話した。

「まぁ、その時は俺も理屈がわかってなかったから、お前に話しかけずに鏡に戻ったけれどな。今も鏡から出られる状態だ。出勤ぐらいしてやるぜ?」

「……今は十三日の金曜日でも、真夜中でも無いだろう」

 男が問うと、鏡の彼は頷いた。

「そうだな。今は十九日の木曜日、朝の八時前だ」

「どうして鏡のお前が出てこられるんだ?」

 鏡の彼は瞬きをして、大げさに肩をすくめた。

「なんだ。俺が悪魔だと思っているのか? ……生憎だが、俺は悪魔じゃない。お前と同じ事が出来るだけの、ただのそう、代行者だ」

 鏡の彼はせせら笑った。

「『合わせ鏡の悪魔』の話を出すとは。お前、随分と少女趣味だな」

「昔の女が、勝手に話しただけだ」

 十三日の金曜日、夜中の零時に合わせ鏡をすると悪魔が現れる。それに怯えて夜中の零時十分前に、三面鏡を閉めた女が、男の過去にいた。

「悪魔でないなら話に乗ってもいいかな。鏡から出てみてくれないか?」

「わかった」

 鏡の彼が手を伸ばしてきた。

 鏡の中から指を出し、鏡の縁を掴む。次に頭、そして胴体、足を鏡から出し、虚像だった彼は実体を持った。

「ああ」と伸びをして「直の光だ」と、感慨深げに言った。

 鏡の中は空になったのだろうかと気になり、男は鏡を覗いた。そこには無表情な自分が左右反対で映っていた。

「俺もちゃんと映るぜ」彼が男の横に並び、鏡ごしに笑顔で手を振った。

「お前はもう、鏡の世界には戻らないのか?」男が彼と目を合わさずに聞いた。

「戻るさ。ただ、今日はもうごめんだ」

 鏡の彼は上機嫌で、ビジネスバッグを取りに行った。外に出るのが楽しみなようだ。

 会社の場所を知っているのかと訪ねると、記憶も複写されているから全てわかる、と彼は言った。

 男はとにかく会社を休みたい気分だったので、彼に今日の仕事を託した。


 男は一日、自宅に閉じ籠った。無断欠勤を咎める連絡は、会社から来なかった。

 午前八時過ぎからパソコンで今朝のニュースを流し見し、次に過去の陰惨な事件を読み漁った。

 正午すぎ、水を飲もうと席を立った時に、外の景色を見た。よく晴れている。

 眩しい夏の光を見ていると、自分の名前が頭に浮かんだ。


『一番に光り輝け』という親の想いが込められた、左右対称の名前。

 光り輝くとは何に対してなのか? 少年時代にそう母親に聞くと『何にでもよ。いつでも輝いていてほしい』という答えが返ってきた。

 光り輝く場所には、色濃い影がつきまとう。

 いつでも輝いている所があるなら、そこにはいつでも暗い影がある。


 外の夏の光と、遠い地面にある色濃い木影を見ながら、男は記憶を辿るのをやめた。

 パソコンの前に戻り、鏡について調べてみる。

 語源は『影・かげ・み』あるいは『輝・かが・み』と知った。


 鏡の彼は零時過ぎに帰ってきた。

「ただいま」

 玄関の扉が閉まった所で、男は奥の部屋から彼を迎えた。

「残業帰りか?」

「『おかえり』くらい言おうぜ。せっかくお土産も買ってきたんだ」

 鏡の彼はそう言うと、男にコンビニ袋を差し出した。

「どうせ今日ろくに食べてないだろ。生きたきゃ、ちゃんと食えよ」

「……どうも」男が袋を受け取って中を覗いた。冷めた焼肉が見えた。

「俺がよく買う弁当だ」

「ああ、俺はお前の分身だからな。好みを知ってる」彼は鏡へ向かった。

