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臥龍  作者: 天野 頌
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ガリョウ

「あなたは謳いたくなるでしょう。葉が落ちる頃に。」


 彼女は笑顔で、そう言った。陽が暮れかけていて、しっかりとその表情を見ることが出来ない、いや、私は見ようとしなかった、彼女の心の中は見えないけれど、その少しかすれた声からは奥深い何かを感じた。髪が長く、声は高い、背はそれほど高くなく、痩せている。幼女のようであり、それでいて老婆のような不思議な女。暗い、光が何も見えないような、それでいて大きな波の音が彼女の周囲を取り囲んで虚しく響くような、世の中の全ての生き物を恨むような、真っすぐどこかを見つめていながら、希望を探してもがいているような、そんないくつもの表情が見えるような気がして私はひどく恐ろしくなった。どうしてこんな表情が出来るのか。どうしてこんな表情にならないといけないのか。

 人生には何度か心臓が落っこちてしまうのではないか、というくらいの悲しい場面に出会うことがある。ストンと何かが落ちる感じ、肩に大きな重荷がのしかかってくるような感じ、世の中は私の不幸を望んでいるのではないかという感じ、すれ違う人みんなが幸せに見えて自分だけがこの地球の真ん中に取り残される感じ(地球の中心だと思っているところが、どこか利己的なのだが)、それでいて天から見たらこんな自分の存在なんてなんてちっぽけだと思ったり、それらしい表情をしている自分が可笑しくなったり。そんなことが、私にも、ある。

 般若心経では人生は空だなんて説いているけれど、そんなことは老年になってから思うのだろう。死の間際に思うのだろう。少なくともまだ若輩者の人生経験の浅い、この私にそんなことを考える余地はどこにもなかった。そんなこと少しも考えられないような素晴らしく悲しい出来事が襲い掛かることが、人生には何度かあるんだ。汝、隣人を愛せよ、そんな大それたことは言えない。それは一度でも愛されたことがある人が言う言葉である。どうしてこんな風になってしまったのか、考えながらも希望を見据えることが出来る私は、彼女の悲しみを少しでも理解したいと思った。

兎に角、目の前の彼女を見て(正確には見ていないのだが)私はこう思った。葉が落ちるとは一体どういうことだろう。


 ハッと目が覚めた。何時間眠っていただろう。一月二日。元日ではなくその次の日にこんな夢を見るなんて、全く私らしい。なぜ一年の始まりではないのだろう、若しくは一年の終わりではないのだろう。振り返ると私はいつでも容量が悪く、何かと損ばかりしていた。損なんて考えているこの思考回路が悪いということはよくわかるのだが、どうも自分を変えるのは難しいらしい。ましてやこんな私が人を変えるなんて決して思ってはいけない。いけないのだ。友人からはいつも良い人だと言われる。自分の利益を優先するなんて、誠に卑しい人間だ。そのような行動で誰が幸福になるのだ、そんなことを父が頻繁に言っていた。

 ある日、友人からあるはずもない噂話を持ちかけられた。それは私の友人が陰で私を裏切っているということであった。火のない所に煙は立たぬ、そんな不安もあって、私はどんどん疑心暗鬼になった。噂話を持ち掛けた友人も気に入らなかった。どうしてそんな話を私にするのだろうか。私を不幸にさせたいのだろうか。結局その噂は全くのデマだった。しかし、私は友人の望み通り不幸になった。まるで人の望みを叶えるための道化師。周囲のみんなは傀儡子とでもいったところか。どういうことか、また利己的になってしまった。私は自分のことが、意外と好きなのかもしれない。ふっと笑う。外は真っ暗だ。

 いずれにせよ、父のあのような教育を受けてきてしまったから、いつまでも世間体を気にしないようにして、その癖人一倍気にしているなんていう矛盾だらけの人間が出来上がってしまった。幼児教育というものは誠に恐ろしいものだ。キリスト教の精神は恐ろしい。正直者が馬鹿を見るシステムである。しかし、実際、肉体が無くなって精神や魂のようなものが残ったとき、そこでこの考えが生きてくるのかもしれない。私はそう信じたくなってきた。いつか、精神や魂だけになったとき、本当の世界に出会えるのかもしれない。そのために今は仮の姿で精一杯苦しいふりをして、さも苦行をしているような面を易々としているのかもしれない。神様、どうかこのような醜い私をお赦しください。

 そうだ、世の中には、幸せになるべき人がたくさんいる。そういう人に限って、幸せではないような気がする。彼女も、幸せになるべき人だ。なぜだか、そんな気持ちを強く感じた。夢から覚めると、彼女はいなかった。夢の中の人物だったのに、ものすごく鮮明に頭の中に残っている。昔から知っているようで、初めて出会うようで。そんな気がした。どうしてあの人は、あんなに悲しそうな表情をしていたのだろうか…。

 そんなことを思いながら、東京の街を出歩いてみた。特に用もないけれど、なんとなく部屋にいたくない時間だった。靴を履いて、玄関を開ける。空が狭い、星がポツポツ見える。長年田舎の夜空を見上げていた私は、こんな空でも見上げてしまう。この癖はどうにもならない。きっと、ニューヨークに行っても、砂漠に行っても、同じように空を見上げてしまうのだろう。そう、それはただの癖なのだ。星が見えるかどうかはもはや関係がない。私のアイデンティティとでもいったところであろうか。シャッシャッ。東京は一息つく場所ではないなとつくづく思う。誰もが生き急いで、目新しいものを探して、刺激的で、とてもとても悲しい。人間はこんな時でも前向きに歩けるんだと、どこか客観的になってみる。シャッシャッ。

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