 彼はまるで水面に手を入れるかのように、たやすく鏡に手を入れていく。鏡にすっぽり入ると、男に語りかけた。

「今日は外に出られて満足した。もしもお前が望むなら、明後日以降、俺に呼びかけてくれ。また代わってやるから」

 男は一人残された部屋で、弁当を半分だけ食べた。


 翌日は会社に出勤した。鏡の彼は通常通りの勤務を果たしたようで、特に不都合はなかった。

 その次の日、男の方から鏡に語りかけた。再び会社に行くように頼むと、鏡の彼は「お安い御用だ」と、鏡から姿を現して出勤した。男はその日、なるべく人目につかない時間を見計らって、ホームセンターへ買い物に出かけた。

 鏡の彼の帰りはまた深夜だったので、同じ姿の人間が二人いる事に気づいた者はいなかった。


 鏡の彼が語りかけてこない日もあった。気分が乗らなくてただの鏡の振りをしているのか、ただの鏡に戻っているかは不明だったが、そういう日は男は自分で出勤した。

 いくつか気になる点はあるものの、鏡の彼は笑顔で出勤し、時には食料などを買ってくる。男にとって役立つ都合の良い存在だったので、深く追求しなかった。


 そういった日々が、しばらく続いた。


 ある日の会社帰り。男は駅の改札口にいる女性に気づき、足を止めた。

 胸元が見えるワンピースを着ているその女は、レースサンダルの踵を揃えて立ち、辺りを見回している。

 男は素知らぬ振りで改札口を通り過ぎようとしたが、声をかけられた。

「あ、ねえ」女は男の名前を呼び捨てにし、腕を掴んだ。

 馴れ馴れしいと、男は思った。

「……何でしょう」

「何でしょう? ひどいよ。私、一時間も待ったのに」

 女はしおらしく俯いたが、その手は男を捕まえたままだ。

「どなたですか」男は顔色を変えずに言った。

「由真に決まってるじゃない。つまらない冗談はやめて」

 男は女を忘れた訳ではない。よく覚えているからこそ、無視したかった。男にとって過去の女の一人だったから。

 由真は十三日の金曜日の零時十分前に、三面鏡を閉める女だ。

「今からでも大丈夫だよ。ねえ、ご飯、食べに行こう?」

 由真は笑顔で、男に体を寄せてくる。その態度に、男は違和感を覚えた。……二、三年会っていないのに、こんな風に接してくるのはおかしい。

 思い当たる節はある。

「俺は今日、約束していた?」

「うん」由真は頷いた。「連絡、全然見てくれないし。仕方ないからここで待っていたの」

 男は自身の携帯電話を取り出した。普段から携帯の通知音を鳴らさないように設定しているので、連絡に気づく事はない。

 以前にブロックした筈の由真のアドレスから、未読の連絡が十三件、入っていた。遡れば、今日の十九時前から彼女が駅で待っていた事が伺える。

「……本当だ」

「ね。私、ちゃんと言われた通りにしたよ。昨日も連絡したかったけれど、駄目だって言われたから、約束の今日まで待ったの」

 男の携帯には今日以前のやりとりは記録されていない。

「携帯、少し借して」

 そう言って、男は由真の携帯を手にした。画面には自分の知らないやりとりが、七月中旬から九月末日である今日まで、続いている。食事に行く店の予約まで、自分から買って出ている……。

 男は由真の携帯電話から、由真に視線を移した。自分より四つ年下の二十三歳。誰もが振り向く美人ではないものの、連れて歩くにはまずまずの顔立ち。胸元が見えるワンピース。

 思考は幼稚だと見下していたが、由真の容姿は嫌いではなかった。

「……由真」

 男は柔らかい口調で彼女の名前を呼び、携帯を返した。

「よく見て。約束は明日だよ」

 明日は鏡の彼が出てくる予定の日だった。

 由真は携帯電話のやりとりを見返して、目を丸くした。

「やだ。私、馬鹿やっちゃった。ごめんね」

 由真は声を震わせて、何度も男に謝った。

「嫌いにならないでね……。今日はもう、帰るから」

 男は、帰ろうとする由真を引き留めた。

「これから店に連絡して、予約が変更できるか聞く」

 携帯電話を片手で操作しながら、もう片方の手で由真の手を取り、指を絡める。

「無理だったら、他の店に行けばいいよな?」

 男が優しく笑って見せると、由真は子供のような笑顔を見せた。


 男が由真と出会った翌日の、早朝。

 男が洗面台の鏡を覗くと、鏡の彼はすぐに鏡面から出てきた。男は彼に語りかけずに、リビングへと戻る。

 鏡の彼は着ているシャツの匂いを嗅ぎながら、リビングに入ってきた。

「風呂に入っていないな。綺麗好きなお前にしては珍しい」

 彼はリビングのソファーにいる男に近づき、立ったまま男の目元を覗き込んだ。

「寝ていない時の目だ。一体どうしたんだ?」

 男はソファーに腰をおろしたまま、目を細めた。

「どうしただと? ……お前は俺の記憶も、複写しているんじゃなかったのか」

「女と過ごした次の朝だ。もう少し、明るくてもいいだろう」

「………」

 由真と過ごしたのは、鏡の彼がしてきた事をよく確認する目的もあった。

「お前はどうして、由真と、連絡をとった?」

「一番、制しやすい。最中に首を絞めても、ついてくる女は貴重だ」

 昨晩、男も由真の事をたやすく感じた。だが再び繋いだ関係を切るのは、たやすくない。

「面倒な事をしやがって」

「面倒? 良い思いをしてきた癖に、そんな事を言うか?」鏡の彼はいつものようにせせら笑った。

「大体、出勤、出勤、買い出しと……俺に、面倒だと思っている事ばかり押しつけてきたよな? 俺はお前と同格だ。同じだ。俺だって面倒だと思う事を、代行してやったんだぞ」

 少しだけ声を荒げた。「捨てた女を拾っただけで、眠れなくなるほど怒らなくてもいいだろう」

 男は何も言わなかった。

 彼は真顔で男を見下ろし、大げさに肩をすくめた。

「まぁ。ここらが潮時かもな」

 鏡の彼は壁時計で時刻を確認して、ネクタイを緩めた。

「シャワーを浴びてから仕事に出る」

 鏡の彼はネクタイを外した後で、スーツのジャケットを脱いだ。ベルトも外した。

 男はいつも自分がする動作を黙って見ていた。

 ベルトが濡れるのが嫌いだから、リビングで外すのだ。これ以上は脱衣場で脱ぐ。

 予想通り、鏡の彼はベルトをソファーにかけた後、脱衣場へと歩いていった。男は静かに後に続いた。

 裸になった彼が浴室に入るや否や、男は彼の後頭部を殴り、背中を蹴った。彼はうめき、浴室に倒れ込んだ。男はこれから出る音を誤魔化す為に、シャワーの栓を全開にした。生ぬるい水が浴室の床を濡らしていく。

「俺はたまに羽目を外すと、その後の人生がうまくいくんだ」

 男の手には、リビングから持ってきたベルトがあった。

「……話し合おうぜ」

 鏡の彼は両手を上げて、降参の姿勢をとった。

 そして男が近づいた途端に、上げていた両手を前に出し、男を全力で突き飛ばした。男の頭が浴室の鏡に当たり、大きなひびが入った。

 鏡の彼はその隙に、浴室の戸を引いて開けた。急いで外へ逃げようとしたが、それは後ろからの力で拒まれた。

 男は流血しながらも、彼の首にベルトを回す事に成功した。

「ほら、中学の頃も階段からさ」背後からベルトを強く引き、無理矢理、彼を浴室の奥へやる。

 言葉は途中、うめき声と水音でかき消される。「……今度は、工作の必要がないな」

 男の中で昨晩聞いた由真の苦しげな声と、今聞こえるうめき声が重なった。

 昨晩と違って手加減の必要はない。男はもう一周、彼の首にベルトを回すと、力の限り絞めた。

 あがく声も、すぐに出せなくなる。彼は残った力で、ベルトを握る男の手を爪で引っ掻く。彼の爪には男の皮膚と産毛が溜まり、男の手には赤い傷跡が、未練がましく残る。

 水音。浴槽に足が当たる音。水音。

 笑い声。水音。水音。


 鏡の彼が完全に動かなくなったのを見て、男はシャワーの栓を閉めた。

 首に絞めたベルトを緩めても、息を吹き返す事は無い。

 その体を見下ろして『なんて不快な顔をしているのだろう』と、男は思った。

 だらしなく舌を出した表情も気に入らないが、とにかく顔立ちが気に入らない。

 度々容姿を褒められて生きてきたが、鏡を見て気分が晴れた事は無い。

 繰り返しの日々の象徴。利用はしたが目障りな顔だ。

 男はあらかじめ七月に用意した鋸を持ってきて、不快な箇所を切り刻んだ。


 会社に欠勤の連絡を入れた後で、男は顔が無くなった彼を持ち上げ、鏡面に付けた。

 浴室の割れた鏡に、彼の体は抵抗なく入って消える。男の読み通りだった。

 血の匂いが充満した浴室。一人残された男の全身は、返り血で汚れていた。

 ……汚れたスーツを処理すれば、自分の行為は表に出ないだろう。そもそも、存在すべきでない者をこの世から消しただけだ。

 これから血を洗い流そう。今日中に、浴室も綺麗に掃除しよう。そうして明日からは……。

 

「本当に未来を望んでいるのか?」

 自分と同じ声がした。

 背後の鏡の中からだった。ひび割れた浴室の鏡には、血だらけの自分が何人も映っている。

「影が消えたら光も消えなくちゃ、おかしくないか?」

 鏡の中にいる血だらけの自分達が、こちらを見てくる。

「それとも嫉妬を理由にしようか。俺は一人でいいよな?」

 鏡から大勢の手が這い出てくる。ベルトを持った手、鋸を持った手もあった。

「まぁ遠慮するなよ。俺達は、お前と同じだからな」

 男の体は何本もの手に掴まれ、鏡の中に引きずり込まれた。

 

 何度も見聞きしたニュースが男の頭をかすめる。

 ――大量の血痕が残されていました。この部屋に住む二十代の女性が行方不明となっており、警察は事件の可能性も含めて調査をすすめています――。

 行方不明の女性の名前は、インターネットには出ていた。左右対称だった。


 鏡の中は暗い世界だった。元と同じなのは浴室くらいで、脱衣所は入口の方しか存在しない。少し向こうに洗面所の鏡が浮かんでいて、扇状にわずかな景色が広がっている。鏡の外から光が届く所にだけ、景色が広がる世界だった。

 そして浴室とそれに続く暗闇には、血だらけの自分が何人も待ち構えていた。顔が無くなった彼ですら、起き上がってこちらに歩いてきている。

 男は身震いをした。

 これから訪れる危機よりも、まだまだ人を殺せるという喜びを感じた事によって。


 やっと気づいた。俺は未来よりも破壊が大事だ。 

 本当の自分を知った時、男は鏡の彼と同じように笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 鏡の彼が男にとって都合のいい存在というだけではないと思っていましたが、話を読み進める度にいい意味で予想が裏切られるストーリ性の高さが魅力的な作品でした。 鏡の中にいるもう一人の自分が現実世…
[良い点] ・なぜ鏡から出てこれたかの点 ・文章の硬質さ、硬質なまま熱と湿度を描き切られたこと ・「気分が乗らなくてただの鏡の振りをしているのか、ただの鏡に戻っているか」のくだり ・弁当を買ってきてく…
[良い点] ありがちな「成り代わりエンド」を想像していましたが、思わぬ展開に、物語に引き込まれました [一言] 多重人格が見せる幻像…と、解釈しました 内面世界における自己対話の結果…ということかな…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